第82話 そばにいる
手を伸ばせと、強く響いたアレスの声に、レティシアは思わず伸ばしかけた手を途中で止めてしまった。
触れてしまえば、何もかもを放り出して駆け寄ってしまう。それが嫌というほどわかるから、レティシアはそれ以上アレスに手を伸ばすことができなかった。
「アレス」
そっと、名前を呼んでみる。ただそれだけで、胸の奥があたたかく、そして切なく軋んだ。
「アレス。私……」
初めて抱いた感情。誰かを愛おしいと感じる思い。レティシアが、レティシアとして自由に生きていける。そんな場所を、アレスのそばに夢見た。アレスとならば叶えられるのだと、その力強い瞳の光に迷いなく信じることができたのだ。
その思いは今も変わっていない。
レティシアが帰る場所はアレスのそばだ。そして龍神界アークドゥールを、第二の故郷にしたいと願った。穏やかな自然の中で飛竜たちの世話をして、ロゼッタと一緒に花冠を作り、ガッシュたちも交えてささやかな食卓を囲む。その横にはいつだってアレスが寄り添ってくれている、しあわせであたたかな夢。
レティシアの夢見た、優しい世界を守りたいと思った。
穏やかに笑うアレスを、ロゼッタを。レティシアが愛したひとたちの住む、この世界を壊したくない。
アレスと出会えたこの世界を、アレスと同じくらいに愛している。
「……して。……許して下さい、アレス」
胸から溢れる光はもう抑えることができない。ゆっくりと形を成す冷たい石から手を離し、レティシアは本当に触れていたいものに手を伸ばした。
触れられないアレスの代わりに、いまレティシアが両手に握りしめるのは首から提げた深緑色の石の首飾りだ。アレスの瞳を思わせる、深い緑色の石。どんな時もそばにいると誓って渡された、二人の約束の証。
涙に濡れた頬をすり寄せて、レティシアはその石にそっとそっとくちづけた。
叶うなら、この先もずっとそばにいたかった。
けれど残された時間は露ほどもなく、レティシアに選べる選択肢もひとつしかない。
他の願いをすべて拒絶する冷たく白い空間の中で、レティシアの儚い願いはあっけなく光にかき消されていく。
ヴァレスの願いのみ許されるこの月光の中で、レティシアが唯一叶えられるもの。それは――すべてを救うということだけだ。
「ずっと……ずっと、そばにいます」
体を失っても、この思いだけは消させやしない。レティシアの愛は、アレスのそばで生き続けるのだ。それくらいのわがままは、叶えて欲しいと思った。
「レティシアっ!!」
光の波を突き破って、青銀色の軌跡が走る。わずかに流れて霧散した光の粒子が舞い上がり、その向こうに今もなお手を伸ばすアレスの姿が見えた。
アレスの深緑と視線が絡み合った瞬間、レティシアはたまらずに手を伸ばして――そしてそこで思いとどまったようにぴたりと止まった。伸ばした指先が、ほろほろと光に崩れている。風に巻き上がる銀髪も服も、端から月光にほどけて薄く色をなくしていく。
体の中から力が根こそぎ奪われる感覚がして、レティシアは小さく身震いした。力はレティシアの胸元に集中して、それはやがて銀色の光を纏う小さな雫型の石に形を変えていく。そして月を求めるように、より強い光を纏って点滅をはじめた。
「アレス。どうか私を……忘れないで。心は……この思いはいつもあなたのそばに」
「いいから手を伸ばせっ!」
「ごめ……ごめんなさい。もう……ここまでで、十分です。ありがとう、アレス」
「そんな言葉は聞きたくない! 生きろっ。諦めるな! 俺にはお前しかいないんだ!」
――生きろ。レティシア。
涙に歪んだ視界に、薄青のレイメルの花びらが紛れ込んだ。アレスの声に重なってクラウディスの声がしたような気がした。
頬に触れたのはレイメルの花びらか、それともアレスの指先か。
「アレス。あなたが……あなたが、大好きです」
しっかりと言いきって、レティシアは泣き顔のまま必死に口角を上げた。せめて記憶に残る最後の顔が、笑顔であるように。アレスの中に、一番綺麗な姿で残りたいと願って、笑う。
――私を、許して下さい。
「レティシアっ! やめろーーっ!!」
何もかもをかなぐり捨てて、必死に腕を伸ばした。月光の檻に捕らわれたレティシアを救い出せるなら、腕の一本などくれてやる。再び視界を覆う
その指の先で、石がピキリッと鋭い亀裂を走らせた。
「……っ!」
見開いたアレスの視界、レティシアを捕らえる月光の膜がぐにゃりと歪む。歪んで、その向こうに一瞬だけレティシアの姿が垣間見えた。
『あなたを月に返します』
レティシアの声が、アレスの頭に直接響き渡った瞬間。
『――砕けて』
レティシアを包む光の柱が大きく膨れ上がって、そして音もなく炸裂した。
きらきらと。
銀色の光を纏ってこぼれ落ちるのは月光の残骸だ。
塔と満月を繋いでいた光の柱は上空からさらさらとほどけて風に舞い、淡い綿毛に似た粒子となって夜空に降り注いだ。
さながら砕けた流星のかけらのように。けれど砕けたのは流星などではなく。
「……レティシア」
崩れて霧散していく光の柱が完全に消滅したその場所に、かろうじて人の形を留める銀色の光があった。ゆっくりと抱き起こすと、アレスの腕の中ではらりと光が剥がれ、その中からレティシアの体が姿を現した。
どこも怪我など負っていない、綺麗な体だ。ただ眠っているだけのように見えて、アレスは抱いた肩を軽く揺すってみる。そのたびにレティシアの体に残る光の綿毛がふわりと待って、アレスを慰めるように頬を撫でていった。
「レティシア」
レティシアをほのかに包む光はやがて胸の上に集まりはじめ、それは雫型の小さな石に姿を変える。
月の結晶石。関わる者を誰ひとり救わない小さな石には、深い亀裂がいくつか刻まれている。時々その亀裂をなぞるように銀色の光が走り、それは淡く弱い光を保ったまま、まだレティシアと細く繋がっていた。
「レティシア……っ」
応えるまで、何度でも名を呼んだ。その声に嗚咽が混じる前に、レティシアの睫毛がわずかに動く。動いて、ゆっくりと開かれた青い瞳にアレスの姿をしっかりと映した。
「……アレ、ス……?」
「……あぁ」
「アレス。……ごめんなさい」
震えながら頬に伸ばされた手をこちらから掴んで引き寄せる。レティシアの冷たい指先を唇に当てて、その手のひらに頬をすり寄せて目を閉じた。
「お前は馬鹿だ。どうしていつも……ひとりですべてを背負おうとするっ」
あふれそうになる涙を堪えるために目を閉じたのに、その甲斐なくアレスの頬を涙が滑り落ちていく。命の熱にも似たあたたかいしずくはレティシアの頬に落ちて、流れて、二人分の涙になる。
「泣かないで。……私、ずっとそばにいます。この首飾りを持っている限り、私たちはきっとまた出会える。……そうでしょう?」
レティシアが首飾りについた深緑の石を握りしめて儚く笑った。その手を上から握りしめて、アレスが小さく頷いてみせる。
「そうだな。お前がどこにいても、俺が必ず見つけてやる」
「……ありがとう、ございます」
「だからお前はもう、何も考えずに……少し休め」
身を屈めて額にくちづけると、レティシアが心からうれしそうに微笑んだ。その笑顔のまま、ゆっくりと瞼を閉じる。
「レティシア……聞こえるか? ……レティシア?」
返事の代わりに、アレスの腕に重みが増した。ぱたりとずり落ちた手をゆっくりと戻して握り直すと、もう一度、今度はくちびるにキスをして、アレスは動かないレティシアの体を両腕にきつく抱きしめた。
「最期まで……そばにいる」
ささやいて目を閉じる。その瞬間、ぎゅっと閉じた瞼の裏にまで白い光が届いたかと思うと、アレスの顔を斜めに裂いて、月の結晶石が粉々に砕け散った。
――アレス。あなたが、大好きです。
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