第70話 ラスティーンの最期

 銀色の空間が、汚れた闇に侵蝕されていく。巨木に群がり、登り始めた魔物を吹き飛ばすのは、イルヴァールの吐き落とす紅蓮の炎だ。闇を払う炎の前に魔物たちは塵と化し、その亡骸を踏み越えて新たな魔物が生まれ出る。

 いくらイルヴァールの炎が闇に絶対的な力を持っていたとしても、際限なく召喚される魔物を一掃するのは難しかった。力の限り炎を吐けば、この地下の空間もろとも焼き尽くしてしまうかもしれない。この場から動けないラスティーンを巻き込むまいと炎を抑えれば、その隙を突いて魔物たちが巨木の根を這い上がっていく。


 イルヴァールひとりでは、ラスティーンを守り切ることは難しい。けれども、アレスに助けを乞うこともできなかった。

 アレスの強さを認めていながら、結果的にイルヴァールはアレスを裏切ったのだ。ラスティーンとアレス、二人の主を最後まで選べなかったイルヴァールは、結局どちらも見捨てたのと同じだ。


「イルヴァール、私は捨て置け」


 魔物の喚く声よりもはるかに静かに、けれど未だ絶望を感じさせない強さでラスティーンがそう言った。


「この肉体に、もう意味はない」

「ラスティーン……しかし」

「ここまで来て、目的を成し遂げずに死ぬとでも?」

「……レティシアを、諦めていないのか」

涙鏡るいきょうは割れ、エルティナの魂は既にレティシアの魂に溶け込んでいる。今更やめられるはずもないし、やめる気もない。私は私のやり方で世界を救う。あの時に、そう決断したのだ」


 束の間見つめ合った灰色の瞳に、かすかな揺らぎが垣間見えた気がした。どうあっても止まることのないラスティーンを見ていると、イルヴァールの中にどうしようもない切なさが込み上げてくる。


 愛する者を守ろうとする力は、何よりも強い。

 イルヴァール自身、月下大戦においてヴァレスとラスティーンという、二人の意思強き人間と出会った。

 無残に殺されたエルティナを切に願うヴァレスと、自身の感情を押し殺して世界を救うことに命を費やしてきたラスティーン。求める未来は対極で、どちらも決して折れぬ信念を持ってぶつかり合ってきた。


 そして一万年後のいま、イルヴァールはまた一人の強き意思を持つ青年と出会った。彼ならば、ヴァレスと同じ愛する者を思う強き心を持つアレスならば、その愛に壊れた男を救うことができるかもしれないと……淡い期待を抱いたのに。


 結果的にイルヴァールはアレスを裏切り、過去の忠誠の鎖に縛られ、ラスティーンを止めることもできないまま悲劇の幕は上がってしまった。


『世界を救いたい。愛する者と共にありたい。その思いに間違いなどあるはずはないのに……手段が違えば、こうも容易く戦が起こる。……私の選択は誤っているのだろう。恨みや憎しみは私がすべて背負っていく。だから……世界を守らせてくれ』


 結晶石をその身に封じた夜、ラスティーンはかすかに瞳を潤ませてそう言った。イルヴァールがラスティーンの涙を見たのは、それが最初で最後だった。


「イルヴァール。お前は良い主に出会えたな」


 ラスティーンが顔を向けた先では、魔物の数を少しでも減らそうと戦っているアレスたちの姿があった。


 アレスとラスティーン。望む道の先は同じであるはずなのに、なぜその手を取り合えなかったのか。ラスティーンの掲げる救済は、アレスにとって呪いになる。けれどもアレスの望む道は頼りなく、今にも切れそうな一本の糸を綱渡りするようなものだ。

 誰も彼もが、曲げられない信念のもとに強い意思を持っているというのに、それが交わることはただの一度もない。


「ゆけ、イルヴァール。ここから先は、私ひとりで十分だ」


 そう囁いて、ラスティーンはまるで少女のようにあどけない笑みを浮かべた。




 ヴァレスが残していった魔法陣からは、未だに魔物が召喚され続けている。溢れた魔物たちの牙がこちらに向くことはなかったが、それでもアレスは剣を振るって少しでも魔物の数を減らそうと戦った。

 正直ラスティーンを助ける義理はない。魔物を倒している暇があるのなら、一刻も早くレティシアの元へ辿り着きたい。けれど目的を叶えるために他をすべて見捨てるというのなら、それはヴァレスと同じだ。


『アレス』


 不意に、頭の中にラスティーンの声が響いた。顔を上げると、こちらを見下ろす灰色の瞳が頷くように伏せられる。


『イルヴァールを連れてゆけ。彼は、私との契約を終える前に交わした約束に縛られていただけだ。お前たちの手助けになりたいと思う心に、嘘はない』


 イルヴァールを見れば、ラスティーンに群がる魔物を炎で撃退するのに必死だ。主従の関係が切れていても、月下大戦で共に戦ったラスティーンとの絆はまだ確かに残っているのだろう。契約というかたちではなく、戦友としての思いが。


『肉体が滅んでも、私は私のやり方で世界を救うために動く。私とお前たち、結果的にどちらが成し得ようと、世界が救われれば私はそれで構わない。だから――進め』


 声はそれっきり聞こえなくなってしまった。ラスティーンのすぐ下に迫る魔物の黒と、それを焼き尽くすイルヴァールの炎がアレスの視界を騒がしく埋めていく。


「ロッド、飛竜に乗れ。脱出する」

「え? でも……」

「ラスティーンはまだ諦めていない。なら、俺もレティシアを助けるために動く」


 血にエルティナを封じたバルザックの魔法が弱まるまで、ラスティーンは人知れず長い時間をこの天界の地下で生きてきたのだ。目的達成を目前にして散る瞬間にしては、アレスの目に映るラスティーンは異常なほどに落ち着いている。

 きっと肉体を失っても、動ける算段が彼女にはあるのだろう。彼女が動くということは、レティシアの命が危機にさらされるということだ。ならばアレスはこんなところで油を売っている暇などない。


 自分に都合のいい解釈をしている自覚はあった。けれどもこの場を後にする理由を得ることで、自分の中の罪悪感が確かに減ったことも感じた。

 それがラスティーンの思惑通りなのかはわからない。けれどアレスは背を向ける代わりに、ラスティーンを置いていく現状に軋む胸の痛みだけは、この先も忘れないようにと心に誓った。


「イルヴァール!」


 強く、迷いのない声で叫ぶ。


「結晶石の封印が解ける前に、レティシアを救い出すぞ。急げ!」


 アレスを見つめる瞳が困惑に揺れていた。竜の王たる存在が、取るに足らない一人の竜使いに怯えているようにも見える。アレスの意図を図りかねているのか、羽ばたく六枚の翼でさえ弱々しい。


「……わしはおぬしを裏切った。共に行く資格などない」

「俺が来いと言っている! ここから先もお前の力が必要だ。さっさとしろ!」

「よいのだ。それにラスティーンを、ここに捨て置くことはできぬ。わしはラスティーンと共に、ここで己の罪を受け入れよう」

「嘆く暇があるなら翼を動かせっ。後悔しているというのなら、その贖罪は俺のそばでしろ!」

「……アレス」


 ここまで言ってもなお動こうとしないイルヴァールに、アレスが苛立ちを隠しもせずに声を張り上げた。


「イルヴァール! お前のあるじは誰なんだっ!!」


 その声はさながら身を貫くいかずちのように、罪を洗い流す清流のように、イルヴァールの胸の奥深くにどこまでも響いていく。ハッと見開いた双眸に映る視界から、迷いの靄が晴れた気さえした。

 イルヴァールの心が震えるよりも先に、背の翼が大きく羽ばたいた。


「……ラスティーン」

「あぁ」


 多くは語らない。ただ一度だけ軽く額を合わせると、イルヴァールはもうラスティーンを振り返ることはなかった。


「――さらばだ、ラスティーン」


 今度は力を押さえることなく吐き落とされた猛火に、床を埋め尽くしていた魔物の大半が消し飛んだ。地下の空間に張り巡らされていた木の根にも炎は燃え広がり、その赤い舌はラスティーンが埋まる巨木の根にまで及びはじめる。


 爆ぜる残り火を翼の羽ばたきで追いやって、イルヴァールがアレスの前に降り立った。


「イルヴァール」


 謝罪も嘆きも、今は必要ない。アレスが求めるのはイルヴァールの意思だ。過去の忠誠に囚われず、アレスの怒りを受け止める前に、イルヴァールの胸にある真の思いは何なのか。


「俺はレティシアを救いたい。……お前は?」

「……わしもだ。お主が許すのなら、わしの力を使ってくれ」

「元よりそのつもりだ。――いくぞ、イルヴァール!」


 アレスが背に飛び乗ると、イルヴァールが翼を広げて大きく羽ばたいた。巻き上がる風に残り火が熾される。


「ついてこい、ロッド。脱出する!」


 再び勢いを増した炎が魔物を巻き込んで爆ぜる。進む道を分断するように燃え上がった炎の壁に覆い隠されて、アレスたちとラスティーン、互いの目に最後の姿が映ることはなかった。


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