第91話 魔眼のカイル
首筋にひやりと冷たい剣の感触がする。
「何をしていた」
リシュレナに馬乗りになったまま、男が問う。向けられる眼光には敵意しかなく、それはリシュレナの首筋にぴったりと突き付けられた剣の刃からも伝わった。
額を縛る紺色の布は意図的に斜めに縛られていて、青年の左目を覆い隠している。怪我をしているのか、あるいは元から見えないのか。判断はつかなかったが、青い隻眼の冷たさはそれだけでリシュレナを金縛りにした。
強く押え付けられた右肩がきしりと悲鳴を上げる。声も出せず目もそらせないまま、リシュレナは悲鳴と一緒に固唾を呑み込んだ。
「言え! ロアに何をしていた!」
ただでさえこの状況に怯えているというのに、拍車をかけて怒鳴られては言葉を紡ぐことさえままならない。無言のリシュレナに痺れを切らしたのか、男の目が苛立たしげに細められた。
男の持つ剣がグッと押し込まれ、一瞬の鋭い痛みのあとに何かが首筋を伝う。斬られたのだ。そう実感すればするほど体は萎縮して、リシュレナの唇は完全に凍えきってしまった。
「女でも容赦しない。言わないのなら、このままお前の首を斬るだけだ」
「……っ」
待って、と口にしたはずの声は掠れすぎて届かない。
こんな所で、何も成し遂げられないまま死んでいくのか。わがままを許してくれたエヴァに申し訳ない気持ちが込み上げて、男を見上げる瞳にじわりと涙があふれた。
どうせ死ぬのなら、せめて一矢でも報いたい。リシュレナが右手に持った杖を握りしめたその時。まるでそよ風に似た穏やかさで、二人の間を分かつ落ち着いた声が響き渡った。
「待て、カイル」
声を発したのは先程の竜だった。カイルと呼ばれた男の意識が一瞬逸らされ、リシュレナを拘束していた力がわずかに緩む。その隙をリシュレナは逃さなかった。
「暗黒の空を裂く
「お前……っ!」
「左手に嘆きの……っ」
呪文を最後まで唱える前に、リシュレナの口が男の手のひらによって塞がれる。それでも中断された魔法の名残は水晶に宿っていて、リシュレナがかすかに杖を振ると、バチッという音と共に小さな光球が男めがけて弾き飛ばされた。
「……っ!」
間近で破裂した光を避けようとして、男がリシュレナの上から飛び退いた。その隙にリシュレナは転がるようにして端に寄り、男と十分な距離を取る。素早く周囲に結界を張り、杖を男に向けていつでも攻撃できるよう体勢を整えた。
「……チッ。魔法使いが!」
苛立たしげに舌打ちして、男がゆっくりと立ち上がった。
頭に巻いていた紺色の布が、はらりと男の足元に落ちる。端が焦げていることを見れば、先程の攻撃が掠めたのだろう。
再度こちらを睥睨する男の瞳に、リシュレナはハッと息を呑んで立ち竦んだ。
男の左目は怪我をしているわけでも、元から見えないわけでもなかった。
紺色の布に隠されていた左目。隠さなければならない意味を、リシュレナはその色に知る。
澄んだ青と対を成すように、男の左目は鮮血の赤に輝いていた。
「あなた……っ」
その色は凶。世界中どこを探しても「人」にはあるはずのない、呪われた色彩。異種として恐れ、忌み嫌われるもの。
「魔族っ!?」
けれど男の右目は青く清らかだ。聖と邪、異なるふたつの色彩を併せ持つ男は、一体何者なのだろう。そう、純粋に疑問を抱く。
リシュレナを攻撃した力には敵意しか感じなかったが、改めて対峙してみれば男からは魔物が持つ邪悪さは少なくともないような気がした。
「……その瞳」
「今から死ぬお前には関係のないことだ」
冷たく言い放ち、男がリシュレナに剣を向けた。その切っ先が再びリシュレナを傷つける前に、蒼銀色の大きな翼が二人の間に滑り込んだ。
「落ち着け、カイル。この娘は私を救ったのだ」
まるでリシュレナを守るかのように広げられた翼を見て、男が今度こそ完全に戦意を失って大きく目を見開いた。
「ロア!? お前、羽の傷は……」
男が驚くのも無理はない。蒼銀色の竜――ロアの片翼に穿たれていた傷の穴がどこにもないのだ。変わらず鮮血はこびり付いてはいたが、そうっと羽根を掻き分けてみても翼のどこにも傷跡が見当たらない。まるで元から怪我などしていないかのようだ。
「本当に……? あの傷が治った、のか?」
「見ての通りだ。この娘の魔法力には、正直驚いた。傷の治癒などではない。あれは……時間魔法だな?」
ゆるりと首を寄せられ、金色の瞳でじっと見つめられる。何も悪いことなどしていないのに、まっすぐに向けられる視線にリシュレナは少しだけ萎縮してしまった。
「え、えぇ、そうよ。治癒魔法よりも時間魔法で時を戻した方が、竜のあなたにはいいと思ったのだけど……まずかったかしら」
「いや、そうではない。少し……懐かしかったのだ。私はロア。これはカイル。娘よ、傷を治してくれてありがとう。心から感謝する」
わずかに首を下げて感謝の意を表したロアの横では、これ、と呼ばれたカイルが居心地悪そうに頬を掻いている。自分が勘違いしていたことを悟ったらしく、さっきからずっとリシュレナと視線を合わせない。それでもロアの尻尾に足を軽く叩かれると、ようやくリシュレナをチラリと見て「悪かったな」と素っ気なく呟いた。
「もっと誠意を込めて、カイル。この娘がいなければ、きっと私は無事では済まなかった」
「あ、もういいの。私も勝手しちゃったし。それに……こんなに綺麗な竜を間近で見ることができたんだもの。それだけで十分だわ。おまけに喋る竜なんて、伝説の神龍イルヴァールみたい!」
「神龍と比べるなど畏れ多いことだ。私はただの竜に過ぎない。今はカイルの親代わりでもあるが」
「親代わり?」
「そうだ。生まれて間もないカイルを拾い育てたのは、この私だ」
「え!? 竜に育てられたの!?」
「喋りすぎだ、ロア」
驚いてカイルの方を見れば、突然白い布を投げて寄越される。何事かと慌てて受け取るとすると、ツンと鼻につく薬草の匂いがした。
「首に当ててろ。それくらいの傷ならすぐ治る」
そういえばカイルに首の薄皮を切られていたことを思い出す。言われるまで忘れていたくらいだから、傷としてはそう深くもないのだろう。それにリシュレナなら、これくらいの傷を治すなど造作もない。
「でもこれくらいなら魔法で……」
「いいから当ててろ。俺の気がすまない」
ぶっきらぼうにそれだけ言うと、カイルはリシュレナとロアから少し離れた場所へ、こちらに背を向けて座り込んでしまった。
「素直じゃないのだ。許せ」
「……ううん、ありがとう。えぇと……カイル? 使わせてもらうわね?」
ややあってから、「あぁ」と聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声がした。それが何だかかわいく思えて、リシュレナはちょっとだけ笑ってしまった。
首に当てた薬液は冷たいのに、渡された白い布はカイル思いが染み込んでいてあたたかい。
最初は本気で殺されるかと思ったが、根は悪い人間ではないのだろう。それに聖獣と呼ばれる竜に育てられたのだ。魔族しか持たない赤い目をしていても、彼を恐れる気持ちはもうリシュレナの中にはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます