第78話 短剣に込められた願い

 レティシアの消えた結界の向こう、部屋だった場所がぐにゃりと歪んで黒い渦にのみ込まれていく。その先にレティシアの気配を感じるのに、アレスの前には未だ壊すことのできない透明な壁が立ちはだかっていた。

 奇しくもヴァレスがクラウディスの体を用いて作った白魔法の結界が、溢れ出す魔界跡の闇を綺麗に分断している。そのおかげでアレスの場所にまでは瘴気の魔手が届いていない。それがまた余計に苛立ちを生んだ。


『私がこの世界を守ることを、許してくれますか?』


 頭の中に響く不吉な言葉が消えていかない。レティシアの、覚悟を決めたさみしげな微笑が脳裏に焼き付いて離れない。


 レティシアが世界を守るということ。それは死と同義だ。


 ――私が死ぬことを……。


「許せるはずがないっ!」


 焦り。苛立ち。不安。恐怖。すべての思いを剣に乗せて、アレスは見えない壁に向かって腕を振り下ろした。けれども青銀色の剣は高い音を響かせるだけで、結界の壁には傷ひとつつけられない。


「だめだ。犠牲になど……」


『あなたを、誰よりも愛しています』


「お前なしで生きろというのか!」


 ごうっと白く尾を引く風が、アレスを中心にして巻き上がった。体の奥に確かに感じる力の源へ手を伸ばし、血に眠る白き力を鷲掴みにして強引に引きずり出す。

 目の前の結界がクラウディスの白魔法で作られたものなら、それを上回る白魔法で粉砕するしか手立てはない。強力な神界人の力はアレスの体にまだ負担が大きいが、自身への負荷など気にしていられない。

 肌が裂けるのを感じたが、同時に力が体中に巡っていくのもわかる。その力が暴走する前に、両手で握りしめた剣を力任せに振り下ろした。


 キィィンッ……と甲高い音を響かせて、透明な結界にわずかな波紋が広がっていく。色のないさざなみに揺れて映るのは、腕や額から血を流すアレスの姿だ。さっきまで何をやっても無反応だった壁が、ここにきてようやく軋み始めた。あと数回力を叩き込めば破ることができるかもしれない。そう期待して、更に力を引きずり出したアレスが、二度目の攻撃を振り下ろそうとした瞬間。


「アレス! お前、何やってんだっ。血まみれじゃないか!」


 突然背後から聞こえた声に振り返ると、息を切らしたロッドが駆け寄ってくるところだった。


「ロッド!? どうして……お前、怪我は?」

「メルドールが助っ人に来てくれたんだよ。俺の怪我も綺麗さっぱり治してくれた」

「メルドールが?」


 レティシアを探すことで頭がいっぱいだったが、確かに言われてみれば外に強烈な白魔法の気配がする。イルヴァールを奪われた現状で彼の助力は素直にありがたい。彼ならばこの結界も壊せるのではと思ったが、ロッドと一緒に来ていないところを見ると外でやることがあるのだろう。彼の手を止めてまでここに呼び寄せることは得策ではないような気がした。

 ならばやはり自分が壊すしかないと剣を握りしめれば、その手を上からロッドに掴まれてしまった。


「そんな無茶して何やってんだ」

「無茶でもしないと、この結界の壁は壊せない。レティシアはこの先にいるんだ」

「見つけたのか!?」

「だが、また消えてしまった。もう時間がない。急がないと……あいつは自分を犠牲にしてしまう」

「わかった。俺も先へ行けないか道を探るから、お前はもうそんな無茶すんな」

「……お前がそれを言うのか」


 先に無茶をしてアレスを心配させたのはロッドだ。メルドールが怪我を治してくれたとしても、体力が完全に戻っているわけではないことは、彼の疲弊した表情からも見て取れた。


「お互い様だろ」

「……そう、だな」


 ロッドの怪我を見た時、アレスは彼が死んでしまうのではないかと恐怖した。同じ思いをいまロッドにさせていたことを知って、アレスはばつが悪そうに視線を逸らしてしまった。「すまない」と小さく呟けば、それはちゃんと届いていたようで、ロッドはアレスの肩を軽く叩きながらニッと屈託のない笑みを浮かべた。


「おう! 気にすんな。お前の気持ちは痛いくらいによくわかる。早くレティシアを取り戻そうぜ!」

「あぁ」

「俺はここ意外に道がないか周りを見てくる。何かあったらすぐ……おわっ!?」

「どうした!」


 部屋を出て行こうとして奇声を上げたロッドを振り返ると、彼の腰帯に差し込んでいた短剣が青白い光を放って、ゆっくりと点滅を繰り返していた。不可解な事態に警戒はしたが、薄青の光からは邪悪な気配は一切感じられない。


「ロッド、それは?」

「そうだった。メルドールがアレスに渡してほしいって。クラウディスがレティシアに作ってたお守りらしいんだけど……何で急に光り出したんだ? さっきまで全然何ともなかったのに」


 短剣を腰帯から抜くと、それはするりとロッドの手をすり抜けて、アレスの青銀色の剣に引き寄せられていく。二つの剣の刃が青白く光を纏い、共鳴するように淡く瞬いた。

 短剣の刃が、アレスの剣の刃に触れる。かと思うと短剣はそのまま青銀色の刃の中へ、溶けるようにして消えてしまった。


「消えた? ……何なんだ、あれは」

「俺はメルドールから、役に立つかもしれないって渡されただけだよ。もしかしたらクラウディスの思いが残ってるかもしれないって」

「クラウディスの……」


 短剣の消えた……取り込んだ、といった方が正しいのかもしれない。確かにさっきはなかった、何か別の強く清らかな力が剣に宿ったことを肌で感じる。剣を握る手のひらから伝わった力はアレスの体を巡って、心の奥にまで緩やかな波紋を広げていく。

 体中に力が満ちるようだ。アレスとは違う、何か別の力。けれどレティシアを救おうとするその思いが同じであることを、アレスは感覚的に悟った。


『レティシア』


 音すらないクラウディスの声が、鼓膜を震わせた気がした。同時にアレスは目を閉じて、眼前に構えた青銀色の剣を迷いなく結界の透明な壁に突き立てた。


 さっきまでまるで歯が立たなかった結界の壁に、いとも容易くアレスの剣が突き刺さる。分厚い氷塊を砕いたような鈍く低い音が響いたかと思えば、突き立てた剣を中心にしてそこから一気に深い罅が走った。


「伏せろ!」


 間髪入れずに砕け散った結界の向こうから、押し止められていた瘴気の波が溢れ出す。その瘴気がこちらへ降りかかる前にアレスが剣を真横に薙ぐと、刃から棚引く薄青の光がヘルズゲートの闇を浄化して、辺り一面に清々しい清涼な空気が広がった。

 まるで朝露に濡れた、瑞々しい花のような匂いだ。きらきらと淡く降り注ぐ光の粒子に混ざって、アレスの知らない薄青の美しい花びらがいくつかこぼれ落ちている。


「結界……解けたのか?」

「あぁ。クラウディスに助けられた」


 短剣を取り込んだアレスの剣は、未だ淡い青色の光を纏っている。クラウディスの祈りによって作られた薄青の短剣。レティシアを助けたいと願うクラウディスの思いは、確かに短剣に込められていた。その願いを次は自分が引き継ぐのだと、アレスは青銀色に輝く剣を強く握りしめた。


 妹を救いたいと願ったクラウディス。窮地に駆け付けてくれたメルドール。地上では精霊王イエリディスも、天空での戦いの被害が及ばないよう尽力してくれている。

 この世界の誰もが、レティシアを救いたいと願っている。


 だから、ひとりでいくな。

 ひとりですべてを背負うな。

 皆の思いを届けるために、そしてクラウディスの願いを叶えるために、アレスは塔の最上階へと続く長い階段を一気に駆け上がっていった。



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