第87話 三百年後の世界

 すっかりと日の落ちた空に、早くも星が瞬き始めている。

 図書館から学生寮ヘ戻る途中にふと足を止め、リシュレナは回廊の窓から黄昏時に染まるアーヴァンの街並みを見下ろしていた。

 大きく円形に広がる街並みには、近くを流れるアフタリア大河から引いた水路が張り巡らされている。水路の内側には五つの塔が建っており、その中央には更に高く巨大な塔が天を衝いて聳え立っていた。


 魔法都市アーヴァン。

 かつて世界最強と謳われた白魔道士メルドールが治めていたとされる街だ。


 リシュレナがいるのは、その魔法都市アーヴァンに隣接して作られたヴァルティア魔法学院の一角だ。多くの魔道士見習いたちの学び舎として建設された学院は、いまや魔法都市アーヴァンを象徴する場所として世界に広く知れ渡っている。


 天界最後の姫レティシアが世界を救った後、同じく世界救済に貢献したメルドールの元へ魔道士を目指す若者たちが急激に増えた。彼らを受け入れる場所として作られたのが、ヴァルティア魔法学院である。

 メルドール亡き後、学院と魔法都市の統治権は優れた力を持つ賢者四人に委ねられ、その継承の流れは三百年経った今も変わってはいない。


「あら? レナ、まだ残っていたの?」


 聞き慣れた声に顔を向ければ、回廊の向こうから見知った人影が近付いてくるのが見えた。

 藍色に金糸の刺繍を施した法衣を着た女性だ。水色の髪を綺麗に結い上げ、同色の瞳はやわらかく、愛情を持ってリシュレナを見つめている。リシュレナも親愛の笑みを浮かべて、ぺこりと頭を下げた。


「こんばんは、エヴァ様」

「まだ勉強を? 熱心なのはいいけれど、体を壊さないようにね」

「うーん。でもまだ未熟ですから」


 そう言うと、エヴァと呼ばれた女性が一瞬だけ水色の目を瞠った。そして、まるで少女のようにあどけなく笑う。

 年齢はそんなに若くないはずだが、エヴァの仕草や立ち居振る舞いは時々彼女を同年代かと錯覚するほどだ。リシュレナは訳あって幼少の頃に四賢者がひとりエヴァに引き取られたのだが、その頃から彼女の若々しさは少しも衰えていない。

 四賢者とはその魔力の強大さから実年齢をも覆い隠してしまえるのかと、リシュレナはほんの少しだけ羨ましげにエヴァを見つめ返した。


「未熟? 時間魔法を修得したあなたが言う言葉かしら?」

「あれは、その……きっとまぐれです。私も未だに実感が湧かないですし」

「だから法衣を着ないの? 時間魔法を修得したあなたにだけ着ることを許された、栄誉ある純白の法衣。私が預かって数ヶ月経つけれど、まだ着る気にはならない?」

「……ごめんなさい、エヴァ様。でも私……何だか不安で」

「不安?」


 訊ね返されて、リシュレナは慌てて首を横に振った。


「いいえ、何でもありません。私、帰りますね」


 エヴァにお辞儀をして、リシュレナは足早に廊下を駆けていく。その後ろ姿を、エヴァは心配そうにいつまでも見つめていた。



 ***



 ヴァルティア魔法学院には学生寮が隣接されている。アーヴァン出身の者もいるが、学生の大半は諸外国からの留学生がほとんどだ。リシュレナもまた、この学生寮に住んでいる。


 幼い頃に両親を亡くし、リシュレナは四賢者のエヴァに引き取られた。しばらくは共に過ごしていたのだが、ヴァルティア魔法学院に入学したのをきっかけに学生寮へと移り住んだ。リシュレナが十三歳の時だ。それからわずか五年後、リシュレナは十八歳の時に最高術と称される時間魔法を修得したのだった。


 四賢者でも手にすることの叶わなかった魔法。歴史に名を刻む魔道士メルドールですら修得できなかった魔法を、リシュレナはたった五年で身につけたのだ。畏れ多い事実に困惑し、未だそれを信じられずにいるリシュレナは己の自信のなさ故に、時間魔法を修得した者だけに与えられる純白の法衣を着ることができずにいるのだった。

 理由としてはそれで十分。しかしリシュレナにはもうひとつ、法衣を着ることができない理由があった。



 ***



 リシュレナはいつものように、漆黒の闇の中にいた。

 夢であることを理解している夢。普通ならありえない話だが、これが数ヶ月続けば嫌でも意識は慣れてくる。


 漆黒の夢を見るようになったのは、リシュレナが時間魔法を修得する少し前。何もない闇に佇んでいるだけだった夢に変化が現れたのは、時間魔法を修得したその日の夜からだった。

 夢の中に自分の意識が残っていることはもう慣れてしまったが、その夢が夜毎確実に『成長』していく事実に関してはさすがに不安と恐怖を覚えずにはいられない。


 夢の成長、それが時間魔法と深い繋がりがあることは、自ずと理解していた。だからこそリシュレナは、純白の法衣を着ることに躊躇いを感じているのだった。


「エルティナ……」


 その声は、ただひたすらに切なかった。


「俺はあの時、何を望んだ?」


 片言から次第に言葉を紡ぐ、男の声。


「……――ああ、そうだ。俺はお前だけを求めていた」


 音の羅列から溢れんばかりの感情が読み取れる。悲哀に満ちた声音が闇に佇むリシュレナを捕えるのに、そう時間はかからなかった。


「絶望を見たことがあるか?」


 唐突に、声は闇の向こうからリシュレナに問い掛けてきた。その変化に、リシュレナが息を飲んで立ち竦む。夢の中だけに、逃げ場などどこにもない。


「俺の中では、もう絶望すら色褪せている。俺は何のためにここにいる? 何のために生きている? 俺の中にあるのは……」


 声に合わせて、闇が大きくざわめいた。


「昔も今も変わらない、たったひとつの思い。……ただ、それだけだ」


 ふっと、声音が変わった。それまでの切ない響きではなく、どこか深い執念を感じさせる重く強い声。響く度に闇は震え、その震動はリシュレナの胸の奥にまで手を伸ばしてくる。動けないリシュレナを捕えようとする、見えない触手のようだった。


「犠牲は惜しまない。どんなことでもしよう」


 足元から這い上がってくる声音に捕まらないよう、リシュレナはぎゅっと拳を握って己の意識を強く持つ。負けてはいけない。これは夢だと、力のないただの夢だと自分に言い聞かせ、リシュレナが目の前の闇を睨みつけた。


「お前のすべても、その犠牲に過ぎない」

「あ、あなたは一体誰なの? どうして私を狙うの?」

「愚問だな。俺はお前を知っている」

「そんなこと……」


 一層強く周囲がざわめき、闇が耳を劈くほどのけたたましい悲鳴を上げた。その音ならざる悲鳴にびくんと震えたリシュレナの前で、闇がさわさわと蠢いた。


「俺の元へ来い、リシュレナ。滅びてもなお、この地に留まる……呪われた国ヘルズゲートへ」


 蠢く闇の間に血色に輝く不吉な目を見つけた瞬間、リシュレナの意識は夢の中から一気に弾き飛ばされていった。




「……っ」


 目を覚ますなり、リシュレナは勢いよくベッドから飛び起きた。室内には当然誰もおらず、自分の荒い呼吸音と規則正しい時計の音だけが闇を揺らしていた。

 早鐘を打つ胸を強く抑え、気持ちを落ち着かせようときつく瞼を閉じてみる。けれど脳裏に焼き付いたまま離れない血色の双眸は、リシュレナの心を更に激しくかき乱すだけだった。


「……名前を……呼んだ」


 吐く息に紛れて、震える音がこぼれ落ちる。唇は青ざめていて、それ以上言葉を発することもままならない。


 終わらない絶望の淵に漂う果てない闇。すべてを呑み込む暗黒の色彩を枷として、その中に身を委ねる熱のない影。持つはずのない自我を得て成長を続ける夢はそれだけでは足りずに、夢主のすべてを望んだ。ただの夢と言い聞かせるには、その声音はあまりにも熱く……そしてあまりにも冷たかった。


「あれは……誰なの。一体何なの? 私は……私は……」


 震える肩を両腕に抱いて、リシュレナはベッドの上で体を小さく丸めたまま、夜が明けるのをただひたすら待ち望む。


 今夜はもう、眠れそうにもなかった。


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