第83話 戦いのあと

 闇を吹き飛ばす月白げっぱくの光が天界全土を包み込み、空にまで大きく膨れ上がったかと思うと弾けるように炸裂した。その中から小さな流星に似た光がばらばらになって飛び散っていく。


「い、今の……まさかっ」


 光と風の衝撃波が届かない場所まで飛竜に乗って避難していたロッドの視線の先、霧が晴れるように月光が流れ、ようやく塔の最上階の全貌があわらになった。

 石造りの床はそのほとんどが抜け落ちていて、安全な場所を探す方が難しい。支柱は既に崩れはじめており、大きく傾いた最上階が落下するのも時間の問題だ。

 盛り上がった床の瓦礫が邪魔をして、ロッドはアレスたちの姿を見つけることができずにいた。いま、漆黒の塔はおろか、その崩壊は天界全土にまで及んでいる。浮力をなくし、傾いた天界はゆっくりと地上へ墜落をはじめていた。


 崩壊する天界ラスティーン。瓦礫に埋もれて姿を消したままのアレスとレティシア。ヴァレスの野望は砕いたはずなのに、消えた月光の柱から弾かれて飛び散った光のかけらが不安を完全に拭い去ってはくれない。

 あれは。あの光はもしかしたら。


「ロッドっ、離れろ! 天界は落ちる。崩落に巻き込まれるぞ!」


 飛竜をギリギリのところまで寄せて二人を探していたロッドの前に、イルヴァールが行く手を遮るように体を割り込ませた。


「どけよっ、イルヴァール! アレスたちがまだあそこにいるかもしれないんだぞ! 動けずに助けを待ってるかもしれないっ」

「我らを呼ぶアレスの声はしない」

「お前に声が届かないほど傷ついてるかもしれないだろ! 見捨てるなんて……っ」

「……つらいのは、おぬしだけではない」


 かなしみと後悔に揺れる青い瞳に見つめられ、ロッドはそれ以上なにも言うことができずに、ただ飛竜の手綱をぎゅっと握りしめるだけだった。


「……くそっ!」


 苛立ったところで、崩壊する天界を前にロッドができることはもう何もない。ただ静かに世界を見守る満月の光に照らされて、天界は悲しみも憎しみも、すべてをのみ込んだまま崩れ落ちていく。

 その先は何の因果か、魔界跡ヘルズゲートだ。見えない力に引き寄せられるように、天界はゆっくりと、しかし確実に死の大地広がる魔界跡ヘルズゲートの大穴へと墜落した。


 轟音を上げて大地が揺れる。巻き上がる瓦礫と粉塵が激しい爆風によって魔界跡全土を覆い尽くした。大地に響く音はまるで世界の嘆きのようで、その低く不気味な轟音は崩壊から五日経っても鳴り止むことはなかった。


 その間、ロッドはまだ、アレスとレティシアの姿を見つけられていない。




 ***



 天界の崩壊から十日が過ぎた辺りから、やっと世界に響く地鳴りが収まった。それまでは辺りに満ちる魔力が場を歪めていたため、ロッドたちも不用意に近付くことができなかったが、地鳴りが収まると同時に魔力もゆっくりと薄くなっていった。

 それでもまだ奥の方、天界が墜落した場所には、未だ濃い魔力が渦を巻いている。イルヴァールやメルドールでさえ躊躇うほどなのだから、魔力に耐性のないロッドは近寄ることもできないだろう。


 けれど、じっとしてなどいられなかった。

 あの戦いのあと、ロッドはことをイルヴァールから聞いた。月の結晶石は砕かれ、その欠片は世界各地に散ったという。

 結晶石はひとつの石の形でないと、意味を成さない。砕けた欠片に多少の魔力は残れども、それはやがてあるべき場所――月へと帰る。各地に散った欠片に脅威はないのだと告げられた。


 ヴァレスの野望は阻止され、イルヴァールの炎に巻かれたエルティナの体も無事ではないだろう。万が一からだが残っていたとしても、それを復活させるための月の結晶石がないのだから、これで本当に世界を脅かすヴァレスの脅威はなくなったと言ってもいい。


 世界は救われた。

 世界は――レティシアによって、救われたのだ。


 瓦礫しかない天界の残骸を見つめていると、ロッドは胸の奥にまた黒い靄がたまっていくのを感じた。世界は救われたのに、ロッドの心を覆う霧は晴れない。自分だけが助かってしまった現実に耐えきれず目を閉じれば、髪を撫でていく魔界跡の風に未だ濃く残る死のにおいがした。

 アレスはまだ見つかっていない。


「ロッド! 瓦礫の向こうに、気になる場所がある。魔力の残滓が入り乱れて危険だが」

「連れて行ってくれ!」


 イルヴァールが最後までいうのを待ちきれずに、ロッドは彼の背に飛び乗った。

 魔界跡へ近付けるようになってから二日。ロッドはイルヴァールと共に、アレスを探しにこの地を訪れていた。崩壊に巻き込まれたのなら天界の瓦礫の中なのだろうが、そこは未だに白と黒の魔力が入り乱れていて侵入はできていない。だから魔力の一番薄い場所を探していたのだが、どうやらイルヴァールがそれらしき場所を見つけたらしい。


 その場所は、ロッドでもわかるほどに

 獣人は魔力がないが、そこにある気配を感じ取ることには敏感だ。なのにイルヴァールに連れられてきた瓦礫の一角には、白魔法も黒魔法も、あの月の魔力もすべて、一切の力が感じられなかった。

 いや、ないというより、時空が歪んでいるような感覚がする。


 思わず駆け寄って辺りを確かめようとしたロッドを翼で制して、イルヴァールがその場所にふうっと息を吹きかけた。

 緩やかな風の流れに、さらさらと淡い青色の光が舞い上がる。見えない結界に覆われていたのか、砂のように崩れ落ちていく青い光の向こうに――アレスがいた。


「アレスっ!」


 喜びと驚きの入り混じった声で名を叫んだ。けれどアレスはロッドに背を向けたまま微動だにしない。地面に座り込み、何かを抱きかかえているような姿勢で、深緑の瞳を虚ろに開いているだけだ。

 その両腕には、誰もいない。ただ、辺り一面に清浄な香りを放つ青いレイメルの花びらが、アレスを囲うようにして散らばっていた。


「アレス!」


 堪えきれずに、ロッドが強くアレスの肩を掴んだ。その瞬間、虚ろだった深緑の瞳に光が差す。まるで止まっていた時が動き出したかのように、緩慢な動きでアレスがロッドを振り返った。

 涙すら時を戻して流れるその顔には、額から右頬にかけて斜めに入った鋭い裂傷がある。こびり付いた血は熱い涙に溶けて、アレスの頬を慰めるように滑り落ちていった。




***




 リュッカの村を見下ろす丘の上、木の枝を十字に重ねただけの墓標には、枯れた花輪がぶら下がっている。

 斜陽に照らされた村を見ながら、アレスはここで深緑色の石を手渡して、ずっとそばにいると誓った。その約束をしたレティシアは、もうここにはいない。


 世界を救って、レティシアはアレスの腕の中から消えてしまった。アレスの剣から青いレイメルの花びらがあふれ、それはレティシアを導くように連れて行ってしまった。

 花びらからはクラウディスの気配がした。旅立つレティシアを迎えに来たのだろうか。レティシアがさみしくないのなら、それもまたいいのかもしれないと、むりやりにでもそう思うことにした。


 そっと、墓標の枯れた花に触れた。まるで両親に縋る子供のようだと自分でも思う。けれど枯れた花びらはアレスを慰めることもなく、ただ乾いた感触を残してはらはらと崩れ、風に舞い散ってしまった。

 アレスの手から離れていく。レティシアのように、もう触れられない場所まで遠く舞い上がっていく。

 引き止めようとして思わず伸ばした手を、諦めたように引き戻した。

 レティシアを守ると誓ったこの手に残ったものは、満たされることのない空虚感と癒えることのない悲しみだけだ。顔を斜めに走る傷跡も、レティシアを失ったという証明にしかならない。アレスはその身を以て、レティシアの死を体現してしまっている。その現実に笑うしかなかった。


『その傷跡から月の魔力を感じる。それがおぬしにどんな結果をもたらすのかは、もうしばらく様子を見てみらんことにはわからんが』


 アレスの治療にあたってくれたメルドールが、顔に刻まれた傷を見てそう言ったことを思い出す。この傷は結晶石が砕け散った時に、アレスの顔を掠めてできたものだ。

 少し触れるだけで、強い月の魔力を感じる。レティシアという世界を壊してもなお、天界の崩壊を招くほどの強大な力だ。

 かけらでさえ、これなのだ。それをひとつの石として体内に宿していたレティシアの負担は、どれほど大きかったことだろう。どんなにつらかったことだろう。レティシアが永劫封印という形に固執していた理由も、今なら何となくわかる気がする。


 それをアレスは真っ向から否定して、力もないのに一緒に戦おうと手を差し出してしまった。あの時の判断は間違ってはいなかっただろうかと、今更になって迷いが生まれる。レティシアを失いたくないと足掻いた結果、アレスはもう二度とレティシアに会うことができなくなってしまった。

 永劫封印なら、まだ……その姿だけは瞳に映すことができたのに。


 そう思って、ふと嘲笑する。

 結局は自分もヴァレスと同じだ。


 暗い魔界跡の地下で、水晶に閉じ込めたエルティナの体を見上げるヴァレスの姿が脳裏をよぎる。エルティナを見つめる時のヴァレスの気持ちが、今のアレスには嫌というほどわかってしまった。


 けれど、同じ道は辿らない。苦しくても、アレスは月の結晶石になど手を伸ばしてはいけないのだ。


『私、この世界が大好きです。アレスと出会ったこの世界を、守りたい』


 レティシアが命をかけて守った世界を、アレスが壊すことはできない。悲しみと虚無をずっと抱えることになっても、アレスはレティシアが守ったこの世界を守り続けるのだと。

 今度こそ二度と破らない約束を、ここにはいないレティシアに誓うのだった。



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