第88話 魅入られた者

 闇の中には何もなかった。

 完全なる虚無。時間という流れさえ失われたこの空間は、今でもなお消えてはくれない傷痕を愁い、嘆き悲しんでいる。

 傷痕は過去。過去は夢。夢は語ることを恐れた、真実の物語。



 ごとんっと音を立てて、分厚い本が床に落ちた。その音にはっと目を覚ましたリシュレナは、足元に落ちた本を慌てて拾い上げた。焦げ茶色の表紙に金の細い文字が描かれた本は、魔法文字で「月の厄災」と記されていた。


 昨夜、不気味な夢を見てから一睡もできなかったリシュレナは、日が昇ると同時に学院内の図書館へと急ぎ足で向かった。どうしても気になることがあったのだ。

 そしてそれはリシュレナの予想を裏切らず、事実として古書にはっきりと記されていたのである。


 かつて己の力を誇示し、その強大さによって世界を恐怖で支配していた神界王バルザック。彼にはリゼフィーネと言う、美しい妻がいた。リゼフィーネは容姿端麗で、平民であるにもかかわらず秘めた魔力は神界の王族以上とも言われていた。それ故に、バルザックに目を付けられてしまったのだ。

 バルザックはリゼフィーネの強い魔力を道具とし、世界支配を絶対的なものにしようと企んでいた。しかしリゼフィーネの心はバルザックの悪行に耐えきれず、一人娘を産み落としたのをきっかけに精神を病んでしまった。

 その時生まれたのが、後に月下大戦の引き金となった神界の姫エルティナである。


 メルドールの書いた月の厄災は三人の英雄の話が主軸となってはいるが、悲劇の発端として神界の姫と地界の青年の話もわずかに記されている。はるか昔の出来事をよくここまで調べ上げたものだと驚きはしたが、それ以上にリシュレナが気になったのは神界の姫の名前だった。


「……やっぱり」


 月の厄災に記された、ある一文を指でなぞる。


「エルティナ……」


 夢の中で姿なき男が呟いた名前だ。愛おしく、切なげに呼んだあの声を、リシュレナは忘れもしない。そのエルティナがはるか昔の姫を指すならば、彼女の名を呼んだあの声は……。


 知らないうちに、体が震え出していた。信じたくないと思う反面、夢の生々しい感触は現実だったと確信する自分がいる。


 神界王バルザック。彼の妻であり、精神を病んでしまったリゼフィーネ。二人の娘である神界の姫エルティナ。エルティナと愛し合った青年。魔界跡ヘルズゲート。亡き恋人を求める切ない声。


 どこかで、何かが繋がっている。漠然と、そう思った。

 声はエルティナを呼んだ。そしてリシュレナを魔界跡へと呼んだ。疑う余地は、どこにもないような気がした。



 ***



「エヴァ様!」


 学院内を歩くエヴァの姿を見つけて、リシュレナは急ぎ足で駆け寄った。リシュレナのただならぬ様子に一瞬驚いたものの、エヴァの表情はすぐに真剣なものに変わる。四賢者がひとり、水の賢者としての顔だ。


「エヴァ様、お話があります! 大切な……っ。私、わからなくて……エヴァ様に助言を頂きたくて」

「リシュレナ。落ち着きなさい」


 静かな声音に、リシュレナがはっと口を閉じる。育ての親ではなく、四賢者のひとりとして接する時、エヴァはリシュレナのことを愛称ではなくちゃんと名前で呼ぶ。


「執務室へいらっしゃい。話はそこで聞きましょう」


 にっこりと微笑んでそう言ったエヴァは、リシュレナを導くように長い廊下を先に立って歩き出した。


 四賢者たちの執務室は学院内ではなく、アーヴァンの中心に立つ神殿の内部に設けられている。かつてはこちらの建物で魔法の訓練をしていたらしく、神殿の一階に張り巡らされた防御壁が当時の名残を物語っていた。

 四賢者たちの執務室は、この神殿の三階部分にある。それよりも更に上、神殿の最上階にあるのは、かつての大魔道士メルドールの書斎だ。部屋は当時のままで保管されているが、入口は四賢者たちにより厳重に封印が施され、一般公開はされていない。


「エヴァ様。私、魔界跡へ行きます」


 学院からエヴァの転移魔法でアーヴァンの塔へ移動したリシュレナは、執務室に入るなり開口一番そう言った。あまりにも唐突で、しかも予想だにしない発言に、さすがのエヴァも一瞬声を失ってしまう。


「どう言うことなの? きちんと説明してちょうだい」


 突拍子もない話なのに、エヴァは頭から否定せずにちゃんを話を聞こうとしてくれる。そんなエヴァの優しさに深呼吸する間を与えられ、リシュレナは少し落ち着きを取り戻すことができた。


 時間魔法を修得した時から見るようになった、暗闇の夢。その夢が自我を持ち、エルティナを求めたこと。魔界跡へ呼ぶ声を思い出すだけで、リシュレナの肌はぞわりと粟立った。


「時間魔法を修得した時から見るようになった夢です。夢の声は、私の時間魔法を欲しているのかもしれません」

「話は大体わかりました。……でも、リシュレナ。魔界跡ヘルズゲートは今なお強力な結界によって完全に隔離されている土地。魔力に長けたあなたであっても、辿り着くのは不可能です。それにあなたの時間魔法を本当に欲しているのなら、ここアーヴァンにいた方が安全です」


 エヴァの言うことはもっともだ。狙われているのが時間魔法であるなら、わざわざリシュレナの方から魔界跡へ行かずともよい。それ以前に、夢はただの夢なのかもしれないのだ。

 それに魔界跡ヘルズゲートは、誰からも見放された無法地帯と化している。魔物の徘徊も多く、無事に辿り着ける保証もない。


 けれど、どうしても行かなければと思った。なぜなのかはわからない。わからないけれど、リシュレナの心の奥が声に対する恐怖と、真実を追求したい欲求でせめぎ合っている。

 たとえて言うのなら、引き寄せられている感じだ。そしてリシュレナはそれに抗ってはいけないのだと、魂に強く刻み込まれているような気がした。


「でも、エヴァ様。夢の声はエルティナを呼びました。エルティナが神界の姫を指すのなら……彼女を呼んだ声は、私を魔界跡へ呼んだあの声は……魔界王ヴァレスなのかも知れません」

「魔界王ヴァレスは、英雄アレスによって滅ぼされました」

「復活しているのかもっ」

「リシュレナ!」


 今までにない厳しい声音で、エヴァがリシュレナの言葉を遮った。その声に室内の空気までもがしんと凍る。


「そのようなことを軽々しく口にしてはいけません。……リシュレナ。今のあなたは少し興奮しています。落ち着いて、もっとよく考えてみなさい」


 優しくはあったが自分の考えを否定され、リシュレナはそれ以上何も言うことができずにエヴァの執務室を後にした。


 もっとよく考えろとは言っても、リシュレナはそう時間が残されていないことを感覚的に知っている。あの夢は日増しに成長を続け、今夜にでもリシュレナを飲み込むかもしれないのだ。

 わかっていることはひとつ。できることもひとつ。そのすべては、リシュレナを魔界跡ヘルズゲートへと導いている。


 残虐非道な神界王バルザックに立ち向かい、自分に出来る手段で地界人を救おうと奮闘したエルティナ。

 愛する者と世界を救うために、自分の命を犠牲にした伝説の姫レティシア。

 彼女たちの揺ぎ無い強さを、欲しいと思った。夢の闇に怯えず、正面から立ち向かっていける強さを手にしたいと思った。


「私……行くわ。自分の目で、確かめる」


 小さく、けれどはっきりとそう口にして、リシュレナはキュッと拳を強く握りしめた。



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