第80話 ヴァレスの終わり
空気を裂いて膨れ上がる絶望の闇が、ヴァレスの嘆きに触発されて弾け飛ぶ。四方に飛び散った闇の中から這い出した魔物が、赤い目をぎらつかせながら塔の最上階を埋め尽くした。
一気に溢れた魔物は最上階だけに留まらず、そこから瘴気の滝を伝って下へも滑り落ちていく。塔の外で魔物と戦っていたメルドールの負担も一気に増え、せっかく最上階の結界が壊れたというのにアレスたちの元へ駆け付けることもままならない。焦りに見上げた塔の最上階は、更に濃く昏い闇に覆われていた。
「違う……違うっ。俺が望んだのは、こんな結末じゃない。エルティナ。……エルティナ、お前が……」
エルティナを閉じ込めた巨大水晶の下で、ヴァレスがレティシアの体を抱きしめたまま蹲っていた。涙を流し、惨めに砕け散った願いになおも縋り付いてエルティナを見つめている。ヴァレスが嗚咽をこらえるたびに、彼に絡みつく闇が濃さ増した。
「俺にはもう……お前しかいない。お前しかいないんだっ」
ヴァレスの慟哭からまた魔物が生まれ、それは醜くひしゃげた奇声を上げながらアレスたちの方へ飛びかかってくる。その爪がロッドに届く前に、魔物との間を分断する紅蓮の炎が吐き落とされた。
「お前……!」
漆黒の空を駆って、一頭の飛竜が滑空してくるのが見える。ロッドと共に塔の外で戦っていた飛竜が、最上階にアレスたちの気配を感じて飛んできてくれたのだ。
竜の吐く炎は魔物にとって絶大な力を発揮する。イルヴァールほどではないが、飛竜の炎も最上階に溢れた下級魔物を滅するには十分だ。それにいまはライオンに変身できないロッドにとっても、飛竜の登場はまさに幸運と言えた。
「アレス! 俺は飛竜と一緒に空から魔物を消していく。お前はレティシアを」
「わかった!」
どちらともが、最後まで言葉を発する間もなく駆け出した。ロッドは最上階から飛び降りて飛竜の背に、アレスは青銀色の剣を構えてレティシアの方へ。
ロッドを背に乗せた飛竜が置き土産と言わんばかりに、再度ヴァレスに向かって炎を吐く。さすがにヴァレスにまで飛竜の炎が届くことはなかったが、その風圧によって大きく翻った服の間から赤黒い水晶球が転がり落ちた。
「あれは……!」
イルヴァールを閉じ込めた水晶球が手元を離れても、ヴァレスは呆然とエルティナを見上げているだけだ。その赤い双眸がこちらへ向く前にと、アレスは魔物を薙ぎ払いながら左腕を伸ばして水晶球を掴み取る。
「戻れっ! イルヴァール!」
放り投げた水晶球めがけて、アレスは剣を振り下ろした。
鈍い音が響いたと思った瞬間、空を震わせる咆哮と共に真白い光が炸裂した。光は白い羽根となり、触れた魔物を一瞬にして塵へと変えていく。
「グアアアアッ!」
堂々と羽ばたく六枚の翼。塔を覆っていた瘴気の滝をその羽ばたきだけで引き剥がし、紅蓮の炎で跡形もなく焼き尽くす。
塔の最上階に渦巻いていた魔界跡の闇は、イルヴァールの復活によってすべて消し飛んだ。場の有利は、今やアレスたちの方にある。けれどヴァレスはレティシアを抱いたまま一向に動く気配もなく、まだそこに蹲ったまま嗚咽をこぼして泣いていた。
壊れた男が、そこにいた。
愛も願いも心も、すべてが粉々に砕け散ってしまった。
永遠とも思える長い時間をたったひとつの願いのために生き続け、辿り着いたそこに残るものは何もない。求めてやまない光さえ、彼の手をすり抜けて消えてしまう。
何のために生きてきたのか。
この命に、意味はなかったのか。
願うことは……罪なのか。
己の命の意味さえ見失うなか、それでも消えない思いがヴァレスの胸の奥に突き刺さっている。
「エルティナを……エルティナを、求めただけだ」
願いは常にひとつだ。そのために自身に黒魔法をかけ、命を引き延ばした。気の遠くなる時間をかけて結晶石を作り上げた。エルティナをよみがえらせる、ただそれだけのために。
結晶石も偽りの命も、ヴァレスの目的が果たされなければ意味を成さない。エルティナに拒絶されたヴァレスの命は、永遠に終わりを迎えることなくこの世をさまよってしまう。たったひとりで……いつまでも。
「お前が復活を望まないなら、俺はどうしたらいい? お前を求めてひとりさまよえと? ……っ、駄目だ。駄目だ、駄目だっ! お前なしでは生きていけない」
エルティナのいない世界。
朽ち果て、眠ることを許されない己の体。
叶わない夢に縋って、ただ生き長らえる哀れな姿。
「……――なぜだ。なぜ、触れ合うことを許されない?」
きつく閉じた瞼の裏に、悲しみに暮れたエルティナの顔が浮かび上がった。
「あいつを求め、愛したことが……そんなにも罪深いというのか?」
応えるものは誰もいない。
ただ白く輝く月光だけが、静かにヴァレスとエルティナに降り注いだ。
「……エルティナ」
水晶のエルティナから更に頭上の月を見上げ、ヴァレスが絶望に落ちていた双眸をゆるりと見開いた。
「憎んでくれて構わない。それでも俺は……お前を求める」
時が来た。
願いを叶えるために、月が空の一番高い場所へ昇る。
――誰の願いを?
意識をくんっと引き上げられた気がして目を開けると、レティシアの目の前にヴァレスがいた。手を引かれ、強引に体を起こされる。覚醒したばかりの意識に足元がふらついて、また床に倒れ込みそうになったところをヴァレスに支えられた。
間近に見たヴァレスが頬を濡らして泣いている。そのあまりに切ない表情に胸が軋んだが、レティシアが何かを口にする前にヴァレスが熱のない声で冷淡に言い放つ。
「時は満ちた。エルティナの魂を返してもらう」
レティシアの中で、何かが震えるようにざわめいた。直感的に、それがエルティナの魂だと悟る。
心を騒がせる悲しみとヴァレスの表情から、レティシアは二人の間に何かがあったのだと理解する。意識を失っていたレティシアがその内容を知る術はないが、ヴァレスの表情と言葉に心がこんなにも悲鳴を上げて軋んでいるのだ。おそらく、ヴァレスの願いとエルティナの思いが重なり合うことはなかったのだろう。
ヴァレスが唯一心を開いて求め続けたエルティナであるのに、その言葉のひとかけらですら彼には届いていない。いや、もしかしたら届いているのに、止まることができないのかもしれない。
レティシアの目には、ヴァレスが壊れた宝物を必死でかき集めようとする幼子のように見えた。どんなにパーツを集めても、肝心のひとかけらがどこにもない。この世にはもう失われた最後のパーツを求めて、不完全な宝を抱きしめさまようヴァレスの幻影に胸が締め付けられた。
「ヴァレス……、どうして……。どうしてあなたにはわからないの? エルティナの思いが……悲しみが」
「引くことはない。やめることもない。俺の存在する意味は、それだけなのだから」
「そんな……」
「レティシア」
掴まれた手を強く引かれ、ヴァレスがレティシアの耳に口を寄せる。耳朶に吐息を吹きかけてささやいたのは、恐ろしく残酷で、悲しいほどに純粋なヴァレスの願いだった。
「運命の姫。――俺のために、死んでくれ」
見開いたレティシアの瞳の色の重なって、二人の間を分かつように青銀色の光が滑り込んだ。ヴァレスの首筋にぴったりと突き付けられた青銀色の刃を握るのは、アレスだ。
「レティシアから離れろ、ヴァレス」
微動だにしないヴァレスが、眼球だけを動かして背後のアレスを一瞥した。首筋に剣を突き付けられているというのに、ヴァレスには焦りや恐怖の感情が一切ない。真紅の双眸に宿るのは、突き放してもなお必死に抗いしがみ付いてくるアレスへの不快感だけだ。
「竜使い。またお前か」
心底うんざりしたように瞼を閉じると、ヴァレスの羽織るマントが風もないのに揺らめいた。かと思えばそこからいくつもの瘴気の槍が噴き出して、そのうちの何本かがアレスの体を貫いた。
幸い急所は免れたが、肩や脇腹に突き刺さった槍の勢いにアレスの体は後方へと吹き飛ばされてしまった。
「アレス!」
「嘆く必要はない。あとで皆まとめて、お前の元へ送ってやる」
思わず駆け寄ろうとしたレティシアの手を、ヴァレスはしっかりと掴んで自分の方へ引き寄せた。
「離して……。離して! 私は死なないっ。エルティナの魂を穢させはしない!」
「俺からエルティナを奪うな。エルティナは俺のものだ!」
ヴァレスの言葉を否定するように、辺りに漂う瘴気の闇が青白い衝撃波によって吹き飛ばされた。その中心に立つ血まみれのアレスを見て、ヴァレスの顔が醜く歪む。
何度振り払おうと、諦めないその姿。血に濡れたアレスの姿が遠い日の自分と重なって、ヴァレスの胸に名前のない感情の澱が溜まっていく。
「何、なんだ……お前はっ。もう俺の前に立ちはだかるな!」
「ヴァレス! お前のエルティナはもういないっ。お前が目を覚まさない限り、戻っては来ないんだ!」
「ふざけるな! エルティナは戻る! ここに体と魂がある限り……必ずっ」
「お前の求めるエルティナは、ここにはいないっ!」
背中の翼を羽ばたかせてアレスが一気に飛翔した。剣を構えて向かうその先にあるのはエルティナを閉じ込めた巨大水晶だ。それに気付いたヴァレスが振り返るよりも先に、アレスの剣が巨大水晶に深々と突き刺さった。
「……っ、エルティナ!」
伸ばしたヴァレスの指先で、鈍い音を響かせながら亀裂が走る。そのたびにエルティナの姿が歪んで増えていく。
「エルティナ! エルティナ……駄目だ!」
突き飛ばすようにレティシアの手を離して、ヴァレスが水晶の元へ駆け寄った。なおも増え続ける亀裂の中で、一番深いものはエルティナの姿を縦真っ二つに斬り裂いている。その傷が本体に届いているわけではないのに、ヴァレスの脳裏におぞましい鮮血の過去が強制的に浮かび上がった。
エルティナの体を切り裂いた、バルザックの剣。体に降り注ぐ、まだ熱い鮮血の雨。
修復魔法で亀裂を止めて、ヴァレスがギリッと強く水晶に爪を突き立てた。見上げるエルティナの体を半分に割る亀裂のあと。エルティナを傷つけるのは、いつでも彼女と同じ神界人の血をひく者だ。
真紅の瞳を更に濃く血に染めて、ヴァレスがアレスを
「お前たちは……また俺からエルティナを奪うのかっ」
ヴァレスの中から再び、今度は空にまで届くほどの膨大な瘴気が溢れ出した。背後に膨れ上がった闇は悲鳴を上げる髑髏の顔を模して、瞳のない眼窩から手足のない魔物の影を産み落としていく。渦巻く風の衝撃は殺気を纏い、触れるだけでアレスの肌を傷つける刃となる。
「レティシア」
アレスはヴァレスを見据えて剣を構えたまま、レティシアを振り返ることもない。表情は見えなかったが、レティシアにはアレスが何を言おうとしているのかがわかった。
覚悟を決めた静かな声音に。大きく翼を広げたその背中に。レティシアはアレスの決意を知る。
「あいつを……クラウディスを」
息を詰まらせ、逡巡したのはほんの一瞬。一度閉じた瞼をゆっくりと開いて、レティシアは青い瞳にクラウディスの姿を焼き付ける。
「お願いします。兄を……救ってください」
「……すまない」
アレスが謝るのと、ヴァレスの放った魔界の従者が襲いかかるのは同時だった。光と闇がぶつかり合い、辺りに白と黒の軌跡が激しく交差する。塔は大きく揺れ、アレスとヴァレスの力が交わるたびに空を覆う闇が割れた。
『レティシア。私はいつでもお前のそばにいるよ』
両手を強く握りしめて、レティシアは目の前の戦いを何ひとつ取りこぼすまいと目を凝らした。
魔物を蹴散らし、髑髏の牙を剣で弾いてアレスが飛ぶ。背中の翼からこぼれ落ちる光の粉が、辺りに満ちた魔界跡の闇を浄化する。その光を厭って、漆黒の闇が大きくうねった。
『お前をずっと見守っている』
髑髏の追撃を振り切って、アレスが翼を羽ばたかせてより高く飛翔した。暗い夜空にきらりと光る青銀色の光。その清浄な輝きに、一輪の花がレティシアの脳裏を掠めていく。
クラウディスが好きだといっていたレイメルの花の色だ。レティシアが摘んだ花を大事に受け取って、微笑んでくれていた優しい兄の姿に目頭が熱く滲んだ。
「……お兄様」
『レティシア。強く生きろ』
ハッと見開いたレティシアの視界。空高く上昇したアレスが青銀色の剣を振り上げ、目にも止まらぬ速さで降下した。
青い剣の軌跡と。
赤黒い闇の盾と。
吹き荒れる風に攫われて、生温い鮮血が空に散る。
時を止めたのは、青銀色の剣に貫かれたヴァレスの方だった。
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