第81話 解かれた封印

 肉を裂き、骨を砕いたアレスの剣は、ヴァレスの胸を貫いて背中から血に濡れた刃を突き出した。滴り落ちる鮮血が、ヴァレスの纏う白い服に赤い染みを滲ませていく。さながら闇に咲く大輪の花のようだ。


「……かはっ……」


 何が起こったのか、ヴァレスには一瞬理解が及ばなかった。

 クラウディスの体を乗っ取ったのはヴァレスの魂だ。だからこの体にはクラウディスの白魔法とヴァレスの黒魔法、二つの属性を操ることができた。

 アレスの攻撃は白魔法に由来するもので、ヴァレスはその刃が体に届く前にクラウディスの力を使って白魔法の防御を施したはずだった。


 なのに同じ白魔法の力が、いまヴァレスの体を貫通している。胸を貫く青銀色の刃に、かすかに残るクラウディスの思念を感じてヴァレスが痛みに歪む目を見開いた。

 惨めに足掻いていたのは竜使いの青年だけではなかったのかと、自分の浅慮にギリッと強く唇を噛み締める。込み上げる血の味が、口内に広がった。


「もう終わりにしよう、ヴァレス」

「なにっ……を……! 俺は、まだ……っ」


 自ら後ろに下がることで胸を貫く剣の拘束から逃れ、ヴァレスが血を吐きながら背後の水晶へ寄りかかる。べったりと血の痕を残しながら、縋るようにエルティナへ手を伸ばし、まだ何か喚び出そうとするかのように傷ついた体に瘴気の黒を纏わせた。


「イルヴァール!」


 ヴァレスが呪文を唱える前に、アレスの声が響き渡る。


「グアアアアッ!」


 申し合わせたようにイルヴァールの咆哮が重なり、塔の最上階、ヴァレスと巨大水晶めがけて紅蓮の炎が吐き落とされた。闇を裂き、夜を照らす勢いで向かってくる聖なる炎の渦に、ヴァレスが慌てて背後の水晶を守るように両腕を広げた瞬間。


 すべてが、炎に包まれた。


 巨大水晶の肌を舐めるように広がるイルヴァールの聖なる炎。先程止めたはずの亀裂が再び悲鳴を上げはじめ、伸ばしたヴァレスの指先をはらはらとこぼれ落ちた水晶の欠片がかすめていく。

 自身の体でさえ炎にまかれ、ヴァレスの視界に映るのはあの日見た鮮血の雨と似た灼熱の色だけだ。


「……ティナ。……エルティナ。必ずお前を……っ」


 縋るように求めた右手は、もう肉をすべて焦がして骨だけとなっている。炎に炙られた指先が震えて水晶を叩き、カタカタと虚しい音を響かせた。


 憎い。悔しい。諦められない。


 胸を占める感情を力に変えて、炎に崩れる指先を、それでも必死にエルティナへ――その先で今も静かにヴァレスたちを見つめている満月へ伸ばした。


「結晶石よ! 闇を支配する月よ! 我が願いを……っ」


 ヴァレスの哀願に、レティシアの中で月の魔力が膨張する。


「……エルティナを……っ!!」


 ごうっと激しくうねりを増した炎に、ヴァレスの声がかき消されていく。

 巻き上がる火の粉に混ざって、きらきらと……銀色の光が降り注いでいた。


 目を奪われるほど美しい銀色の光。

 逆らうことを許さない神々しさ。

 けれどそれは、すべての終わりを示す破滅の光のようだ。


 清浄な輝きを放つ光の粒子は、一切の穢れがないゆえにひどく恐ろしくも感じる。その光の落ちる方へ引き寄せられるように振り向いた先で――レティシアの体が月白げっぱくの光に包まれていた。


「レティシアっ!」

「アレス……。アレス、私……っ」


 きらきらと降り注ぐ月光と同じ光が、レティシアの胸元で緩く点滅をはじめた。


「封印が……、石がっ、よみがえります!」


 銀色の光に包まれるレティシアを見て激しく動揺するアレスとは逆に、紅蓮の炎に巻かれたままのヴァレスはその清い月光を恍惚とした表情で眺めていた。

 封印が解かれる。

 ついに、その時が訪れる。


「エルティナ……。エル……もうすぐだ」


 激しく燃えさかる炎に、クラウディスの体がついにぼろりと崩れ落ちた。伸ばす手すら失ってもなおヴァレスは水晶に頬を寄せ、炎の影からレティシアを包む月の光を見つめ続ける。


「……エルティナ。エル……」


 ヴァレスの声はそこで完全に途切れ、もう炎の中に動く影はどこにもない。残されたエルティナの体も次第に炎に隠れて見えなくなり、辺りに漂っていた闇の気配は完全に消えてしまった。



 ――俺はただ、エルティナに会いたかっただけなんだ。



 凍った風が吹く。

 白い氷の粒を舞い上げて、レティシアを取り巻くように月色の光が渦を巻いていた。

 レティシアが強く押さえる胸元に、一層強い光が点滅している。月の結晶石だ。封印の解けた石が、レティシアの中からよみがえろうとしている。ヴァレスの願いを叶えようとしている。

 一万年以上前から望み続けたヴァレスの願い。彼が消滅してもその強い思いだけは残り、この場の誰もが望まない願いを月が叶えようとしていた。


「レティシアっ!」

「だめっ! アレス……、来ないで。力が、暴走しています!」


 レティシアを囲む月色の光は、その美しい輝きに反して恐ろしいほどの殺傷力を秘めていた。ぐるぐると渦を巻きながら、床を容赦なく抉っている。少し近付けば、飛び散った石の破片がアレスの額を傷つけた。


 誰も寄せ付けない力。たったひとつの願いを叶えるために、力を解放しようとしている結晶石。そのあまりに強大すぎる力を感じて、レティシアの体が恐怖に竦んだ。


 とめられない。

 もう誰も、ヴァレスの思いをとめることができない。


 髪も服も激しい風に翻弄されながら、レティシアは自分の中から這い上がろうとする力を押し込めようと、必死に胸を押さえ込んだ。その手のひらに、硬い石の感触がする。


(……だめ! 目覚めないで……お願いっ!)


 息すら止めて、レティシアは必死に願う。悲しく歪んだ生をエルティナに与えたくない。闇に囚われてしまったヴァレスの苦しみをこれ以上引き伸ばしたくない。そして何より、大切な人たちの住むこの世界を壊したくない。


『レティシア。お前はこの世界が好きか?』


 ハッと見開いた視界。銀色の光の向こうに、アレスの姿が見えた。必死に手を伸ばしてレティシアの名を叫ぶアレスの声に、どうしようもなく胸が締め付けられた。


「レティシア! レティシアっ!」


 月の魔力に耐えきれず、漆黒の塔が崩壊をはじめていた。天空の月とレティシアを繋ぐ光の柱は依然として目の前にあるのに、足元ががらがらと音を立てて崩れていく。加えて激しい暴風に、アレスは背中の翼を広げて飛ぶことすらできない。


 ヴァレスの想いは想像もつかないほどに強烈で、誰にも侵されることのない、ある意味何よりも純粋なものだ。主がいなくても願いを叶えようとする思いの強さは風の刃となり光の矢となり、それを邪魔しようとするアレスを容赦なく攻撃する。

 そこにアレスの入り込める余地はなかった。この窮地において、アレスは今更ながらヴァレスの思いの強さを嫌というほど思い知る。


 助ける方法は?

 結晶石を止めるには?


 思考を巡らせる間にもレティシアを包む光は強さを増し、アレスの中には焦りだけが生まれていく。

 体の奥にまで響く轟音と共に、床の大半が崩れ落ちた。塔全体が悲鳴を上げて軋み、完全に崩壊するのはもはや時間の問題だ。


「アレス! 塔から離れろ。崩れ落ちるぞ!」


 頭上でイルヴァールの声がする。それを無視してアレスは脆くなった床を蹴り、レティシアの元へ走っていく。

 置いていくなどできるわけがない。どんな時もそばにいると、あの深緑の首飾りに誓ったのだ。あと少し、もう少しで手が届く。触れたなら、今度こそもう二度と離さない。


「レティシア! レティシアっ、手を伸ばせ!」


 体を容赦なく傷つけていく風と光の刃を受け止めて、アレスはただひたすらに前へ手を伸ばした。


「一緒に……帰るんだろう!? 龍神界へ!」


 血まみれになっても。光で前が見えなくても。

 そこにレティシアがいる限り、アレスは何度でも手を伸ばす。


 けれどアレスの指先がレティシアに届くことはなかった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る