第2部 記憶を辿りし時の歯車

第10章 月の目覚め

第86話 月の厄災

 忘れてはいけない悲劇がある。



 はるか昔、この世界は圧倒的な魔力を持つ神界人の支配下にあった。当時の神界王の名はバルザック。彼の残虐非道な行いにより、多くの罪なき命が失われた。

 その犠牲となったのは、彼の娘であるエルティナも例外ではない。

 彼女は愛した人との子もろともバルザックにより処刑され、体と魂を別々に封印されてしまった。一人生き残った男ヴァレスは魔界王となり、復讐と、そしてエルティナの復活を望み、長い長い時をかけて月の結晶石を生み出したのである。


 月の結晶石。

 月の魔力を絡め取り、願いを吹き込んで完成する石は、手にするだけでも強大な力を得ることができる究極の魔宝。

 その小さな石に込められた願いはただひとつ。エルティナの復活であった。


 魔界王ヴァレスの魔手が世界を脅かしたのは、いまから一万年前のこと。

 月下大戦と呼ばれる、神界と魔界王との激しい戦いがはじまりである。

 バルザックに封じられたエルティナの体。その封印の土地に築かれた小国ガルフィアスを滅ぼして、魔界王ヴァレスがエルティナの体を取り返したのだ。ヴァレスは月の結晶石を用いて、エルティナ復活のために動き出したのである。


 これに立ち向かい、見事魔界王の野望を打ち破った者がいる。

 神界の戦姫ラスティーンと、龍の王である神龍イルヴァール。彼らの活躍により魔界王ヴァレスは、エルティナの体もろとも滅びた――はずであった。




 月下大戦のあと、残された月の結晶石は神界の姫の体内に封印された。

 この時より神界は石を守り続ける天界ラスティーンと、神龍の末裔である飛竜と共に生きる龍神界アークドゥールに分かれたのである。


 月下大戦から一万年後のいま、月の結晶石を宿すのは天界の姫レティシアだ。彼女の中にある結晶石の封印は解かれようとしており、時を同じくして再び世界に魔界王ヴァレスの影が落ちていく。


 ヴァレスの計画により、世界は混乱に陥った。闇の勢力は日増しに強くなり、力なき者は魔物の餌食と成り果てた。

 そんな混沌の時代に立ち向かったのは、三人の若者たちだ。


 ひとりは天界ラスティーンの姫にして、その身に月の結晶石を宿すレティシア。

 ひとりは神龍イルヴァールを従え、神界人の力を目覚めさせた竜使いアレス。

 そして鋭い牙と爪で敵を噛み砕く、百獣の王の名を持つ獣王ロッド。


 彼らは運命に翻弄されながら、それでも強き意志を曲げることなくヴァレスに戦い挑んだ。激しく傷付き、時に涙を流しながら彼らは己の運命と戦い、そしてついに魔界王ヴァレスの野望を打ち砕いたのだ。

 ヴァレスの願いはエルティナの肉体と共に消滅し、世界は三人の英雄によって救われた。


 しかし、失ったものは決して少なくはなかった。


 戦いの場となった天界ラスティーンは、浮力を失い魔界跡ヘルズゲートへ墜落。これにより翼ある美しき種族、有翼人は絶滅。天界から国が消えた。

 そして、勇者のひとりである天界の姫レティシア。

 麗しき佳人であった彼女は、その身をもって結晶石と運命を共にした。


 最後の犠牲である。




 私たちはこれを決して忘れてはならない。

 私たちの生きる世界はひとりの乙女によって守られ、そして今も彼女の遺志を受け継ぐ者によって加護を受けているということを。





 【月の厄災より。序章・一節】

 著/メルドール・ディエス・パシディッド



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