第85話 新しい旅立ち

「お兄ちゃん。見て! 見て!」


 スカートの裾を捲りあげて、元気に駆けてくるのはロゼッタだ。金色の巻き毛は背中まで伸び、背丈も随分と大きくなった。今はアレスの胸元くらいだ。

 元気に走ってくるのはいいが、その服は白い花嫁衣装だ。せっかくの衣装が汚れてしまっては意味がないと、アレスは飛竜たちを囲う柵の中から自分が出ることでロゼッタの行動を制限した。


「どう? このドレス、似合ってるかな!?」


 アレスの前でスカートのしわを手早く直し、ロゼッタがくるりと一回転してみせる。頭には間に合わせで作った、ルファの黄色い花冠が乗っていた。

 花嫁衣装とはいっても、都会で見るような豪華なものではない。裾の長いゆったりとしたワンピースに、赤い刺繍が施してあるシンプルな服だ。それでも生地は門出を祝うための特注品で、龍神界ではカルネラの村にだけその織り方が伝わっている。

 もちろん今ロゼッタが着ている衣装の生地もカルネラ産だ。ロゼッタの結婚が決まった一年前に、アレスがカルネラの村に依頼して作ってもらった。


「似合うかどうかより、お前はもう少しおとなしく振る舞え。だいたいドレスの裾を捲り上げて、足を曝け出したまま走ってくるヤツがあるか」

「だって、早くお兄ちゃんに見てもらいたくて」

「俺より先にルークのところに行けよ」

「だめ! 何か恥ずかしいし……それにっ! お兄ちゃんに一番に見てもらいたかったの!」


 紅潮する頬を隠すように俯いたロゼッタは、もう十九歳の立派な大人の女性だ。アレスの後を追っていた甘えん坊の少女は明日、村の青年ルークと結婚する。

 金色の巻き毛を揺らして笑うその顔が母アシュリアにそっくりで、アレスは懐かしい思いに淡く頬を緩ませた。


「俺がお前の手を引いてやれるのはここまでだ。これからはルークと力を合わせて生きていくんだぞ」


 そう言うと、ロゼッタが眉を寄せて少しだけさみしそうな表情を浮かべた。その理由は問わずともわかる。だからアレスもあえて口にはしない。

 ロゼッタの結婚には、もうひとつの意味があった。成長し、大人になったロゼッタを支えていくのは、もうアレスではないのだ。


「……出発の時だね、お兄ちゃん。……でも、でもねっ! お兄ちゃんの家はここなんだから、いつでも帰ってきて」

「あぁ……そうだな。お前が夜泣きしなくなるまでは、帰ってきてやるよ」

「もう子供じゃないもの!」

「なら、大丈夫だろ」


 言い負けたことを悟って、ロゼッタが子供のようにぷうっと頬を膨らませた。けれど頭を撫でてやると機嫌が直ることアレスは知っている。花冠を潰さないように軽く頭を撫でると、大きな手の感触に甘えるようにしてロゼッタが頭をすり寄せた。


 ロゼッタの金色の髪に、ルファの黄色い花は見栄えがしない。けれど思い出の花なのだとルファの花冠を選んだロゼッタを思い出して、アレスはほんの少しだけ胸が締め付けられるのを感じた。




 ***



「エリク。ちょっとお父さんを呼んできてちょうだい。お客様が来てるって」


 母親に言付かり、エリクは二つ返事で家を飛び出した。広い森の中、父親の居場所を見つけるのはエリクにとっては朝飯前だ。

 少しだけ癖のある金髪を揺らしながら周囲を見回し、尖った耳と嗅覚に神経を集中させると、あっけないほど簡単に父の気配を感じ取ることができた。エリクはくるりと踵を返すなり、白いライオンに変身して森の中を軽快に駆け抜けていった。



 獣人界の森を見下ろす崖の上で惰眠を貪っていたロッドは、近付いてくる小さな足音に反応してゆっくりと目を覚ました。欠伸をかみ殺しながら振り返ると、坂を駆け上ってくる小さな白いライオンの姿が瞳に映る。ライオンはロッドの前まで来ると軽やかに一回転して、小麦色の肌をした元気そうな少年の姿に変わった。


「エリクが迎えに来たってことは、もうセリカは怒ってないのか?」

「夫婦げんかは一旦休戦だって。ほんと、父さんも毎日懲りないよね。母さんが恥ずかしがり屋なの知ってて、何で人前でイチャイチャするのさ」

「そりゃセリカが綺麗だから仕方ないだろ。お前も大人になったらわかるよ」

「あんまりわかりたくない」

「辛辣だなっ!」


 よっこいしょと立ち上がって、ロッドはエリクの金髪をくしゃくしゃと豪快に撫でてやる。髪が乱れるからとエルクが嫌がるのを知っていて、それでもつい手が伸びてしまうのだ。セリカに対しても同様で、それはただ愛おしいからに他ならない。そんなロッドの性分をセリカも、そして少し大人びているエリクも諦めて受け入れている……と、小鳥たちの噂話で知った。


「そうそう、お父さんにお客さんが来てるんだって」

「客?」


 誰だろうと思案する間もなく、答えは空から降ってきた。

 太陽の光を遮って、ロッドたちに影が落ちる。見上げた空に、逆光になって影を落とすのは六枚の翼を広げた大きな龍――イルヴァールだ。その背から軽やかに飛び降りた友の姿に、ロッドの顔は一気に満面の笑みに彩られた。


「アレス! 久しぶりだな!」


 子供のようにはしゃいで、喜びのあまり抱きつきもしたが、アレスは昔のように眉間に皺を寄せてしかめ面をすることはなかった。少しだけ呆れたように溜息はつかれたが、久々の再会に溜息一つなど問題ではない。

 抱きしめたままその背をバシバシと遠慮なく叩いていると、さすがに「痛い」と呟いたアレスに体を引き剥がされてしまった。


「エリク。悪いがセリカを手伝ってやってくれないか? 今頃アレスを迎える準備で忙しくしてるだろうから」


 素直に頷いて坂を下りていく子ライオンを、アレスはとても穏やかな顔で見つめていた。その顔に斜めに走る傷跡に、ロッドは少しだけ目を伏せてしまった。


「……やっぱり、お前だけ時が止まってるな」


 あの戦いから六年の月日が流れた。ロッドは父親になり、息子エリクも六歳の少年に成長している中で、アレスだけが時の流れから外れている。その姿は、レティシアを失ったあの日のままだ。

 アレスが時を止めたのは、その額に残る傷跡のせいだと言うことは、ロッドものちにメルドールから聞いて知った。


 月の結晶石に宿った魔力は、砕けた小さな欠片でも、アレスの時を止めるほどに強かった。

 レティシアのいない世界で、アレスだけが生き続ける。拷問にも思えたその状況を、けれどアレスは静かに受け入れたのだ。


「俺にとっては都合がいい」


 悲しみさえ感じさせない声音に、ロッドはさみしげに笑うことしかできなかった。


「一週間後、ロゼッタの結婚式が終わったらそのまま行く。式にはお前も来てほしいって言ってたぞ」

「ああ! もちろん行かせてもらうよ!」

「……ロッド。時々でいいから、あいつのこと……」

「心配すんな! ロゼッタは俺にとってもかわいい妹みたいなもんだからな。お前の方こそ、あんま無理すんなよ。あと時々、顔見せに来い」


 そう言ったロッドにアレスは静かに笑うだけで返事はしなかった。


「俺、ずっとお前の親友だからな! 困ったことがあったら絶対に俺を頼りに戻れ」

「頼もしいな」

「おう! 俺は獣王様だからな。お前も、俺のこと忘れるなよ」

「あぁ、お前もな」


 吹き抜ける風はどこまでも舞い上がって、レティシアの愛した世界を巡り巡っていく。青い空も、緑の森も、広い大地も、そこに住まう人も動物も。レティシアが守り抜いた世界を、今度はアレスが守り抜いていくと誓った。

 そしていつかどこかで、再びレティシアに出会うことを唯一の希望として、アレスはこの先ひとりで生きていく。


 世界を守るために。

 レティシアに会うために。









「誓います」


 純白のドレスに身を包んだ花嫁の姿を見届けて、アレスはひとりイルヴァールの背に飛び乗った。


「本当にいいのか?」

「あぁ。あいつはもう立派な大人だ。これからはルークと共に生きていける」

「そうか。……それで、どこへ行くつもりだ?」

「……――魔界跡へ。今なら見届けることができるかもしれない。それに、あの場所から俺たちの旅をはじめたい」

「承知した」


 首を上げ、イルヴァールが六枚の翼を大きく広げてゆっくりと上昇した。

 リュッカの村を見下ろす丘の上。両親の墓標に別れを告げて、アレスを乗せたイルヴァールは祝福の舞台に花を添えるように、その白い羽根に光を纏わせて雨のように降らせていく。


 羽根の祝雨に人々が気付く前に、アレスとイルヴァールは空高く駈け上がった。

 最後に見下ろしたリュッカの村。いとしい家族たちの姿が遠くなるなか、たったひとりだけ空を見上げる者がいる。

 彼の声はもう聞こえないけれど、軽く手を振って笑顔を向けてくる友の姿に、アレスは視界が熱く歪むのをとめられなかった。



「イルヴァール。前に俺が言っていた通りになったな」

「何がだ?」

「お前を目覚めさせた時、長い付き合いになりそうだと言ったろう?」


 アレスとはじめて会った時のことを思い出して、イルヴァールが小さな炎を吐き出してふっと笑った。


あるじがおぬしであるなら苦ではない」

「よく言うよ」


 やさしい風が頬を撫でていく。

 ロゼッタと同様に、アレスにとっても今日は新しい旅立ちの日だ。


「行こう、イルヴァール!」


 空は快晴。

 雲ひとつない飛竜日和の青空に、イルヴァールの白い姿が希望の流星のようにどこまでも遠く流れていった。






【第一部:竜使いの青年と月の姫君――完結】




****************************





これにて月記憶第1部完結となります。

長くつらい物語をここまで読んで下さった皆様に感謝を。

本当にありがとうございました!


アレスとレティシアの運命についてはこのような結末となってしまいましたが、これは第2部に繋がる布石でもありますので、引き続き第2部をお楽しみ下さるとうれしいです!

アレスとレティシアの邂逅が果たされるのか――物語の舞台はここから300年後の世界になります。

新しいキャラも出てきますし、もちろん1部で活躍したキャラも何らかの形で登場するかもしれません。

悲しいだけの結末には決してしませんので、どうぞ安心して第2部へ足を運んで下さいませ。


(第2部の初回更新は来週の土曜日(8/19)あたりを予定しています)


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