第84話 ひとすじの希望

 紺青こんじょう色の夜の中に浮かんでいた。

 淡い金色の小さな光が、川のように夜空を流れていく。ゆるりと、ふわりと。何ものにも囚われず、自由気ままに揺れて、跳ねて、瞬いて。

 アレスはその光の川に身を委ねて、なすがまま紺青の夜に揺られていた。


 体という感覚はない。動かせる手も足もなければ、瞳に映る「体」すらない。意識だけが、星の川に揺蕩っている。


 静かな夜の世界は疲弊した心を丸ごと包んで癒してくれるようで、このままずっとここにいたいと思ってしまうほどだ。緩やかな星の流れに身を任せて、閉じようとした瞳にキラリと光る銀色が見えた。

 アレスが流されていくその先に、いっとう輝く美しい銀色の星が瞬いている。アレスを呼んでいるかのように、淡く儚げに点滅して、自分はここだと主張しているようだ。


 ゆっくりと体を起こすと、アレスの体に纏わり付いていた金色の星の欠片がはらはらと散った。その光に混ざって、薄青の花びらが視界に舞う。

 花びらは足元に落ちるでもなく、逆にふわりと舞い上がって、紺青の空に輝く銀色の一等星に向かって流れはじめた。


 その花びらについていかなければと、アレスは実態すらない足を必死になって動かした。なぜだかわからないが、心がひどく乱れている。焦りのような、渇望のような、とにかく急がなければと理由のない焦燥感に襲われる。


『アレス』


 懐かしい声がした。

 ハッとして顔を上げると、いつの間にかアレスの目の前に一本の大きな樹が立っている。そこはもう紺青の夜ではなく、あたたかな日差しの降り注ぐ天界の城にある裏庭の景色が広がっていた。

 聳え立つのは薄桃色の花を枝いっぱいに咲かせたフェゼリアの大樹だ。そして銀色の光は、その大樹の根元で微睡むように輝いていた。


 銀色の光を見ていると、アレスの胸にどうしようもない愛おしさが込み上げてくる。触れたいと願って、そっと伸ばした指先を諫めるように、大樹の後ろから白くゆったりとした服を着た銀髪の女が姿を現した。

 アレスが知る彼女は甲冑姿か、樹と同化した姿のどちらかだ。普通の姫のように着飾った姿はたおやかで、けれど彼女の凜とした美しさは少しも損なわれていない。


 ラスティーンと名を呼んだはずが、今のアレスに声は出せなかった。それでも言葉は届いているようで、目の前のラスティーンは笑みを浮かべて小さく頷いた。


『アレス。すまなかった。私はどうしても、結晶石をこの世から消し去りたかった。それが私の使命で、生きる意味だったから』


 はじめてラスティーンの思惑を知った時ほどの怒りは、もうアレスの中にはない。受け入れることはできないが、その方法を最後に選んだのはレティシア自身だ。

 あの最後の戦いで、十分に考える時間がなかったことは否定できない。もう少し時間があればレティシアも他の選択をしたかもしれないし、アレスだってヴァレスが月に望む前に決着を付けることができたのかもしれない。

 考えればキリがないし、思い出すほどに胸が軋む。けれどアレスはもう、ラスティーンを責めることはできなかった。

 あの場面で何が最善であったのかなど、口には出せずとも、もうわかってしまっている。


『私の代で結晶石の封印が解かれれば、それが一番よかったのだ』


 そう言って、ラスティーンが樹の根元で輝く銀色の光を両手で優しく掬い取った。


『あの時、私にはああするしか手立てがなかった。……しかし、道は常にひとつではないのだと知らされた。運命とは、気まぐれなものだな』


 ラスティーンの両手で輝く銀色の光に、どこからともなく舞い落ちた薄青の花びらが一枚寄り添った。かと思えばそれはふわりと形を崩して、ラスティーンの隣に見覚えのある姿で並んでいた。

 肩より少し長い銀色の髪を、紺色のリボンでひとつにまとめている。レティシアとよく似た面差しでアレスに微笑みかけるのは――天界王クラウディスだ。ヴァレスに乗っ取られていた時の彼ではなく、今のクラウディスからは優しく清浄な気配しか感じない。何度も顔を合わせていたのに、天界王としての彼を見るのは初めてだ。


『ひとりではできないことも、二人でなら叶えられる』


 互いに目を合わせ、ラスティーンとクラウディスが頷き合う。クラウディスが銀色の光を覆い隠すようにして、ラスティーンの手のひらの上から自身の手を重ね合わせた。

 そして二人して、アレスをまっすぐに見つめてくる。


『アレス。君が最後に私をレティシアの近くに寄せてくれたから、今がある。ありがとう』


 アレスの剣には、クラウディスの作った短剣が溶け込んでいたはずだ。そういえば月光に包まれたレティシアを救おうとして、光の壁を剣で切り裂いたあの時。青銀色の軌跡に混ざって、かすかに薄青の花びらが舞い散ったことをアレスは思い出した。


『アレス。レティシアは、生きている』


 アレスの驚愕に反応して、ざわざわとフェゼリアの大樹が花を揺らした。


『私たちの体は既に失われていたから、お互いの魂をひとつに混じり合わせ、二人分の魔力を有する器として、レティシアから強制的に結晶石を引き取ったんだ。結晶石の代替わり、とでも言った方がわかりやすいかな』

『だがこれも私ひとりでは成し得なかった。クラウディスの力があってこそだ。私も終盤になって、このような奇跡が起こるとは思っていなかった。――いや、奇跡ではないな』


 最後まで諦めずにレティシアを救おうと足掻いたアレスの……アレスたちの揺るぎない信念がもたらした結果だ。それは奇跡という軽い言葉で言い表せるものではない。


『アレス。レティシアを……妹を諦めないでいてくれて、ありがとう』


 実態もないのに、頬を伝う涙の熱を感じた。視界が歪む。涙で滲んでいるのか、それとも夢の終わりが近付いているのか。


『だが、アレス。結晶石を強制的に引き剥がしたために、レティシアを取り巻く時間の流れが歪んだ。一瞬だけ死と生が混在し、レティシアの体は時の歪みに引きずられてしまった。お前の前からレティシアが消えてしまったのはそれが原因だ』

『だから、君にはレティシアを探して欲しいんだ。目を覚ました時、君がいないとあの子はきっと泣いてしまうだろうから』

『レティシアがどこに現れるのかは、私たちでもわからない。時空の歪みの弊害で、もしかしたら姿が変わっているかもしれない。けれどお前には必ず見つけられるだろう。そしてレティシアもお前に引き寄せられるはずだ。お前の中には、レティシアの片翼があるのだから』


 二人が銀色の光を包んだ手を、空に向けて静かに開いた。

 まるで飛竜日和みたいな青い空に、レティシアを思わせる銀色の光がふわりふわりと昇っていく。

 時の歪みに囚われた体の元へ戻っていく魂の輝きを見つめながら、アレスは声なき声でレティシアの名前を呼んだ。


 必ず見つけると。

 どれだけかかっても、会いに行くと。

 だから待っていて欲しいと願いを込めて、銀色の光が青に溶けて消えるまで何度も何度も名前を呼び続けた。


 青い空に舞い上がる、フェゼリアの花。

 その淡い桃色の花びらは、はにかんで笑うレティシアの頬の色のようだと思った。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る