第74話 獣王の戦い

 魔物たちのけたたましい鳴き声が木霊する。

 倒れた獲物を喰らおうと、瘴気から這い出た魔物が次から次にロッドへと群がりはじめた。


「やめろ!」


 翼を広げロッドのそばに急降下したアレスが、その勢いのまま剣を真横に薙ぎ払う。ごうっと白い尾を引いた風の渦に、近付いていた魔物が細切れになって吹き飛んだ。知能があるのか、残りの魔物はアレスを危険と判断し、一定の距離を保ったままこちらの様子を窺っている。けれどもその間にも、塔を流れる瘴気の滝からは未だ魔物が生まれ続けていた。


「ロッドっ。ロッド、おい!」

「悪い……、大丈夫だっ」


 倒れ込んではいないものの、ロッドは片膝を付いて蹲っていた。丸めた背から、弾けるように血が溢れ出している。臓腑にまでは届いてはいないようだが、その傷の深さは見て明らかだ。

 この状態で戦うことはできないと判断し、アレスは空を仰いで飛竜を呼ぶ指笛を吹いた。


「何、やってんだ……。俺はまだ……帰らないぞ」

「馬鹿を言うな。その怪我で戦えるわけがないだろう!」

「戦える! お前の力になるためにここまで来たんだっ。お前が塔に入るための道は、俺が切り開いてやる!」


 体を支えるアレスの手を振り払って、ロッドが心配ないと強調するようにしっかりと自分の足で立ち上がった。その背は真紅に塗れ、額には汗も滲んでいる。どう見ても重傷なのに、ロッドからは諦めの気配がまるでしない。むしろここからが本領発揮だと言わんばかりに、その金色の髪が闘志に揺らめきさえしていた。


「馬鹿か、お前は! この数をひとりでどうにかする気か!?」


 塔を流れ落ちる瘴気から這い出した魔物は、既に辺り一帯を覆い尽くすほどに増えていた。塔の唯一の入口も魔物たちによって塞がれており、中へ入るにはそこに至るまでの道に群がる魔物を一掃しなくてはならない。


「これくらい……なんてこと、ないっ。俺は獣王だぞ。ここは俺に任せて、お前はレティシアを救い出せ、アレス」


 そう言って、ロッドが再び白いライオンへと姿を変えた。白い体を鮮やかに彩る鮮血が痛々しい。

 かつてジークがアレスにしたように治癒魔法を使えればいいのだが、力に目覚めたばかりのアレスにはそのやり方がまだわからない。持ってきた止血剤では到底間に合わない血の量に、アレスは自分の指先がかすかに震えていることを感じてしまった。


「ここから先は俺ひとりで行く。お前は飛竜に乗ってここから離脱しろ」

「だめだ。俺は残って戦う」

「その怪我でどうやって戦うつもりだ。死ぬ気か!」

「死ぬ気なんてない。イルヴァールがくれた加護の力も、まだ少し残ってる。まだやれる!」

「ロッド! いいかげんにしろっ」


 まるで子供の駄々を相手にしているようだ。思わず声を荒げると、ロッドも負けじと牙を剥き出しにして咆哮した。


「それはお前だろ! アレス。時間がないんだ。空を見てみろ」


 促されるままに空を見上げたアレスの深緑の瞳に映ったのは――夜、だ。

 晴れ渡っていたはずの青空が、それこそ魔界跡の闇に侵蝕されているかのように、じわじわと暗い夜色に染め上げられている。

 強制的に呼び寄せられる夜に輝く星などない。あるのは結晶石と同じ力に引き寄せられ、用意された舞台へ上がらざるを得なくなった満月ただひとつ。魔界跡の澱んだ闇に沈む漆黒の塔を白く照らして、ゆっくりと空の一番高い場所へ昇っていく。

 時刻は昼に近い。なのに空だけが月を迎える準備をしている。


「これは……。封印の解ける結晶石に、月が呼び寄せられているのか……?」

「多分な。レティシアはさっきも白い光に包まれてた。あれが封印の解ける予兆なら、時間はもうない。……だから、アレス。俺たちはこんなところで足止めを喰らってる場合じゃないんだ」

「ロッド……」


 ぎゅっと握りしめた剣が、アレスの迷いを断ち切るように青銀色の澄んだ光を煌めかせた。ロッドを見る深緑の瞳に憂いは残るものの、迷いはもうない。

 ロッドの前に進んで周囲に群がる魔物を一瞥すると、右手に持った剣を前に上げて目を閉じる。青銀色の刃が水面を打つ波紋のように揺らめいたかと思うと、間髪入れずにアレスが大きく剣を真横に薙ぎ払った。

 水飛沫を思わせる青の軌跡に、星屑の灰に似た銀色の光を絡ませて、アレスの薙ぎ払った剣の衝撃波が周囲の魔物を切り裂きながら吹き飛ばしていく。その攻撃に合わせて、アレスに呼ばれていた飛竜が炎を吐き、ロッドの周囲に群がっていた魔物を一掃した。


「お前はここでロッドの援護をしろ」


 アレスの言葉に、飛竜が炎を吐いて返事をする。群がる魔物を焼き払ったところで、残る魔物はまだ半分以上も目視できる。これだけをロッドと飛竜で相手にするには分が悪い。けれど。


「ロッド。お前を信じる」


 アレスは前に進まなければならない。その背を押してくれたロッドのために、何としてもレティシアをこの手に取り戻すのだ。


「当たり前だ。俺を誰だと思ってるんだ? 獣王ロッド様だぞ」


 首を大きく振ってたてがみを揺らしたロッドが、口角をにっと上げて人間らしく笑ってみせた。


「……生きて戻れ」

「お前もな、アレス」


 目を合わせたのは一瞬。それ以上はもう言葉など必要ない。アレスは剣を握りしめ、ロッドは牙を剥き出しにして。すれ違い、互いの進むべき道へと走り出す。

 アレスの背後で、ロッドの猛々しい咆哮が響き渡った。けれどアレスはもう振り返らなかった。



 白いたてがみを靡かせて、迫る夜を切り裂くように吠える。背を真紅に染めつつも堂々と立つその姿は獣王の名を語るに相応しい。

 揺れるたてがみがほのかに金色を纏う。咆哮に合わせて強さを増す光は、ロッドの中に残った神龍の加護だ。やがてロッドから弾かれて四方に散った光はロッドの分身となり、揺らめく影の姿ながらその鋭い牙と爪で魔物を次々に屠っていった。


 金色の分身が魔物を倒すたびに、受けた衝撃と疲労は本体であるロッドに蓄積されていく。地を蹴る四肢も、敵を噛み砕く顎も、感覚は既におぼろげだ。だが、倒れるわけにはいかない。最後の魔物を倒すまで、ロッドは走り続ける。

 地を揺るがす咆哮は自身を奮い立たせるため。そして地上に残してきた愛しき妻に届けるため。

 ここでロッドが倒れてしまえば、溢れかえる魔物はやがて地上へと押し寄せるだろう。魔界跡の闇を地上へ落としてはいけない。その一心でロッドは地を蹴り、敵を噛み砕き、咆哮した。


『ロッド』


 聞こえるはずのない、セリカの声がする。


『ロッド。帰ってきて。怪我しても、腕をもがれてもいいから、絶対に帰ってきてちょうだい』


 帰る場所が。帰らなければならない場所がある。

 視界は闇に沈み、体の感覚は痺れを通り越してもうなにもない。立っているのか走っているのかもわからないまま、ロッドは嗅覚のみを頼りに確実に魔物の数を減らしていく。


 金色の分身が、ひとつ消えたのを感じた。足に重石がつけられたように体が重くなったが、まだ大丈夫だ。まだ走れる。

 金色の分身が、またひとつ消えたのを感じた。だが焦らずとも、この地に群がる魔物を一掃するまであと少しだ。飛竜の炎だってある。敵のにおいは、もうほとんどしない。


 最後の分身が消えたのを感じた。

 もう何も映さない視界に、濃い茶色の髪をした女性の姿が垣間見える。


 (――セリカ)


 名を呼ぶ代わりに牙を剥いて、ロッドは最後の敵を噛み砕いた。そのままの勢いでばったりと地面に倒れ込むと、もうライオンの姿を保てなくなった体が靄に包まれて人型へと戻る。

 抉られた背中の傷は元より、手足すら泥なのか血なのかわからないくらいに赤黒く染まっている。ロッドの意思で動かせるのは、もう瞼くらいだ。それでも動きはひどく緩慢で、まるでそのまま深い眠りに落ちてしまいそうだ。

 否。意識は既に、夢へと落ちているのかもしれない。瞼の裏、あるいは意識の奥に映るセリカが、さっきからずっと声を殺して泣いていた。


(セリカ。……少し休んだら、戻るからな。だから……そんなに、泣くな)


 セリカは気の強い女性だ。いつも気丈に振る舞って、泣き言をあまり言わない。獣王としてロッドが頼りなければ遠慮なく叱咤するし、その背を強く押して前に進ませてくれる。はじめて会った時も、そういえば怒られた気がする。

 けれどロッドは、そんな裏表のない彼女の性格に惹かれた。一目惚れだった。何とか一緒になりたくて、何度フラれようと毎日彼女に求婚した。七十回目のプロポーズの返事は「馬鹿」だったけれど、その時のはにかんだ笑顔がとても愛おしくて。


『俺、一生お前を守るからな!』


 そう、約束した。


 なのに今、ロッドの目の前でセリカが泣いている。泣かせているのは……。


『ロッド。……ロッド、戻ってきて』


 泣き顔なんて、数えるくらいしか見たことがない。そんなセリカが今、大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら泣いている。床に突っ伏して、ロッドの服をかき抱いて泣いている。

 抱きしめてやりたいのに、ロッドの腕は鉛のように重く動かない。そういえば、何だか体も随分と冷えている。吐き出す息も、途切れ途切れだ。なのに背中だけが、じくじくと熱い。


(そう、だ。俺は……)


 泣き崩れるセリカの幻が、ゆっくりと闇に溶けていく。姿も声も、ロッドから遠く離れていく。


(だめだっ。俺はまだ……)


 セリカが消えているのではない。ロッドが闇に落ちているのだ。それに気付いて、ロッドは必死になって前に進んだ。腕に、足に絡まる鎖を引き千切って、血まみれになってもなおセリカを求めて手を伸ばす。


 その指先が、かすかに光に触れた瞬間。


「ロッド!」


 強く呼ばれた声に、ロッドを取り囲んでいた靄が一気に吹き飛ばされた。明瞭になる視界、遠くやわらかな光の中でゆっくりと顔を上げたセリカが――笑った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る