第73話 奪われる仲間たち
灰燼に帰した灰色の世界。
建物も、森も、ひとも、すべてが等しく塵と化していた。
髪を揺らす冷たい風に、遠くカラカラと骨のかけらが転がっていく。一歩進めば、足元で何のものかもわからない残骸がほろりと崩れ、白く舞い上がった。
何もない。
誰もいない。
荒廃した世界を、ただ、白い月だけが見下ろしている。
「レティシア」
振り返ると、そこに銀色の甲冑を身に纏うひとりの女が立っていた。長い銀髪をひとつに括り、傍らには女性が振るうには少し大きめの剣が突き刺さっている。
神界の軍勢を率いてヴァレスと戦った時の、戦姫の姿をしたラスティーンだ。
「ラスティーン。……ここは」
「怯えるな。これは現実ではない」
ラスティーンが緩く腕を振ると、崩壊した世界の姿が一瞬にして白く塗り替えられた。
「だが、いつの日か訪れるかもしれない未来でもある」
「……ヴァレスが願いを叶えたあとの、ですか?」
「そうだ」
いきものの気配が一切感じられない、さみしい世界だった。あんな場所でもエルティナさえそばにいれば、ヴァレスにとっては楽園になるのだろうか。
誰にも邪魔されない、二人だけの世界。それは確かにヴァレスが自身の命まで歪めて切に願った世界だ。けれどエルティナは……世界を代償にしてまで生きることを、望んではいないような気がした。
「レティシア。お前に話すことがある」
「……結晶石のこと……ですね」
「そうだ。結晶石の封印は、もう間もなく
死んでくれと、そう感情の見えない声で宣告される。淡々と、機械的に告げられる言葉のどこにも、レティシアの意思を必要としない冷たさがあった。
嫌だと首を振れば、傍らの剣で胸を突き刺されるかもしれない。そんな幻覚にすら怯えて、レティシアは縋るように深緑色の石の首飾りを握りしめた。
「……結晶石は私が……私たちが守らなくてはと、ずっとそう思って生きてきました。使命を、重荷と考えることは許されなかった。でも下界で出会った人たちはみんな、その荷を一人で抱えるなと……手を差し伸べてくれたんです」
ヴァレスによって天界を追われ、たったひとりになってしまったレティシアにとって、小さな結晶石は前に進めないほどの巨石になって肩に重くのし掛かった。前に進めず、一時はレティシアを押し潰そうとした結晶石。
その
結晶石を、みんなで一緒に守るのだと。レティシアがずっとひとりで抱えてきた荷物を、分け合ってくれたのだ。
「けれど……。私に、生きる道はないのですね」
言葉にすると、胸の奥がひやりと凍えた。
どんなに足掻いても、レティシアの手が未来に届くことはない。天界の姫として生まれた時からレティシアの運命は決まっていたのだ。
結晶石の封印が解けるその時、天界の姫は石を破壊するためだけに存在する。
「……私は、結晶石を消し去るために生まれたのですね。道具に意思や感情など、必要ない」
歪む視界を瞼に閉ざせば、絶望の闇のなか唯一灯る深緑の光が見える。「レティシア」と、鼓膜を震わせるアレスの声がする。
「この思いも……私には意味を持たないと……っ、そう言うのですか?」
挑むように見つめた先で、ラスティーンの瞳が哀しげに揺れていた。
結晶石の封印が解けるように仕向けたのはラスティーンだ。一つの犠牲で世界を救おうとするその行為は、当事者であるレティシアにとっては残酷な現実でしかない。
けれどその運命に嘆くレティシアを見つめる瞳は、冷酷な手段を使った者とは思えないほど、苦痛と悲哀に満ちていた。その憂いを目にした瞬間、レティシアは悟ってしまった。
神界人の血の中に封印されてきたエルティナの魂は、ラスティーンの代では目を覚まさない。エルティナの魂を封じたバルザックの魔法が弱まるのは、ラスティーンではなくレティシアの代なのだ。
誰よりも世界を守ろうと奔走してきたラスティーン。
けれど、ラスティーンでは世界を救えない。
「レティシア。……お前はこの世界が好きか?」
言葉に詰まって、項垂れる。
もう諦めきれないほど、この世界には大切なものが増えすぎてしまった。永劫封印にて自身を犠牲にするやり方を恐れるほどに、レティシアはこの世界を愛し、そこに生きるひとたちと共に生きていきたいと願ってしまった。
ただ生きたいと願う思いが世界を滅ぼす。それは、ただ生きていて欲しいと慟哭するヴァレスと同じではないか。そう思うと、レティシアにはもう何も言うことができなかった。
***
耳を
まるで巨大な一本の樹が、天界を貫いて聳え立つ異様な光景だ。けれどそれが樹でないことくらい、アレスにもロッドにも分かっていた。
絡み合う触手、それは良く見れば人の形をしている。大勢の、ひとだったものの器が伸びて融け合い、巨大な漆黒の塔を形成していた。中には魔物に姿を変えたものの姿も見える。魔界跡で壁に埋め込まれていた者たちと似ていることから、この禍々しい塔はヘルズゲートから呼び寄せられたものなのだと理解が及ぶ。
漂う空気が、重い。
天界は一瞬で魔界跡ヘルズゲートの闇にのみ込まれてしまった。
「何だこれ! 魔界跡と同じにおいがするぞ」
城の裏庭でレティシアを見つけたと思った瞬間、白い光が炸裂した。それとほぼ同時に今度は地上から伸び上がった瘴気が視界を埋め尽くし、アレスたちの目の前には天界の城を覆い隠して聳え立つ漆黒の塔があった。
塔の上空を見上げれば、青空に一等星の如く輝く赤い光が見える。そこから塔を覆うように半透明の赤い壁が塔全体に薄く張り巡らされていた。
「結界か」
あと少しでレティシアに届く手が、またしても闇に遮られてしまった。結晶石の放つ白い光と、地底から呼び寄せられた闇に紛れて消えてしまったレティシアの姿がアレスの脳裏に焼き付いて離れない。
見えたのは一瞬だ。瞬きひとつの間に見えたレティシアは、今にも崩れ落ちそうに、脆く儚い憂えた表情をしていた。
早く行って、大丈夫だと抱きしめてやりたい。抱きしめることで、自分の奥にある不安も拭い去ってしまいたい。そんな願いすら嘲笑うかのように、塔に張り巡らされた薄赤の結界がゆらりと煌めいて、そこに焦燥するアレスの姿を写し取った。
「アレス! まずは結界をどうにかしよう。てっぺんの赤いヤツと同じものが下にも三つあるけど……イルヴァール。アレを壊せば結界はなくなるか?」
「おそらく。だが魔力の塊ゆえ、お主では少々荷が重いだろう」
獣人であるロッドの武器は、その強靱な肉体と鋭い爪牙だ。力強い顎で噛み砕かれた魔物は大抵その一撃で絶命するが、ここから先の敵にそれだけでは立ち向かえない。乗ってきた飛竜の炎も武器の一つではあるが、ロッド本人が戦えなければ助力の意味がないのだ。
「わずかだが、お主にこれを」
そう言って羽ばたいたイルヴァールの翼から一枚の羽根が舞う。それはロッドの胸へ触れると同時に、そのまま中へ吸い込まれるようにして消えていく。
「わしの加護を与えた。これでお主の牙も、結界の核に届くはずだ」
「マジか! ありがとう、イルヴァール!」
「効果は短い。それにあまり依存はするな。魔力に耐性のないお主がその力に頼ると、あとで反動がくるぞ。核を壊すことだけに使え」
「わかった! それじゃ、俺は下のヤツを壊してくる。アレスはてっぺんのデカいヤツを任せたぞ」
返事も聞かずに、ロッドが飛竜を降りて天界の地を白いライオンになって駆けていく。城だった場所をぐるりと囲んで聳え立つ漆黒の塔。その周囲に赤く煌めく核を早速ひとつ壊してこちらを振り返ると、どうだと言わんばかりに咆哮した。
「アレス。わしらも行くぞ」
「ああ」
禍々しい
近付くほどに、肌を突き刺す力の波動を感じる。気をしっかりと保っていなければ、凶星の赤き光に焼き尽くされてしまいそうだ。
「ヘルズゲートをむりやりにでも呼び寄せたか。そのためにどれだけの命と魔力を犠牲にしたのか……」
塔の壁は生き物のように緩く脈打っている。そこに融合した、かつては人だったものたち。彼らの命は既に失われているというのに、塔全体が心臓のように脈打つ様は、まるでヴァレスの歪んだ願いを象徴しているかのようだ。
ヴァレスが望む世界も、エルティナも、多くの犠牲の上にしか成り立たない。そんな深く呪われた
はるか昔から澱み溜まり続けてきた歪んだ願い。ヴァレスを狂わせた呪いも悲しみも、すべてここで断ち切るために、アレスは結界の核となる赤い光めがけて剣を振り下ろした。
薄氷が割れるような細く儚い音が響く。と同時に、塔を覆っていた半透明の赤い結界が粉々に砕け散った。
「アレス! こっちに階段があるぞ。ここから中に入れそうだ!」
下の方では変身を解いたロッドが、塔の一角を指差してアレスを手招きしている。すべての核を破壊したことで入口が現れたのだろう。
塔の内部へ侵入するにはその階段か最上階の扉くらいだ。ここは二手に分かれ、アレスは塔の最上階から、ロッドは階下からレティシアを探していく方が効率がいいかもしれない。そう思いながら塔の最上階を一瞥したその視界に、銀色の影が映り込んだ。
「アレスっ!」
吠えるイルヴァールの声がしたかと思った瞬間、アレスは彼の背から意図的に振り下ろされていた。落下するアレスの視線の先、ひとり残ったイルヴァールの姿を覆い隠して赤と黒の混ざった瘴気の塊が爆発した。
「イルヴァール!」
イルヴァールを捕らえた瘴気は渦を巻きながら瞬く間に小さくなり、やがてそれは片手で握り込めるくらいの赤黒い水晶球へと変化した。
「お前もろとも捕らえるつもりだったが、イルヴァールが機転を利かせたか」
イルヴァールを閉じ込めた水晶球が引き寄せられるその先、塔の屋上にいつの間にかヴァレスが現れていた。アレスが背中の翼を出して飛びかかるも伸ばした手はわずかに遅く、その指先で再び新たな結界が塔の最上階に張り巡らされてしまった。
「安心しろ、竜使い。今の私にイルヴァールを倒すだけの力は戻っていない。儀式が終わるまでおとなしくしてもらうだけだ」
「レティシアはどこだ!」
「あれはもうエルティナだ。器だけでよければ、それもあとで一緒に返してやる」
「貴様……っ」
怒りにまかせて剣を振り下ろす。けれど二人の間に見えない壁があるかのように、アレスの剣はヴァレスに届くことなく虚しい音だけを青い空に響かせるだけだった。
「俺を止めることは、もう誰にもできない。お前はそこで儀式が終わるのを黙ってみていろ」
にやりと笑ったヴァレスの中から、
吹き飛ばされ、空中で体勢を整えて顔を上げると、塔の屋上にヴァレスの姿はもうどこにもなかった。代わりにヴァレスの立っていた場所を拠点として、そこから太い血管が破裂したかのようにねっとりとした瘴気がどくどくと溢れ出している。それは周囲の空気さえ、黒く濁った闇に染めていった。
塔の最上階に張られた結界。アレスの剣を弾いたあの力は、白魔法だ。そして塔を伝い落ちていく
そんな相手に、アレスはまるで歯が立たなかった。けれど諦めるわけにはいかない。わかっているのに、純粋な力の差に心が焦燥する。魔物に絶対的な力を誇る神龍イルヴァールさえ奪われ、アレスに残るのはまだ未熟な神界人の力だけだ。
「くそ!」
「……ス。アレス!」
ハッとして眼下を見ると、ロッドが心配そうに大きく両手を振っている。
「塔の結界は壊れたんだ。とりあえず中に入ってみよう!」
そう言って手招きするロッドに、アレスは目の前の靄が晴れた気がした。
そうだ。自分はひとりで戦っているわけではない。頼れる仲間がまだいることを自覚して、アレスの曇った意識が明瞭になる。
ここで手をこまねいている場合ではないのだ。塔の内部からなら、最上階の結界を解除する手がかりがあるかもしれない。なくても前に進むのだ。
手にした剣をぎゅっと握りしめて、アレスは気持ちを切り替えるために一度瞼を閉じて深呼吸をした。
「アレス!」
「あぁ、わかっ……」
目を開けた瞬間、アレスの体がぎくりと震えた。
眼下のロッドを見下ろした視界に、彼とは違う異形の影がある。それは塔を滑り落ちる瘴気の中からずるりと這い出し、ロッドの背後に忍び寄ると、アレスの見ている前でその鋭い鉤爪を勢いよく振り下ろした。
「ロッド!!」
叫ぶ声に重なって、鮮血の花びらが散る。
瘴気から溢れ出した、大量の魔物たち。その黒い群れに覆い隠されて、太陽のように明るい光がいま――消えようとしていた。
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