第77話 レティシアの覚悟
『レティシア。お前はこの世界が好きか?』
荒れ果てた部屋の中、ベッドに腰掛けたままレティシアはぼんやりと窓の外を眺めていた。さっきまで晴れていた空は暗く、いつの間にか夜の帳が降りている。
体の中に眠る結晶石が夜を――月を呼んでいるのだ。封印は、もういつ解けてもおかしくない。時間は刻一刻と失われていくのに、レティシアは未だ答えを見出せないままだ。
『結晶石にとっての世界がお前であるうちに、すべてを終わらせなければならない。いま世界を救えるのはお前だけなのだ』
頭の中でラスティーンの言葉がくり返し木霊する。
かつてレティシアは結晶石のためにこの身を捧げてもいいと、本気でそう思っていた。永劫封印にて結晶石ごと体を封印する。自分の存在意義は結晶石を守り通すことだと、天界の姫として与えられた使命を全うしなければと、自分の運命を諦めて受け入れていた。
あの時ならば、迷いなくラスティーンの言葉に従うことができただろう。
『俺は、お前だけが犠牲になる世界は間違っていると思う』
けれど、アレスはレティシアに新しい道を示してくれた。共に結晶石の謎を解き明かし、その重荷を一緒に背負おうと手を伸ばしてくれた。
諦めではなく、希望を。自分自身で断ち切っていた、未来へ進むための勇気を与えてくれた。
『レティシア。お前はどうしたい?』
きっと世界から見れば、ラスティーンの方が正しいのだろう。ひとつの犠牲で多くの命が救われる。世界とレティシア。天秤にかけても、どちらが重いかは明白だ。
頭ではわかっているのに素直に受け入れられないのは……。
「……アレス」
生きたいと。
アレスと共に生きて、この先も続く世界を一緒に見てみたいと願ってしまった。
けれどレティシアの願いは世界を滅ぼす。
レティシアは愛しい者のために、愛しい者が生きる世界のために死ななければならない。
(――死にたくない)
世界を救いたいと願う。
ずっとアレスのそばにいたいと願う。
けれど世界を救ったあとに、アレスのそばにいるのはレティシアではない。そう思うと、張り裂けそうなほどに胸が軋んだ。
(どうして……。願うことは罪なの? 私のこの思いは世界を救うために……邪魔でしかないの? アレスを……愛しいと思うのは……)
視界が歪む。あふれる涙を拭うこともできず、レティシアは震える体を両腕にきつく抱きしめた。唇を噛み締めて、必死に嗚咽をこらえる。声を出せば、我を忘れて泣き喚いてしまいそうだった。
何を選べばいいのかもわからない。何もかもを選び取りたい。
ぐちゃぐちゃに乱れる心の中でくり返し叫んでも、レティシアに応えるものなど誰もいない。どんなにつらくとも、悲しくとも、結晶石を宿しているのはレティシアだ。ならば答えを出すのも、レティシア以外にいないのだ。
『レティシア。お前はこの世界が好きか?』
(えぇ。大好きです)
『ならば、答えは自ずとわかるだろう? ……お前の思いは正しい。生きたいと願うことも、愛する者と共にありたいと願うことも。お前たちの絆は誰にも断ち切ることはできぬ。アレスを思うお前の心。まっすぐで純粋な愛情。それはこれから先、何があろうと変わることはない。お前の愛は、アレスの中に強く刻まれる』
(私の、思い。……私のすべて)
『ヴァレスがそうであったように、愛は時に人を狂わせる。しかしお前たちを見ていると、その深い愛が起こす奇跡の力を信じてみたくなる。……私が言えた義理ではないが』
(――私。……私は……)
「レティシアっ!」
頭に響くラスティーンの声をかき消してレティシアに届いたのはアレスの声だった。今まで鬱々と悩んでいた不安や迷いが一気に吹き飛び、レティシアの中に澱んでいた靄があっという間に晴れていく。
「アレス!」
姿を確認するより先に身体が動いていた。駆け寄った先に結界があることすら忘れて、伸ばした手が透明の冷たい壁に阻まれる。それでも手を伸ばさずにはいられなかった。
「アレスっ! アレス……アレス!」
何度叩いても、レティシアの手がアレスに届くことはない。目の前に、それこそ息がかかるほどの距離にアレスがいるのに、レティシアの指先に伝わるのは結界の冷たい壁の感触だけだ。それがもどかしくて、レティシアは両手を壁に強く押し当てる。
「レティシア。無事か?」
声を出せば泣き喚きそうで、レティシアは頷くことで返事をする。ようやく会えたのに熱すら感じられない。それはまるで、この先の未来を表しているようでもあった。
「少し離れていろ。壊せないか試してみる」
そう言ってアレスが結界に手を当てたまま目を閉じた。結界を構成する魔力の流れを感じ取っているのだろう。同じく結界に触れたレティシアもどこかに綻びがないか必死で探ってみたが、わずかな希望すら与えないほどに結界は強固な白魔法によって作られていた。
これがヴァレスの操る黒魔法であるなら、対極にある白魔法で破壊することも可能だったはずだ。そこにアレスの神界人の力を込めて剣を振るえば、おそらく結界はいとも容易く壊れたことだろう。
けれどここにあるのは白と白。抜かりのないヴァレスの術を前に、アレスの剣もレティシアの魔法も虚しく弾かれてしまった。
「くそっ!」
本来ならばレティシアを守るはずのクラウディスの白魔法にこんなところで邪魔をされ、アレスは苛立ちを隠せないまま結界の壁に強く拳を叩きつけた。
触れる結界から感じるのは光の糸を幾重にも重ねて作られた魔法の気配。アレスと同じ属性の白魔法で作られた結界を壊すには、結界を形成する光の糸に施された呪文をひとつずつ解除していかなければならない。力ではなく、時間を要するもの。解除しているうちに、結晶石の封印が解かれてしまうことなど目に見えている。
それでも諦めるものかと、アレスは神界人の力を引き出そうと目を閉じて意識を集中させた。
「……アレス」
名を呼ぶと、アレスが慌てて目を開いた。重なり合う視線がただただうれしくて、レティシアは涙を流しながら淡く微笑んでみせる。
「アレス。あなたを感じます」
ぐっと押し付けた手のひら。透明な壁を隔てて重なり合う互いの手に、熱など感じるはずもない。けれどレティシアは、アレスの手のひらを愛おしそうに指先でなぞった。そしてもう一度、強く自分の手のひらを押し付ける。
「あなたのぬくもりを、確かに……感じます」
「レティシア。……あぁ、俺も感じる」
気のせいかもしれない。そうであって欲しいと願う、愚かな夢かもしれない。重なり合っているように見えて、実際に肌に伝わるのはガラスのように冷たい感触だけだ。なのに、レティシアの手のひらにはアレスの熱が確かに伝わってくる。愛おしいそのぬくもりが、レティシアの心までもをあたたかく揺さぶった。
「アレス。私、信じています。この思いは……一緒に旅をした記憶は、ずっと私の中に残るのだと。そしてアレス、あなたの中にも」
「当たり前だ」
「あなたと出会ったこの世界が、とても大切です。そこに生きる人々も」
間近に見つめ合うアレスの顔が、ぎくりと強張った気がした。けれどレティシアはそれに気付かないふりをして、ただ安心させるように笑う。泣き顔のままだったが、笑っていなければ決意が鈍りそうだった。
だからアレスが声を発するよりも先に、はっきりと告げる。
「アレス。……私がこの世界を守ることを、許してくれますか?」
――私が死ぬことを、許してくれますか?
レティシアを見つめる深緑が、痛みを堪えるように歪んで……そしてすべてを拒絶するかのようにきつく閉じられた。泣きそうな顔はアレスも同じだ。それでも涙はこぼさずに、唇を噛み締めて溢れ出す絶望を必死に押し止めようとする。
剣をぎゅっと握りしめ、額は結界の壁に強く叩き付けて、鼓膜に焼き付いた声音をなかったことにしようとした。けれど再び開いた視界に映るレティシアが、覚悟を決めた悲しい笑みを浮かべているのを見てしまえば、もうアレスにはわき上がる激情を抑える術などない。
重ねた手のひらにダンッと拳を叩きつけて、思いが、願いが届くように強く叫んだ。もうアレスにできることは、それしかなかった。
「……ない。……っ、できるわけがない!」
「アレス」
「犠牲になろうとするな! 必ず助けるっ。助けてみせる!」
「でもっ……でも、アレス」
「お前を失いたくない!」
アレスの心からの叫びに、レティシアがはっと息を呑んで固まった。こんな状況なのにアレスの思いがうれしくて、ただただうれしくて涙が止まらない。当時に自分がひどくわがままな人間に思えて居たたまれなくなる。
死にたくない。アレスと一緒に、生きていきたい。
「だめ……。だめです。せっかく決心したのに……そんなこと、言わないで」
「そんな決心などする必要がないっ!」
「アレス……」
愛おしさが込み上げて、とまらない。アレスに触れたい。触れて欲しい。このまま体も心も奪って、どこか遠くへ攫っていってほしいとさえ思ってしまう。
使命も運命も何もかもをかなぐり捨てて、ただアレスの手を取れたならどんなにいいだろう。儚い夢に縋って重ねた手のひらの、その指の先が――透明にほどけて輪郭を失いはじめていた。
ハッとして引き戻した手を握りしめる。けれど透過は指先だけではなく、既にレティシアの全身にまで及んでいて。
「レティシアっ!」
結界の壁の向こうで、アレスが焦ったように剣を振りかざした。何度剣を突き立てても結界が壊れることはなく、その間にもレティシアの体は薄くほどけて色をなくしていく。
時が満ちる。
待ち望んだ儀式を行うために、ヴァレスがレティシアを呼び寄せているのだ。
「アレス」
体に絡みつくヴァレスの呪を感じて、レティシアが縋るようにアレスへと手を伸ばした。薄く実体をなくしたレティシアの手が結界の壁をすり抜けて、一瞬だけアレスの指先と絡まり合う。
「アレス。あなたを誰よりも愛しています」
触れた指先を引き寄せる間もなく、儚げに笑ったレティシアの姿がアレスの目の前から完全に消失した。
「……っ、レティシアーっ!!」
暗く沈む城の中、アレスの悲痛な叫びが木霊する。
星さえ怯えて姿を隠す夜空に、いま、白く輝く満月が終わりの始まりを告げようとしていた。
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