第79話 壊れた男

 天界の城を覆い尽くした漆黒の塔の最上階。静かな月光に照らされて、赤黒い魔法陣の中、きらりと輝く巨大な水晶が聳え立っていた。

 おぞましい闇に覆われた塔の中で、そこだけが異質なほどに美しい光を纏っている。まるで巨大な水晶花だ。その透明な花びらに包まれて眠るのは。


「エルティナ」


 水晶の冷たい肌にそっと触れて、ヴァレスが中に閉じ込められた女の体を愛おしげに見つめた。

 何度こうして見上げただろう。その度に、何度願ったことだろう。声を聞きたいと。遠い昔に飽きるほど見つめた青い瞳に、自身の姿を映して欲しいと。

 けれど水晶に保管されたエルティナは一度も目を開くことはなく、その声もヴァレスに届くことはなかった。

 ここにあるのは「体」だ。体を機能させるには、エルティナの「魂」が必要だ。


 そしていま、長い長い年月を経て、ようやくヴァレスの願いが叶おうとしていた。エルティナの魂はここにある。水晶から振り返ったヴァレスの目に映るのは、床の上に仰向けで倒れたまま気を失っているレティシアの姿だった。


 床に散らばる銀髪も、今は瞼に隠された青い瞳も。その色はヴァレスの愛したエルティナと同じだ。ただその血脈であるというだけで生贄になってしまったレティシアを、正直憐れには思う。

 けれどヴァレスは止まらない。止まる理由がない。

 ヴァレスがずっと求めてきたのは、他の誰でもないエルティナただひとりなのだから。


「俺が憎いか?」


 眠るレティシアのそばに身を屈め、そっと頬を手のひらで包み込んだ。あたたかい熱。生きている証。エルティナにはない「命」を感じて、ヴァレスがかすかに眉を寄せた。


「力で欲しいものを奪い取る。お前にとって、俺はバルザックと同じなのだろうな」


 唯一の愛を守ろうとしてすべてを奪われたヴァレスとエルティナ。

 唯一の愛のため、相手も世界も守ろうと足掻くアレスとレティシア。

 かつて自身が奪われた未来をアレスたちに繰り返そうとしている現実に、ヴァレスは口元を歪ませてさみしげに笑った。


「ごらん、レティシア」


 口調をクラウディスに似せて、ヴァレスがことさら優しくレティシアに語りかけた。まるで最後の憐れみであるかのように、兄妹最後の対面を演じてみせる。


「もうすぐあの月が、一番高い場所まで昇る」


 見上げたヴァレスの視線の先に、一万年前と変わらぬ皓々こうこうとした満月が物言わぬ姿で地上を見つめていた。


「その時、すべてが終わる」



 轟音をあげて、塔全体が大きく揺れた。みしみしと軋み始める結界が間を置かずに弾け飛び、驚愕に空を見上げたヴァレスの視界に結界の破片がパラパラと降り注ぐ。結界が壊れたことにより、それまで遮断されていた外の気配が一気に流れ込み、ヴァレスの銀髪が激しく風に煽られた。


「結界を解いたのかっ!」


 塔の最上階とそこへ繋がる道には、クラウディスの力で強力な白魔法の結界を張っていた。それを壊せるだけの力を持つ者はこの場にいなかったはずだが、現に結界は解かれ、ヴァレスにとっては不快な力が近付いてくるのがわかる。

 神界人の力だ。ヴァレスを排除し、エルティナを葬り去った、あのバルザックと同じ力が塔を駆け上がってくる。


「たかが田舎の竜使いが……っ」


 もう誰にも邪魔はさせぬと、ヴァレスの足元から魔界跡の闇が噴き上がった。結界を張り直す時間はない。ならば姿をみせたところで、漆黒の一撃を喰らわせてやろうと瘴気の絡む右腕を上げた瞬間。


「……――ヴァレス」


 闇を纏うその背中に、懐かしいエルティナの声がした。




 ***



 長い螺旋階段を駆け上がった先に、ようやく出口が見えた。逸る心のまま勢いを止めずにくぐった出口のその先に、皓々こうこうとした満月がみえる。清浄な月白げっぱくの光に照らされて佇むのはヴァレスと、どこか危うい雰囲気を纏うレティシアだ。


「レティ……」


 アレスが名を呼ぶ前に、レティシアの声が響いた。けれどその小さな唇が紡いだのはアレスの名前ではなく。


「……――ヴァレス」


 伸ばしたアレスの手を遮って、どこからか漂う白い靄がレティシアとヴァレスの姿を覆い隠していく。

 霞む視界が最後に映したのはヴァレスの頬に手を伸ばすレティシアと、その手を掴んで愛おしげに頬を寄せるヴァレスの姿だった。


「エルティナ」


 愛をささやくような、ヴァレスのあまい声が響く。辺りに漂う白い靄は波のように大きくうねり、アレスの視界からレティシアも、隣にいるはずのロッドの姿さえのみ込んで隠してしまう。それでも必死に伸ばした指先が、かすかにレティシアの銀髪に触れた気がした。


 ――いとしいヴァレス。そして、かわいそうなヴァレス。


 アレスの頭の中にエルティナの声が木霊した。何度レティシアを呼んでも叫びは音として漏れることはなく、アレスはただ聖も邪もない、ただの白い空間に囚われてしまった。




 ***



「エルティナ。……これは、幻か?」


 儀式はまだ執り行われていない。なのにレティシアの中に、エルティナの存在を感じる。結晶石の封印と、エルティナの魂を拘束した血の封印。二つの封印が解け始め、レティシアの中にあるエルティナの魂が目覚めはじめているのだろう。その証拠にレティシアの体を抱きしめると、懐かしいエルティナの気配が確かにヴァレスの心に伝わった。


「会いたかった」


 あまくささやいて、レティシアの首筋に顔を埋める。レティシアの奥にあるエルティナをもっと感じようとして、強く体を抱きしめた。応えるように背中に腕が回るのを感じて、ヴァレスの渇いた心にあたたかい水がじわりと染み込んでいく。


「ヴァレス。あなたをこんなにも苦しめてしまって……ごめんなさい」

「お前のせいじゃない」

「でも私は……」

「その苦しみも、もうすぐ終わる。やっとお前をよみがえらせることができるんだ。エルティナ。こんな偽りの体ではなく、本当の俺とお前で触れ合える」

「ヴァレス」


 エルティナの声に、わずかな躊躇いの色を感じた。それに気付かないふりをして、ヴァレスは強くレティシアの体を両腕にかき抱いた。


「ヴァレス。……いとしいヴァレス。あなたを今でも愛しているわ」


 ハッとしたように、ヴァレスがわずかに体を離してレティシアの顔を覗き込んだ。まるで行いを褒められた子供のように安堵して、ヴァレスの頬が思わず緩む。

 ヴァレスの悲願をエルティナもまた望んでいるのだと、そう信じて微笑んだ――はずだった。


「けれど、私は……あなたの元には戻れないわ」


 どこか遠くで、何かが罅割れる音がした。それはヴァレスの表情にまで及んで、微笑んだまま眉間に皺を寄せたいびつな形のまま時を止めてしまう。喘ぐように唇が動いて、エルティナの名を呼んだつもりだった。なのにこぼれ落ちた音は、ただの吐息で。


「もう、戻れないの。あなたを誰よりも愛しているから、私はあなたにこれ以上罪を重ねてほしくない。ヴァレス。もう……一緒に眠りましょう」

「……エ……ティ、ナ……?」


 壊れる。

 壊れる。

 信じて、ただひたすらに信じて待ったエルティナに、すべてを拒絶される。何よりも求めて、走り続けてきた道の先がぷっつりと途切れて、ヴァレスの目指す未来が魔界跡の闇より深い深淵へ落ちていくようだ。


「な、にを……。エルティナ、何を……言っているんだ?」

「ごめんなさい、ヴァレス。私だって、本当はあなたのそばにいたいと願うわ」

「だったら!」

「けれど、だめなのよ。――歪んだ生を、受け継ぐことはできないわ」


 求め続けたエルティナも。狂うほどに切なく願った思いも。封印が解ける結晶石も。すべてがばらばらに壊れて、ヴァレスの中に残るのは何もない空白だけだ。自身の命すら薄く伸ばして生き長らえたのに、ヴァレスを支える唯一の願いがエルティナ本人の言葉で無に帰され、ヴァレスは己の命の意味すら失ってしまった。


「……――お前まで、俺を否定するのか?」


 震えの止まった唇からこぼれ落ちた音は、自分でも驚くほどに冷たく凍えきっていた。抱きしめていたレティシアの体を離し、赤の双眸でその姿をまっすぐに見据える。は、泣きそうな顔をしてしきりに首を横に振っていた。


「いいえ! いいえ、ヴァレス。私は……っ」

「俺の生きてきた時間は無駄だったと言うのか? お前を望み、それだけを支えにしてきた俺はっ。……俺は!」


 ヴァレスの悲痛な叫びに引き寄せられ、体に黒い瘴気が纏わり付いた。辺りを覆う白い霧を吹き飛ばし、再び塔の最上階を漆黒の闇に染めていく。


「すべては間違っていたと!? エルティナを……お前を愛した瞬間から。……違う。違う! 違うっ! 俺はただ……ただっ、もう一度お前に……っ」


 両手に抱えた頭を強く何度も振りかぶった。脳裏に焼き付くエルティナのさみしげな表情も、自分の唯一の願いを拒絶した言葉も、何もかもを追い払いたかった。

 頭が痛い。耳鳴りがする。息がうまく吸えなくて、目頭が熱く滲んだ。頬を滑り落ちる熱が涙だと気付いた瞬間、ヴァレスは堪えきれずに声を張り上げて慟哭した。


「お前に会いたかっただけだ……っ!!」


 惨めに泣き喚いても構わない。それでも望むものは他にはないのだと、ヴァレスがエルティナへと手を伸ばした。


「エルティナ……頼む。……俺から離れていかないでくれ」


 哀願して伸ばしたその指先が、レティシアの頬に触れた。熱を持つ肌の感触。血の通う体。あと少しで、エルティナも同じ生きた体を手に入れられるのだ。

 だからこの手を取って欲しいのだと、切なく乞うように伸ばした手の先で――レティシアの体が力をなくして床に倒れ込んだ。


「エルティナ!」


 床に散らばる銀色の髪。開かれることのない瞼。その姿は、遠い昔の血塗られた惨劇の夜を思い起こさせる。

 何度呼びかけても、何度揺すっても、もうレティシアの体にエルティナの魂が目を覚ますことはなかった。


「エルティナ! エルティナっ! ……エル……っ」


 レティシアの顔と、背後に聳え立つエルティナの体を閉じ込めた水晶を見比べて、ヴァレスは壊れた人形のように首を横に振り続けた。


「だめ、だ。……また、俺を置いていくのかっ。……エルティナ!」


 動かないレティシア。

 戻らないエルティナ。

 どちらもヴァレスの声には応えない。


「……行く……な。エル……俺……っ」


 もはや言葉ですらない嗚咽をこぼしてヴァレスが泣く。

 エルティナに届かなかった願いが歪んでいることすら気付けずに、ヴァレスはただ拒絶された痛みと絶望に昏く落ちていくだけだ。積年の思いも行動も拒絶され、ヴァレスの願いは行き場をなくして暴走する。


 ――あなたの元へは戻れないわ。


 すべては間違っていた。

 間違っていた。

 間違っていた。


「うわああああああっ!!」


 喉が裂けるほどの声を上げてヴァレスが絶叫した。

 空気を震わせ、闇も霧も吹き飛ばして響く嘆きは空にまで届いて。


 誰にも受け入れられなかったヴァレスの願いは、ただひとつ――空の一番高いところに昇った満月だけが叶えようとしていた。






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