第90話 蒼銀色の竜

 そこは、すべての命を見捨てた場所だった。


 かつてこの地に住んでいた住人をひとり残らず見殺しにし、真実の愛に生きようとした恋人たちを一瞬にして引き裂き、翼ある人々を国ごと永遠に飲み込んだ。

 数え切れないほど多くの命を奪った地は、死してもなお他者の介入を拒むかのように、国全体に強固で複雑な結界が張り巡らされていた。


 それは、誰かの願いだったのかもしれない。

 この地で起こる悲劇が、最後であるようにと。



 ごうっと一層強く風がうねった。その衝撃を間一髪で避けて上昇した蒼銀色の大きな竜が、白と黒の尾を引いて渦巻く巨大な風壁をぐるりと旋回した。

 性質のまったく異なる二つの力は複雑に絡み合い、時に激しく反発しながら、呪われた地と呼ばれる魔界跡ヘルズゲートをすっぽりと覆い隠して、そこに空まで届く巨大な竜巻を形成していた。


 触れれば一瞬にして粉々に打ち砕かれる。竜巻に引き寄せられ宙に浮く岩石同士がぶつかり合い、更に細かな石となって空を舞う。

 巻き上げられては粉砕される岩石のひとつに人影があった。影は岩が砕ける一足先に、別の岩へと素早く移動していく。その影に寄り添うように、先程空へと上昇した蒼銀色の竜が二枚の翼を羽ばたかせてゆっくりと近付いた。


「カイル! カイル、ここは危険だ。引き上げよう!」


 緊迫した声で告げた竜へちらりと目を向けて、カイルと呼ばれた青年が足場を移動しながら渦の中を指差した。


「あそこに一箇所だけわずかな隙間を見つけた。上手くいけば中に入れるかもしれないぞ!」

「駄目だ。危険すぎる。この魔力の壁は我らと質が……っ!」


 そこまで口にした竜が、次の瞬間素早く首を巡らせて渦巻く風壁を鋭く睨みつけた。白と黒の計り知れない大きな力。それが、ほんの数秒だけ黒に覆い隠される。と同時に、大気を震わす竜の声が響き渡った。


「カイルっ、逃げろ!」

「ロア?」


 状況を把握する間もなく、カイルはロアによって岩の上から地上へと弾き飛ばされた。受身を取りながら落下していくカイルの視界に、黒い霧に似た触手によって片翼を貫かれたロアの姿が鮮明に映る。次いで降り注ぐ、赤い雨。


「ロアっ!」


 伸ばしたカイルの手はロアには届かず、代わりに生温かい液体が指先をかすめていく。竜巻が生み出す悲鳴に重なって、けたたましい絶叫が辺りにびりびりと木霊した。



***



 こんなはずではなかったと、リシュレナは深い霧の中で立ち往生していた。一応地図は持っているものの現在地すらわからないので、どれだけ眺めても同じことだ。


「やっぱり、言うこと聞いてればよかった……かな」


 この山に登る前、麓の村で地図を買った時だ。店主の男から、リシュレナはちゃんと忠告を受けていたのだ。


『嬢ちゃん、今からあの山に登るのかい? やめといた方がいい。じきに夜が来る』

『心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ。野宿する準備もしてきたし』

『問題はそこじゃねぇ。あの山は夜になると深い霧が立ちこめるんだ。それに、最近じゃ魔物も住み着いたって噂でな。何でも夜になると、霧の向こうから恐ろしい唸り声が響いてくるんだと。行ったが最後、嬢ちゃん魔物に食い殺されるぞ』


 魔物が怖くなかったわけではない。けれどリシュレナは多少のことなら魔法で対処できると思っていたし、何よりもこんな所で足止めを喰らっているわけにはいかなかったのだ。

 黒い夢の声は旅に出てからも変わらずリシュレナを苦しめたし、日増しに夢の時間が長くなっているような気もした。不安と焦りが冷静な判断を奪い、リシュレナの足を魔物が住まう山へと導いたのだった。


 地図の通りに進めば、山頂まで二時間ほどで着けるだろう。ギリギリ夜が来る前に、山頂の大樹の下で野宿できるはずだと強引に突き進んで。


(まさか迷うなんて……)


 地図に描かれていた一本道はいつしか獣道に変わっていて、生い茂る草木に進むべきを見失い、リシュレナは山頂どころか前も後ろもわからない霧の中で迷子になってしまったのだ。


(迷ったと思った時点で、むやみに歩き回らなければ良かった)


 とりあえず休めそうな場所だけでも探そうと、霧深い周囲を見回したその瞬間。


「グワアアァァッ!」


 まるで山全体を激しく揺らすように、獣の咆哮が轟いた。

 思った以上に近い位置だ。霧で周囲が隠されていなければ、リシュレナのすぐ目の前に魔物がいるのかもしれない。

 緊張に息を殺して、杖をぎゅっと握りしめる。相手に気取られないよう小声で自分の周りに防御結界を張り、リシュレナは霧の白と夜の黒に染まりつつある視界を必死に凝視しながら魔物の気配を探った。


「ガアアァァァァッ!」


 しばらく息を潜めていると、また声が響き渡った。さっきとは違い意識を集中していたからか、リシュレナにはその叫びにかすかな苦痛の色が滲んでいることを感じ取った。


(苦しんでる? 怪我をしているのかしら)


 響く声があまりに痛々しくて、できるなら助けてやりたいと思ってしまうほどだ。けれど声の大きさからして、きっと魔物の体はとても大きいことが予想できる。助けたいと前に出た瞬間、魔物の攻撃にあっけなくやられてしまうかもしれないのだ。

 手負いの獣は恐ろしい。せめて遠くから様子を見ることができたなら、獣の前に出ずともリシュレナの魔法で助けてあげられるかもしれない。

 そう思って歩き出したところで、リシュレナはふっと我に返った。


 なぜ、この獣を助けたいと思うのか。

 魔物ならば助けない方が身のためだ。頭ではわかっているのに、リシュレナの心はこの獣の叫びにさっきからひどく心が揺さぶられている。


「……どうして?」


 偽善などではない。

 声の主を知っているような気がした。そんなことがあるはずもないのに。


「グアァァァァッ!」


 またも響いた絶叫に、もうリシュレナは考えるよりも走り出していた。前も、ともすれば足元さえ見えない霧の中、獣の声のする方へ走る。走る。その足がくうを踏んだと気付いたのは、体がぐらりと傾いだからだ。

 視界の悪いなか走り回れば、足を踏み外すのは当然で。リシュレナは大きく体を投げ出して、崖の上から滑り落ちてしまった。


「きゃあ!」


 ごろごろと、急な斜面を転がり落ちていく。それでも大きな怪我を負わずに済んだのは、最初に張っていた防御結界のおかげだった。

 頬を、湿った草が撫でていく。濃い土の匂いにゆっくりと瞼を開けると、霧の白でも草木の緑でもない、不思議な色彩が飛び込んできた。


 雲ひとつない空の蒼のようで、それでいて夜空を彩る星明りの銀にも似ている。これほど不思議で、そしてこれほど美しい色をリシュレナは今まで見たことがなかった。ただただ美しくて、人智を超えた存在であるかのように神々しい。


 リシュレナの目の前にいたのは、蒼銀色の体をした一頭の大きな竜だった。


「……うそ。こんな所に……」


 竜は聖獣と呼ばれるほど尊く貴重な生物で、普段は滅多に目にすることがない。彼らはアーヴァンからは遠く南の地、ルヴァカーン山脈を越えた先にある龍神界アークドゥールにしか生息しないのだ。

 それに現在生き残っている竜は、深緑色の体をした飛竜のみと聞く。英雄アレスと共に世界を救った神龍イルヴァールも、いつしかその姿を消してしまった。


 それなのに、今リシュレナの目の前にいる竜は、そのどちらでもなかった。

 飛竜とは違い、その体は蒼銀色。翼は皮膜ではなく、羽根を重ねたものだ。昔一度だけ見たことのある飛竜よりも、その体つきは大きいように感じた。不思議な色の羽毛は触らずともそのやわらかさがわかるほどだったが、今はどす黒い血で所々がこびり付いてしまっている。

 蒼銀色の竜は片翼に大怪我を負い、力なく蹲っていた。


「待ってて。いま助けてあげるから!」


 杖を片手に、リシュレナは竜へと駆け寄った。警戒心の強い竜がリシュレナに気付かないはずはないのだが、首をわずかに動かしただけで、視線すら合わせることはなかった。それほどまでに衰弱しているのだろう。


 地面に投げ出された片翼のそばにより、その傷跡を見る。鋭い何かで貫かれたように、美しい翼には大きな穴が開いていた。


「ひどい……」


 傷口に向けて杖を掲げ、深呼吸をして目を閉じる。リシュレナの魔力に反応して杖の水晶が淡く光り、その中に金色の時計の文字盤が浮かび上がった。


「悠久の時を機織るユーリスベル。去来の糸を紡ぐスラヴァール。我に応えよ。我が名はリシュレナ。時を操る我が望むは過去の撚り糸。糸を紡ぎ、過去への道を織り示せ」


 水晶から光が溢れ出し、中に刻まれた時計の文字盤の影が竜の傷ついた翼に反射した。秒針の影はゆるりと反時計回りに回転を始め、まるで時を巻き戻すかのように翼に開いた穴がみるみるうちに塞がっていく。

 傷を治すだけなら一般的な治癒魔法でもよかったのだが、竜の翼は向こう側が見えるほどに大きく穴が開いていた。治癒魔法で骨まで治すことは不可能ではないが、再び空を飛べるまでおそらく数日は安静にしなくてはならないだろう。

 竜にとって翼は命だ。ならば治癒魔法ではなく、時間魔法で傷をなかったことにした方が彼にとってはいいと判断してのことだった。


 時間魔法は体力と精神力を大幅に消耗する。けれども蒼銀色の竜が驚いたように首をあげ、金色の瞳でリシュレナを見つめてくれただけで疲れなど一気に吹き飛んでしまった。


「……」


 痛みが消えたことを確認しているのか、蒼銀色の竜が背中の翼をゆっくりを広げてみせる。それだけでも圧巻の美しさに、見惚れてしまう。


「もう大丈夫よ。傷はちゃんと消したから」


 リシュレナの言葉がわかるのか、竜がゆっくりと首を動かして顔を近付けてくる。その鼻先に触れてもいいのかと、恐る恐る手を伸ばした次の瞬間。


「動くな」


 背後で声がしたかと思うと、リシュレナは強い力で地面に仰向けに引き倒されていた。反射的に身を起こそうとしたその首元に、ぴったりと冷たい刃が当てられる。

 見開いた視界に映るのは、恐ろしく冷たい目をした金髪の青年だった。



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