第72話 マリエル

 一瞬、本気でマリエルの無事を喜んだ。思わず駆け寄ろうとして、けれど一歩を踏み出したそこで、レティシアの足が止まってしまう。


 マリエルの背を割って、漆黒に染まった翼が左右に大きく広がった。やわらかな羽根は闇の汚水に濡れてへばり付き、有翼人の翼というよりは蝙蝠の羽に似た形状へと変化している。未だ乾くことのない汚水がボタボタと、まるで血のように流れてマリエルの足元を濡らしていた。


「……そんな……嘘でしょう? マリエル……あなたまで」

「どうしたんですか? さぁ、戻りましょう。クラウディス様がお待ちです、よ」


 呆然としている間に腕を掴まれ、引き寄せられる。手首にじかに感じるマリエルの熱のない肌に、レティシアの中でわずかな希望が砕け散った。

 マリエルは、もう戻らない。それはエミリオや、ガルフィアスの姉妹と同じだ。


「マリエル。……マリエル、ごめんなさい。あの日、私が一緒に逃げていれば……」


 どれだけ後悔しても、どれだけ涙を流しても、マリエルの翼は黒いままだ。レティシアを見る瞳に光はなく、冷たい手のひらの奥では皮一枚隔てた向こうで何かもわからないものが蠢いている。


「逃げる必要はありませんよ。クラウディス様が、すべてよくしてくれます。クラウディス様は、私たちの王、で……王、……クラウ……で、す」

「マリエル?」

「逃げ、る。逃げ……て、レティ……さま」


 手首を掴むマリエルの手が、恐ろしいほどにガタガタと震えはじめた。それでも手を離そうとはしないマリエルの、そのとうに光を失ったはずの瞳が一瞬だけレティシアを確実に捉える。青い瞳がきらりと揺れて、そしてまたくすんだ色に塗り替えられていく。


「クラウ、ディ……危険、です。逃げ、て……。め、命令……捕らえ、なければ。レティシア、様……逃がさなければ……」


 大きく震えるマリエルの手はもうレティシアを捕らえることができず、指を大きく開いたまま硬直していた。痙攣は体にまで及び、ついに立っていられなくなったマリエルが、レティシアの前で膝を付いて蹲った。


 大きく震える体から、汚れた闇がこぼれ落ちる。漆黒に染まった翼から。瞼の奥から。耳の穴から。黒い血管を浮き上がらせた肌を裂いて、腕から頬から、じわじわとマリエルの体を黒く闇に染めていく。


「マリエル……。マリエル、だめよ。闇に飲まれてはだめ……っ。戻ってきて!」


 腕を抱いて蹲るマリエルを、レティシアはその汚れた闇ごと抱きしめた。逃げようともがく体を今度はレティシアが捕まえて、マリエルの心に届くように何度も何度も名前を呼ぶ。


 人としての熱はなく、肌を裂いて流れるのも血ではない。

 けれど、まだ少しでもマリエルに自我が残っているのなら、と。そう思えば思うほど、レティシアは淡い希望に縋り付くのをとめられなかった。


「……シア……さ、ま。……ご無事、で」


 呻き声の代わりに、吐息よりもかすかな声がした。あれだけ大きく震えていた体も、今は微弱な揺れになっている。そっと顔を覗き込めば、晴天の青を思わせる澄んだ青い瞳がレティシアを見つめていた。


「マリ、エル……? マリエル、私が……わかる?」

「……えぇ、レティシア様。……こうしてまたお会いできるとは、思い、ません……でした。無事で、よかったです」


 苦しげにささやくマリエルは、それでも痙攣する唇を横に引いて必死で笑顔を作ってみせる。顔は眼窩から溢れた黒い体液に汚れてしまっていても、その表情はいつもレティシアに向けていたあの優しいマリエルの笑顔だ。


「マリエル。待って、すぐにあなたを助けてみせるから」


 ぞろりと生えた長い爪ごとマリエルの両手を握りしめて、レティシアがそっと目を閉じる。意識を集中させて、自分の中にある魔力の源を手繰り寄せる。

 片翼を奪われ、レティシアに残る魔力はいつもの半分だ。今から行おうとしている治癒魔法も、きっと思っているほどの効果は出せないかもしれない。マリエルに巣食う闇をすべて取り払うことができなくても、彼女が自分の意思で魔法を使えるまでに回復させることができれば、もしかしたら。

 そう期待して握りしめた手の中から、そっと、マリエルの手が抜け落ちた。


「レティシア様。私は……もう、助かりません」

「なにを……言うの。そんなこと言わないで。……逃げるの。今度こそ、一緒に逃げるのよ!」

「そのお気持ちだけで、じゅうぶんです」

「マリエル!」


 再度握りしめたマリエルの手が、また激しく震えはじめていた。


「もう、抑えられない……の、です。私が私でなくなる前に……遠くへ逃げて……」

「……いやよ。……いやよ、マリエル。あなたを置いていくなんてっ」

「本当に……困った姫様、ですね」

「あなたの意識が、ここあるんだもの。救う方法だって、きっとまだあるはずよ!」

「……救って、くださるのですか?」

「もちろんよ! だから」

「では――終わりにしてください」


 悲観でも絶望でもない。レティシアに向けるマリエルの眼差しはただ静かで、凪いだ海のように穏やかだ。向けられる微笑みはぎこちないものの、ずっとレティシアを見守っていたとしての優しさに満ちている。

 すべてを悟り、そして覚悟を決めた笑みだった。


「……ど……して、そんなこと、言うの。一人にしないで」

「レティシア様。あなたを、傷つけたくないのです。私がまだ私であるうちに、……どうか『マリエル』として、逝かせてください」


 にっこりと笑う頬に、亀裂が走る。背中で蠢く黒い翼に引きずられ、マリエルの背中からねっとりとした漆黒の体液が飛び散った。


「だめ! マリエルを連れていかないでっ」


 絶望しか残らないこの世界で、誰に願うかもわからない。そうしている間にもマリエルの時間は確実に削られていき、人としての面影すら薄れていく。

 時間がない。駄々をこねても、レティシアが取るべき行動はただひとつだ。それを自分でも本当はわかっているのに、マリエルの笑顔に心が甘えてしまう。


「レティシア様。マリエルの、最初で最後のわがままを……どうか、叶えて下さいませんか?」


 そう言われてしまえば、もうレティシアには返す言葉が見つからなかった。わがままを言うのはいつもレティシアの方だった。幼い頃からずっとそうだ。そして今でさえ、マリエルにいかないで欲しいと願っている。それが叶わないと知りつつも。


「……マリエル」


 ぎゅっと強く手を握りしめると、淡く微笑んだままのマリエルが静かに頷いた。


「今まで、ありがとう。マリエル。……大好きよ」


 レティシアの頬を伝う涙が、固く握りあった二人の手に落ちて砕ける。砕けて、ふわりと舞い上がり、淡い光の綿毛に変化した涙の粒がマリエルの頬をやわらかく撫でていく。


 少ない魔力を最大限に引き出して、レティシアはただマリエルのために祈った。

 どうか、苦しまずに逝けますように。

 人のまま、優しいマリエルのままで逝けますように、と。


 どこからともなく風が吹いた。マリエルを中心にして滞っていた闇を吹き飛ばし、この地に咲く白い花を巻き上げて、葬送の花のようにマリエルの体を彩っていく。黒から白へ。闇から光へ戻るように、漆黒に染まったマリエルを白く塗り替えていく。


「あぁ……レティシア様。……ありがとうございます」


 白い花びらが触れた場所から、マリエルの体がほろりと崩れた。闇を浄化する光の魔法だ。レティシアが込めた祈りを乗せて、風に舞う白い花びらがマリエルを少しずつほどいていく。解き放っていく。消し去っていく。


 最後の花びらがマリエルの頬に触れた瞬間。

 霧散して消滅するマリエルを追って、白い花が一斉に空へと舞い上がっていった。



『こんにちは、レティシア様。今日からレティシア様のお世話を致します、マリエルと申します』

『マリエル? 本当? これからずっとレティシアと一緒にいてくれるの?』

『えぇ、そうですよ。マリエルはずっと、レティシア様のお側についておりますよ』



 記憶に残るマリエルの笑顔が、白い花びらに埋もれて霞んでいく。もう誰もいない視界を厭うように瞼を閉じれば、また熱い涙がレティシアの頬を濡らしていった。


「さようなら、マリエル」


 マリエルも、エミリオも、ガルフィアスの姉妹も。そしてアレスの両親でさえ、ヴァレスの闇に弄ばれた。

 エルティナただひとりを願うには、あまりにも大きすぎる代償だ。けれど、これだけでは済まない。本当にエルティナの復活が成されてしまえば、今以上にひどく凄惨な未来が訪れてしまう。


 もう終わりにしなくては。

 こんな悲しい思いを、恨みを、絶望を、未来へ繋げてはいけない。

 レティシアの思いに呼応するかのように、空の彼方で猛々しい龍の咆哮が木霊した。


「……アレス」


 アレスに会いたい。会って、強く抱きしめてほしい。

 胸元で揺れる深緑色の石をきゅっと握りしめて、声のする方を振り返った。見上げた青空の向こう、マリエルを送った花びらとは違う白い影が見える。その背にあるはずの姿はまだ見えないのに、確かにそこにいるのだと信じて求めるレティシアの胸が、喜びなのか切なさなのかわからない感情に締め付けられた。


「アレス!」


 いてもたってもいられなくて一歩を踏み出したその瞬間――。




 レティシアの奥で、何かが壊れる音がした。




 激しい地響きと共に、踏み出したレティシアの足元がべこりと大きく陥没した。何か大きな力に押し潰されたように、陥没はフェゼリアの大樹の根元を剥き出しにするほど広がっている。それに合わせて、レティシアを中心に、白い尾を棚引かせた冷たい風が渦を巻きはじめた。


 レティシアの胸の前で、肌を突き刺すほどの冴え冴えとした月白げっぱくの光が浮いていた。


 触れずとも、それが何なのかわかる。心臓を鷲掴みにされたような圧迫感は、ヴァレスと対峙した時の闇に対する恐怖のそれとはまるで違う。

 純粋な力の渦だ。そこに善も悪もない。ただ恐ろしいほど強大な魔力の塊が、月白げっぱくの光の中、ゆっくりとその形を雫型に変えようとしていた。


「レティシア!」


 渦巻く風の向こう、姿の見えないアレスの声がする。


(だめ……)


 体に、まるで力が入らない。生命力をすべて持っていかれたかのようだ。それでも必死に腕を伸ばして、レティシアは月白げっぱくの光を握りしめる。触れたそばから凍えるような、あるいは焼け爛れるような激しい痛みが全身を襲った。


(封印を解いては……だめ……っ)


 激しい風の渦に翻弄されながら、レティシアは両手に包み込んだ月白げっぱくの光を自身の胸へと押し戻した。光が再びレティシアの中に吸い込まれて消えた瞬間、体を引き裂かれるような激痛と共に、レティシアの脳裏に数多の記憶が流れ込んだ。


『エルティナ。……お前こそが俺のすべて。俺の命だ。だからもう一度だけ……』

『結晶石を、エルティナの魂ごと消滅させる。私たちには、もうそれしか方法が残されていない』

『エルティナが戻るなら、俺はどんなことでもする。どんなことでもだ! それでエルティナがよみがえるのなら、この世界すら壊してみせよう』

『……ヴァレス。いとしい、ヴァレス。かわいそうな、ヴァレス。私の声は、もうあなたには届かない』

『月の魔力を集めて結晶石をっ。願いを叶えてくれる、あの石を!』

『月の結晶石。その石がなければ……、わたしたちは!』



「いやあぁぁっ!」


 一度はレティシアの中に消えた月白げっぱくの光が、今度はレティシア自身を包み込んだ。レティシアも、フェゼリアの大樹も、城も街も覆い尽くすほどに大きく大きく膨れ上がって。


 ――そして、音もなく炸裂した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る