第76話 引き合う翼
――レティシア。
懐かしい声に呼ばれていた。
――レティシア。どうか私を止めてくれ。
暗闇の中に、ぽつんと灯る銀色の光が見える。光は揺れ、星屑の川のようにさらさらと流れていく。それが銀髪だと気付いた瞬間、互いの青い瞳が重なり合った。
――すまない。すまない。どうかお前だけは……お前だけでも。
哀切滲む青い瞳は瞼に隠され、さざなみ揺れる銀髪の光に懐かしい影が埋もれていく。ぼやけて霞み、消えていく。
レティシアは手を伸ばした。声なき叫びを必死にくり返し、いかないでと、子供のように泣き叫んでいた。
「お兄様っ!」
追い縋るように腕を伸ばして飛び上がると、そこは自室のベッドの上だった。また強制的に城へ戻らされている。けれどレティシアは失意に沈む
部屋の中、苦しげに呻く男の声が響いていた。両腕を抱いて床に蹲っているのは、クラウディスの姿をしたヴァレスだ。痛みを堪えるように歯を食いしばり、苦悶の表情を浮かべている。
「ヴァレス……」
「ぐぁっ……。き……、ろっ!」
クラウディスの姿で苦しむ様子に、レティシアはたまらず腕を伸ばした。けれどベッドを中心にして結界が張られているのか、伸ばしたレティシアの指先は見えない壁に阻まれ硬い感触を伝えるだけだった。
閉ざされた室内、風などないのにクラウディスの銀髪が激しく煽られ、蹲るその背中からじわりと赤黒い靄が滲み出す。靄が濃さを増すたびにヴァレスは声を荒げ、頭痛でもするのか両手で頭を強く抑えて掻きむしる。乱れた銀髪の間からのぞく瞳が、ヴァレスの赤から本来の青へとめまぐるしく色を変えていた。
「ここまで来て邪魔など……くっ」
見開く瞳がレティシアと同じ、澄んだ青に輝いた。同時にクラウディスの背から翼のように弾き出された靄が、一瞬だけ苦悶の表情を浮かべたヴァレスの影を模った。かと思えばそれは引きずられるようにして、またクラウディスの中へ戻ってしまう。
「お、お兄さ……」
「消えろっ。クラウディス!」
クラウディスの体を中心にして、激しい風が渦を巻いた。椅子を吹き飛ばし、カーテンを巻き上げて引き千切る風は、けれど結界に守られたレティシアの周りには及ばない。透明な壁ひとつ隔てた向こう側で、部屋の中が嵐に見舞われたかのように損壊した。
突風は一瞬。荒れた部屋の中、蹲っていたクラウディスがゆっくりと立ち上がり、乱れた髪を掻き上げる。レティシアを冷たく見据える双眸は、絶望の真紅だ。
「お兄、様……お兄様!」
「奴は消えた。もう邪魔はさせない」
「嘘! さっきあなたを苦しめていたのはお兄様でしょう!? お兄様!」
「黙れっ!」
結界の壁を突き抜けて、ヴァレスの右手がレティシアの首を鷲掴みにした。そのまま軽く持ち上げられ、レティシアの爪先が床を蹴る。
「お前を助けるものなど、もうどこにもいない。惨めな希望など捨てろ」
「ど……して……。どうして、あなたにはわからないの。こんな、こと……エルティナが望むはず、ないわ」
かっと見開いた双眸がより濃い血の色に輝いたかと思った瞬間、レティシアは乱暴に床へと放り投げられてしまった。強かに打ち付けた体と荒い呼吸に視界が歪む。生理的にこぼれた涙を拭って顔を上げると、ヴァレスは冷ややかな目を向けてレティシアを蔑むように見下ろしていた。
「お前がエルティナを語るな。お前は所詮エルティナの魂の器に過ぎない」
「ヴァレス!」
「話は終わりだ。お前は時が来るまで、ここでおとなしくしていろ」
踵を返してヴァレスが部屋を出ていく。エルティナ以外すべてを拒絶するその背中に、レティシアはもうクラウディスの気配を感じ取ることはなかった。
***
塔の内部は薄暗かった。
壁も床もやわらかな触手が絡まり合った得体の知れない物体で覆い尽くされており、踏めばぐにゃりと嫌な感触をアレスに伝えてくる。多少歩きづらくはあったが、破裂しないだけまだマシだ。
それに触手に覆われてはいるが、廊下や部屋など、ここが以前どのような造りであったのかを知るくらいには城の原型を留めていた。とはいえ壁から生える手のひらの燭台や天井からぶら下がる目玉など、魔界跡の産物もそこかしこに存在している。そういうものにはできるだけ触れないようにして先に進み、アレスは目についた扉を開けて回ってはそこにレティシアがいないか確認していった。
階段を上がり、二階の部屋をいくつか調べて回った後、アレスは異様に頑丈な封印の施された扉を見つけた。封印自体は目に見えないが、瞼を閉じればアレスの脳裏にその複雑な魔法陣の姿を浮かび上がらせる。
赤く細い、放射状の結界だ。その中心には毒々しい
アレスの気配を異物として感じ取った蜘蛛が、新たな結界の巣を作ろうと動き出した。それよりも早くアレスが蜘蛛を真っ二つに斬り裂くと、扉に張り巡らされていた蜘蛛の巣がガラスの破片のように粉々に砕け散った。
「レティシア!」
こんなにも強固な結界だ。きっとここにレティシアがいるのだろうと焦って開いた扉の先、アレスの目に飛び込んできたのは壁に鎖で繋がれた白い片翼だった。
「これは……レティシアの」
白い羽根を汚す鮮血は既に固まっており、模様のように翼を染め上げている。床にまでこぼれ落ちた
壁に繋がれた片翼に、あの日失いそうになったレティシアの姿がよみがえる。唐突に浮かんだ過去の記憶は皮肉にも今の現状を示唆しているようで、アレスはその悪い予感を振り払うように頭を強く横に振った。
レティシアは死なせない。ヴァレスからもラスティーンからも守ってみせるのだと強く自分を奮い立たせると、アレスの思いに同調するかのようにレティシアの片翼がふわり……と淡い光に包まれた。その光に呼応して、今度はアレスの翼も大きく左右に広がる。よく見れば、アレスの翼も淡く光っているようだ。
光に嫌な気配はしない。むしろ春風のようなあたたかさを纏いながら、アレスの翼とレティシアの片翼を光の帯で繋いでいく。
はらはらと、ほろほろと。
レティシアの片翼がゆっくりと形を崩していく。舞い散る羽根を思わせる光の粒子はやがて引き寄せられるようにアレスの翼へ触れて、ほどけて、完全に融け合わさってしまった。
『――アレス』
レティシアの片翼がすべてアレスの翼に吸い込まれて消えた瞬間、アレスの頭の中に切なく名を呼ぶレティシアの声が木霊した。
「……レティシア?」
部屋の中を見回しても、振り返ってみても、そこにレティシアの姿はない。けれどさっきまでは感じられなかった、何か細く儚い糸のような気配がする。それはまるでレティシアとアレスを繋ぐ、一本の絆のようだ。
翼を失った神界人は、なくした翼を求めて死ぬまでさまようとイルヴァールは言っていた。片翼のみ奪われたレティシアが廃人となることはなかったが、獣人界で目覚めた時、レティシアは確かに何かを求めて消えかけていた。それがヴァレスによる術であることはその後レティシアが消えたことからも明らかだが、それ以外にも翼と本人とを引き寄せる何かがあるのではないか。
レティシアの気配を感じられる今、アレスはそう確信する。
「レティシア。いま行く」
気配は更に上、城の三階へと続いている。おぞましい魔界跡の産物が行く手を遮るのを剣で薙ぎ払いながら、アレスはレティシアの気配を辿って階段を一気に駆け上がっていった。
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