第9章 月下終焉

第71話 絶望の連鎖

『レティシア。お前は何も感じないか? を宿す者として』


 意識を失っていたのだと知ったのは、自分が床に倒れ込んでいたからだ。体が強張っていないことから、時間はそう経っていないように思う。

 ヴァレスの姿はどこにもなかった。開かれた扉の向こうも、おかしいくらいに静まり返っている。広い城内に、まるでレティシアしか存在していないかのようだ。


 今なら逃げ出せるかもしれない。

 片翼を奪われ、魔力が激減し、空を飛ぶこともできないこの身では難しいかもしれない。けれど、動いていないと不安に押し潰されそうだった。

 とりあえず外に出ようと一階へ降りた時、レティシアはようやく異変に気が付いた。


 ――何か、低くぬめった、脈打つような音が響いている。


 音を辿って向かった先、謁見の間へ通じるエントランスホールに巨大な赤黒い柱が立っていた。ホールを埋め尽くし、壁や天井にまで張り付いた赤黒い塊はぶよぶよとした粘着性の高いもののようで、それは以前、龍神界へ降りてきたエミリオの変貌した姿を思わせる。

 ぼこぼことしていて、柱というよりはいくつもの木が絡み合っているようにも見える。だが、木ではない。ましてや、柱でもない。

 間近でそれを目にしたレティシアは、ホールを埋め尽くす巨大な塊の「元」が何であるかを知ってしまった。


「……あぁ……ローフェン様……」


 ゆっくりと脈打つ赤黒い塊の中に、筆頭宮廷魔道士のローフェンの姿があった。ローフェンだけではない。城にいたメイドや騎士たちが、互いの体をけ合わせ、混じり合い、一つの巨大な柱となっていたのだ。

 かろうじて残る体の一部はあれどその大半は溶けて、もう誰が誰だかわからない。レティシアが見つけたローフェンの顔も、右半分は別の誰かと融合している。


「どうして、こんな……」


 ホールの床には、真紅の魔法陣が稼働していた。緩く点滅を繰り返す光にあわせて、彼らの体で作られた肉塊がまるで鼓動のように脈打っている。肉塊が覆い被さって魔法陣の全貌はわからないが、どうやらそれは何かを呼び込むための術式に見えた。

 これほどまでに濃い闇の気配を必要とするもの。多くの命と魔力を代償にして、ヴァレスは一体なにを呼ぼうとしているのか。ホールに漂う重く腐った臭いは、魔界跡の深淵に潜む魔物を思い出させる。


(そうだ。私は、このにおいを……知っている)


 不快であるはずの臭いなのに、レティシアの意識の片隅になつかしい肌の匂いが紛れ込む。同時に肩を抱く力強い男の腕と、を見つめる――まだ血に染まる前の青い瞳。


『ヴァレス』


 とろけるようにあまく囁いた声が、頭の中なのか、それとも自分の口からこぼれ落ちたのか、レティシアには判断がつかなかった。その名前に愛おしさを感じ、同時に恐怖をも感じている。二つの感情はどちらも自分のもので、そして


 微睡みの蒼湖水エルスフォーリアで見た過去に引きずられ、エルティナの思いに淡く同調していたあの感情の比ではない。自分自身がエルティナであると錯覚するほどに、彼女の思いが、記憶がレティシアの中に流れ込んでくる。

 微睡みの蒼湖水エルスフォーリアの夢では見ることのなかったエルティナの人生が、幼少期の時分から鮮やかに脳裏に浮かび上がるのだ。見たこともないエルティナの母リゼフィーネの優しい笑顔も、シュレイクで補佐をしてくれていたモーリスの顔も。レティシアが知るはずのない記憶が、魔界跡の闇のにおいによって鮮明に呼び起こされていく。


「……っ、やめて! 私は……私はエルティナじゃない!」


 脳裏に浮かぶ記憶をすべて振り払うように、レティシアは一目散にその場から逃げ出した。


 何度頭を振っても、愛しく笑うヴァレスの顔が消えていかない。共に過ごし、最後まで味方になってくれたモーリスの優しさが消えてはくれない。よみがえる記憶を、ぬくもりを、愛おしさを、全部だと受け止めている事実に、レティシアの背筋が更に凍った。


 は、レティシアだ。

 は、エルティナだ。

 どちらもわたしで、どちらもわたしではない。


『月の涙鏡るいきょうは、お前の血に封印されたエルティナの魂を呼び起こすための道具だ。じきにラスティーンがそれを割るだろう。そうすればエルティナの魂は目を覚まし、お前の魂と同化する。あとは……エルティナの真の復活を待つのみだ』


 頭の中でヴァレスの言葉が木霊する。

 否定したくとも、いまレティシアに起こっている変化はヴァレスの言葉を裏付けるものに他ならない。

 レティシアの中に、エルティナの魂が目を覚ましてしまった。ということは、やっとの思いで手に入れた月の涙鏡るいきょうは、ヴァレスの言葉通りラスティーンに割られてしまったということだ。


 兄であるクラウディスを失い、天界を失い、希望など何ひとつなかった。けれどアレスと出会い、レティシアが生きるための道標となってくれた。神龍イルヴァールを復活させ、かつての戦姫ラスティーンも共に手を取り、ヴァレスに向かうものだと思っていたのに。


 裏切られてしまった。


 どんなに足掻いたところで、レティシアが生きてゆく未来などないのだと突き付けられた気がした。レティシアが生きていていい場所なんて、この世界にはどこにもないのだ、と。


『すべてを終わらせたら……帰ってこよう。二人で、龍神界ここへ』


 無我夢中で走っていた足が、ぴたりと止まった。

 脳を震わせ、胸を締め付けるこの思いを受け取ったのは、紛れもなくレティシアだ。エルティナの記憶ではない、レティシアだけが持つ感情に視界が歪む。はらはらと頬を伝う涙の熱に呼び起こされ、あの夜かわしたアレスとの約束が胸に、くちびるによみがえる。


「……アレス」


 ――レティシア。


 呼べば、記憶の中からアレスが応えてくれる。笑いかけてくれる。手を差し伸べてくれる。


「アレス。……アレスっ」


 再びレティシアは走り出した。

 逃げたい。一刻も早くここから逃げて、アレスのそばに戻りたい。そう一心に願い、レティシアが辿り着いたのは、城の裏手にあるフェゼリアの大樹が聳える広場だった。

 かつては龍神界からの来訪者が竜を降ろす場所として使われていた場所。飛べたところで、おそらく空には結界が張られているのだろう。分かっていても、レティシアはその先へ視線を向けずにはいられなかった。

 アレスたちが降り立つなら、この場所しかないのだ。一縷の希望を胸に抱いて端へ寄ると、不意に背後からレティシアをいさめる懐かしい声がした。


「あらあら、レティシア様。いけませんよ、勝手に城を抜け出されては」


 耳に馴染みすぎた声を、レティシアが聞き間違えるはずはない。幼い頃から、ずっとそばにいてくれた……それこそ姉と慕い、肉親に近い情すら感じていた存在。自室から自由に出ることの叶わないレティシアにとって、数少ない心の拠り所――。


「……マリエル」


 あの日、天界からレティシアを逃がしてくれた手を差し伸べて、マリエルがいつもと変わらない優しい笑みを浮かべていた。



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