第89話 純白の法衣

 薄暗い室内。

 白い布を被せた台座に、ひとつの水晶球が置かれていた。淡い光を発しながら、琥珀色の髪をした女――リシュレナを映し出す水晶球。その周りに三つの人影が佇んでいる。


「動き出したか」


 一番背の高い影が、しっかりとした男の声で呟いた。それに答えるように、一番小さな影が子供の声で相槌を打つ。


「思ったよりも覚醒が早いようだね」

「夢を見ると言っていたの。……復活が近付いているようじゃな」


 そう言った老人の声に、二つの人影も肯定するように頭を下げる。


「しかし、今はまだその時ではない。大事ないよう、監視せねばなるまいの。道具は道具として、その時まで在れば良い」


 その言葉に再度頭を下げた二つの影が、次の瞬間同時にその場から姿を消した。後に残った影は骨ばった指を水晶球に這わせて、その中に映る人物をくすんだ瞳でいつまでも見つめていた。


「リシュレナ。……止まった運命を動かす、唯一の鍵を握る娘よ」


 もうひとつの闇の中で、新たな歯車が回り始めようとしていた。



 ***



 月の光が闇に隠れた深夜。リシュレナは少ない荷物と自分用の杖を持って、学生寮をこっそりと抜け出した。

 昼間の様子から考えるに、エヴァはリシュレナが魔界跡へ向かうことを良しとしないだろう。心配をかけてしまうのは心苦しいが、せめてもの罪滅ぼしにと部屋にはエヴァに当てた手紙を置いてきた。


 学生寮を抜け出し、静まり返ったアーヴァンの路地を歩いていく。

 住み慣れた街を出て、見知らぬ土地へ旅立つことに不安がないと言えば嘘になる。けれどこのまま引き返せば、リシュレナは永遠にあの夢からは逃れられない。ならばこちらから出向いて真相を突き止めてやるのだと、気を抜けば弱気になる気持ちをむりやりにでも奮い立たせてリシュレナは先を急いだ。


 リシュレナを魔界跡へと呼ぶ、不気味な声。それとは別に、実はリシュレナにはもうひとつ幼少期からずっと見ていた夢がある。悪夢が膨張して、今ではあまり見ることも少なくなってしまったが、それは三百年前に起こった月の厄災の夢だ。

 夢の中でリシュレナはレティシアになり、彼女の思い、記憶を自分のものとして感じてきた。時には目覚めた自分がどちらであるか、曖昧になるほどに。


 リシュレナにとって、レティシアは特別だ。憧れという言葉では言い表せない感情を持っている。だからこそ月の厄災の物語に惹かれ、悪夢の中で語りかけるヴァレスかもしれない声をこんなにも危険視しているのだ。


 謎に満ちた魔界跡ヘルズゲート。危険を冒してまで向かう地に、想像していたものはないのかもしれない。けれど思い過ごしならば、それが一番いいのだ。


 深く息を吸い込んで、リシュレナは背後に見える魔法都市アーヴァンの神殿をすみれ色の瞳に焼き付けた。そして母代わりであるエヴァに、心の底から謝罪した。


「エヴァ様、ごめんなさい。……でも私、どうしても行って、この目で確かめたいのです。きっと無事に帰ってくるから」


 届くはずのない言葉を夜風に乗せて、リシュレナは思いを断ち切るように前を向く。その瞳が前方に立つ水色の人影を確認するより先に、リシュレナの耳に聞き慣れたエヴァの声が届いた。


「謝るくらいなら、このまま寮へ戻っても構わないのよ? ……と言っても、あなたのことだからもう戻りはしないのでしょうけれど」

「エヴァ様!? どうして」

「一度言い出したら聞かない子ですもの。レナ、あなたのことは何でもお見通しのつもりよ」


 そう言ってエヴァは、半ば諦めたような笑顔を浮かべてリシュレナにゆっくりと近付いた。


「本来ならば学院に籍を置く魔道士が、四賢者の許可無くしてアーヴァンを出ることはできません。あなたは時間魔法を修得したとはいえ、未だ卒業もせず学院に留まっています。よってあなたは学院の生徒であり、学院の規則には従わねばなりません」

「……エヴァ様」

「それでも行くというのであれば……」


 そこで言葉を切り、エヴァは手にしていた包みをほどくと、中から純白の法衣を取り出した。時間魔法修得者にのみ与えられる純白の法衣。エヴァに預けていたリシュレナのものだ。

 訳がわからず呆然としているリシュレナの前で、エヴァが手にした法衣をふわりと広げる。月のない夜に、きらきらと控えめな光を落とすのは、法衣に施された金糸の刺繍だ。まるで二人のそばにだけ月光が降り注ぐかのように、法衣の純白は暗い夜にはっきりと清浄の色を落とし込んでいく。

 その清らかな光のヴェールを思わせる純白の法衣を、エヴァは静かにリシュレナの肩にかけてやる。


「あなたを立派なひとりの魔道士として認めます。栄誉ある純白の法衣に恥じないよう、自分の信じる道を行きなさい」


 わがままを許し、静かに見送ってくれるエヴァの優しさに、リシュレナは思わず潤んだ瞳を瞼に隠して俯いた。それでもかすかにこぼれた嗚咽はエヴァの耳にしっかりと届いて。


「さぁ、レナ。行きなさい。あなたの目で見たものを、あなたの心で感じるのです。あなたの物語はここから始まるのですから」


 あたたかく背を押され、リシュレナが涙を拭って笑う。


「はい、エヴァ様。……ありがとうございます」


 頷いて、エヴァの手を一度だけぎゅっと握りしめた。決意を込めて大きく頷くと、リシュレナは純白の法衣を翻してエヴァに背を向けた。


「行ってきます」


 街を出る前にもう一度だけ振り返ったリシュレナに、エヴァも右手を振って送り出す。その白い影が闇に呑まれて完全に消えてなくなるまで、エヴァはその場を動くことはなかった。


「気をつけて、レナ」


 エヴァのささやきに星が震えるように瞬いて、遠く空の向こうへ流れていく。

 その先は魔界跡ヘルズゲート。昔も今も、闇に包まれた呪われた地だ。激しい怨嗟渦巻くその闇に、穢れを知らぬ純白の光が消えてしまわないことを、エヴァはただ祈るしかなかった。



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