第75話 クラウディスの祈り

 ぱちんと意識が弾けた。同時に勢いよく飛び起きた体に激痛が走り、ロッドは再び地面に倒れ込んでしまった。息を吸い込むことすら苦痛で、短い呼吸を繰り返すことしかできない。ひどい耳鳴りがして、頭が割れるように痛い。思わず体を丸めたその背中で傷が弾け、また新たな鮮血が飛び散った。


「ぐぁ……っ」


 脳の奥まで何千という細い針を突き刺されているようだ。心臓の鼓動、体を伝う血のあと、頬にかかる髪の一本でさえ、ロッドを蝕む激痛となる。何をしても逃れられない痛みに、呻くことでしか耐えられない。なのにその声の振動ですら体に敏感に響いてしまい、ついにロッドは痛みを痛みで消し去ろうと激しくのたうち回りながら絶叫した。


「動くな、馬鹿者!」


 突然聞こえた声に思わず目を見開く。ぼやけた視界に映ったのは宵闇の紺色に揺れる白い雲……ではなく。それを髭だと認識した途端、ロッドは驚きのあまり体を起こそうとして、また鋭い声に叱咤された。


「じゃから動くなと言っておろうが! 本当に手のかかる大人じゃ」


 とん、と杖の先で肩を突かれた瞬間、ロッドは文字通り石のように固まって地面に転がってしまった。目も動かせる。声も出せる。体の自由だけが綺麗に奪われて、激痛はしっかり残っている状態だ。痛みに身を捩ることもできず、恨めしげに見上げた視界に、困ったように眉を下げるメルドールの姿があった。


「まったく。お主は術をかけんとおとなしくできんのか」

「……メルドー、ル?」

「強がって敵を倒している場合ではなかったぞ。わしの到着が遅ければ、お主は確実に死んでおった」


 そばに屈んだメルドールが軽く杖を振ると、ロッドの体に纏わり付いていた瘴気が薄く棚引いて消えていく。ほんのりと体があたたかく感じるのは、メルドールが持つ杖の水晶が優しく光っているからだろうか。気付けば呼吸も随分と楽になっている。


「……どうしてここに?」

「お主らを追ってきたに決まっておるじゃろう。世界最強の白魔道士であるわしがいなければ話にならんじゃろ」

「そう、か。……助かった」


 体を巡るやさしい力に癒やされて、体から痛みがどんどん消えていく。一番傷の深かった背中からも痛みが消えたことを感じて身を捩ると、いつの間にか体にかけられていた拘束の魔法も解除されていた。

 ゆっくりと体を起こして、腕を適度に回してみる。多少の怠さは残るものの、普通に動くには問題なさそうだ。


「さすがメルドール。もう全然痛くないぞ。ありがとう! ……正直、死ぬかと思った」

「当たり前じゃ。これほどの傷を受けて全力で戦う奴など、よほど腕に自信があるか、あるいはただの大馬鹿者しかおらん」

「俺は後者だな?」

「分かっているだけマシじゃな」


 メルドールが最後にロッドの頭上で杖を大きく振ると、体を包んでいたやわらかい光がさざなみのように揺らめいて静かに消えていった。


「お主はセリカのためにも、必ず生きて帰らねばならぬ」

「そうだ……セリカ」

「まったく……最高の喜びを知る前に死んでどうする」

「何のことだ?」

「帰ってからのお楽しみじゃ!」


 話は終わりだと言わんばかりに、メルドールがロッドの背中をべしんっと強めに叩いた。ちょうど魔物に抉られた箇所だ。痛みはないが、何となく体がびくりと震えてしまう。


「ってぇぇ! 怪我人には優しくしてくれよ」

「その傷はわしが綺麗さっぱり治してやったわ。あぁ、でもしばらくはライオンに変身できんから、そのつもりでな」

「……は? え? いや……いま何て言った?」

「ライオンの姿には変身できん」

「嘘だろ!」

「嘘をついてどうする。お主の体に、本来ないはずの魔力の流れを感じた。神龍から力を借りたようじゃが、ちと無茶をしすぎたようじゃの。お主の体は今、慣れない魔力を必死に中和している状態じゃ。おまけにその体に残るは、あの神龍イルヴァールの魔力。毒ではないにしろ、魔力に耐性のない獣人の体にはきつかろうて」


 ロッドに加護を与える時、確かにイルヴァールも力は核を壊すためだけに使えと言った。力に依存するとあとで反動がくるとも。その反動がまさか獣人に変身できなくなることとは思いもしなかったが、アレスを先へ進ませるために力を使ったことに悔いはない。だがここから先、自分は何の役にも立たなくなったと理解すれば、どうしようもない焦りだけが生まれた。


「メルドールの魔法でどうにかならないのか!? このままだと戦えない。アレスの足手まといになっちまう」

「落ち着け。何も一生変身できんとは言っとらん」

「今すぐ変身できないと意味がないんだよ!」

「お主は力がないと役に立たんと思っているようじゃが、案外お主の存在そのものに救われている者は多い。特に今のアレスには、お主の無駄に明るい笑顔が必要じゃ」

「無駄に明るいって……」


 ロッドのぼやきに返事をする気のないメルドールが、杖の先端についている水晶球を右手で軽く撫で始めた。先程ロッドの傷を治してくれた時には白く光っていた水晶が、今度は薄い青色の光を纏いはじめる。その光をくるくると絡め取るようにして右手を動かすと、光はやがてメルドールの右手の中で一本の短剣の姿に変化した。

 薄氷を思わせる、薄青の短剣。透き通る刃の中心には、流星の軌跡のような銀色の線が一本走っている。よく見れば、それは一本の銀髪だ。


「人のままでもできることはある。ロッド、お主にはこの短剣をアレスの元まで届けて欲しい」

「これは? 何か、すごくあったかい感じがする。武器なのに」

「確かに武器ではあるが、この短剣が切るべきものは運命じゃ」


 メルドールから短剣を受け取った瞬間、ロッドの頭の中に懐かしい声が響いた。それと同時に、脳裏に見たこともない光景が浮かび上がる。

 場所は魔法都市。おそらく神殿の一室なのだろう。本の積まれた机に置かれたランプの灯りに照らされて、薄暗い室内に星屑に似た銀髪が揺れている。


『レティシア』


 銀髪の青年――クラウディスの手元にあるのは、薄青の短剣だ。自身の毛髪を一本抜き取って、それを刃の中へ、祈りと共に埋め込んでいく。


『お前を自由にしてやりたい。お前を縛る宿命の鎖を、私の祈りが解き放つことを願って……お前にこの短剣を』


 短剣を包み込むやさしい光が、その光景を見ているロッドの視界までもを薄青に染め上げていく。光の向こうで顔を上げたクラウディスが、一瞬だけロッドを見て笑ったような気がした。


「……クラウディス」

「ほう、お主も感じたか。この短剣を形作るものはクラウディスの祈りじゃ。結晶石の運命に縛られたレティシア殿を、何とか救ってやりたいと願う、純粋で優しい唯一の魔法」


 クラウディスの祈りが形を成した薄青の短剣。その鋭く研がれた刃に指先を当てても、短剣はロッドの肌を傷付けることはなかった。


「クラウディスがわしに弟子入りしていた頃じゃ。天界から出られぬレティシア殿のため、お守りとなるようなものと作りたいと言ってきた。当時はただの自己満足だと言っておったが、そこに込められているクラウディスの思いはただひとつ。レティシア殿を思う兄心じゃ」


 当時のクラウディスも結晶石のあり方に疑問を持っていたのだろうか。あるいは自由を奪われた妹姫を救いたいという、拙い願いだったのかもしれない。

 修行の合間に時間を見つけてはあれこれ試行錯誤を繰り返し、短剣作成に没頭していたクラウディス。

 そうしているうちに天界王崩御と共に王位継承の儀式が執り行われ、執務に追われるようになったクラウディスが魔法都市を訪れることは二度となかった。


 修業時代に作られた未完成の短剣に込められた魔力は少ない。メルドールでさえ最近まで、短剣の存在を忘れていたほどだ。

 けれど、短剣に宿るのはクラウディスの祈りだ。レティシアが危機的状況のいまになって、メルドールは短剣に込められていた真の意味を知った。


「物置の隅で、光っておったのじゃ」

「光る?」

「そうじゃ。箱に入れていたはずの短剣が棚から落ちていてな。薄く……まるでクラウディスの瞳のように、薄青の美しい光を放っておった」


 クラウディスは魔界王ヴァレスに、その体を乗っ取られている。龍神界での非道を目の当たりにしたロッドも、クラウディスの中にはもうヴァレスしかいないのだと絶望した。今までもクラウディスの中に彼の気配を感じたことは一度もない。ゆえに、その可能性を最初からゼロだと思い込んでいたが。


「もしかしたら……クラウディスはまだ、奴の中で戦っているのかもしれん」


 それは淡く楽観的な希望かもしれない。けれど清浄な薄青の刃に埋め込まれた一本の銀髪の輝きは、闇に沈みはじめた天界に輝く一つ星のようにロッドの心を明るく照らすようだった。


「わかった。これをアレスに届ければいいんだな。任せろ!」

「短剣に、魔除けの魔法を上書きしておる。持っているだけで下級の魔物は近付くことすらできんから、お主はただアレスの元まで走るがよい。わしはここに残って、あれをどうにかしてみせよう」


 メルドールの視線を追って振り向くと、塔を流れる瘴気の滝から新たな魔物が生まれはじめていた。ロッドがそれこそ死ぬ気で全滅させた魔物だったが、瘴気の滝という根源を潰さねば同じことの繰り返しだ。魔法の使えないロッドでは勝機の見えないこの戦場でも、世界最強の白魔道士なら敵を屠り瘴気を無力化する方法などいくらでもある。その証拠にメルドールは余裕の笑みすら浮かべてみせた。


「さぁ、行け。ロッド。皆で必ず地上へ帰るぞ」

「もちろんだ。行ってくる!」


 クラウディスの、妹を思う祈りが形を成した薄青の短剣。それがこの戦場においてどういう効果を発するのか、メルドールにも予測がつかない。けれど物置の隅で光る短剣を見た時、どうあってもこれを天界へ持っていかなくてはならないと、そう強く心に感じた。


『レティシアが結晶石に囚われずにすむよう、私に何が出来るだろうと……そう、ずっと考えていました。答えは今も出ていませんし、その手段も力も今の私にはありません。けれどいつかきっと、私は妹をつらい使命から解き放ってやりたい』


 まだ幼さの残る顔に淡い微笑を浮かべて、在りし日のクラウディスはそう言った。


『レティシアが憧れた世界を、その目で見せてやりたいのです。世界はこんなにも広く、美しいものだということを』


 儚い夢に希望を託したクラウディスと同じく、メルドールもまた薄青の短剣に未来を託して杖を掲げる。

 塔を流れる瘴気の滝は魔界跡の深淵から呼び寄せられた、真の闇。対するには、世界最強と謳われるメルドールの白魔法を全力でぶつけるほかない。

 静かに目を閉じ、意識を集中させる。風もないのに紺色の法衣が翻り、メルドールの足元に眩いばかりの黄金の魔法陣が形成された。


「来いっ! 深淵の亡者たちよ。世界最強の白魔法、その身にしかと刻むがいい!」


 光と闇。決して相容れることのない力と力のぶつかり合いに、天界の地は大きく揺れ動いた。

 絡み合い、互いを侵食し合う瘴気の黒とメルドールの白。それすらのみ込んで、ただひたすらに降り注ぐのは、恐ろしいまでに静かで清浄な月の光。

 物言わぬ満月はいま、塔の最上階に近い場所まで昇ろうとしていた。


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