第68話 魂の在処

 きらきらと儚い光が降り注ぐ。けれどもそれは光ではなく、雪でもなく。夢であれと願いながら、ついに夢として消えることのなかったかけらの破片は、伸ばしたアレスの指先にわずかな硬い感触を残してすべて等しく落ちていく。

 鏡の破壊を止められなかった現実と、落ちていくかけらの淡い光に、腕をすり抜けて消えていくレティシアの残像が重なった。


「……んで……何で、こんなことになってんだよ」


 アレスとラスティーンの下で、ロッドが足元に散らばった涙鏡るいきょうの破片を呆然と見つめていた。拾い上げた欠片はもう光を纏ってはおらず、ただロッドの愕然とした顔を映すだけだ。どんなに覗き込んでも鏡はロッドしか映さず、初めて涙鏡るいきょうを手にした時に感じた不思議な感覚は跡形もなく消え去っている。

 魔力のないロッドでもわかる。これはもう、ただの鏡でしかない。


「月の結晶石を、もう一度封印してくれるんじゃなかったのか? 月の涙鏡るいきょうがなけりゃ、レティシアの中から結晶石が目覚めちまう。ヴァレスはそれを狙って……世界が滅ぶかもしれないんだぞ!」

「世界を守るために、そうしたのだ。お前たちには理解できないだろうが」

「話してくれないからだろ! ラスティーンっ、あんたは一体なにがしたいんだ! 封印ができなきゃ、ヴァレスが結晶石を狙うことくらい、あんたにだってわかるはずだ。結晶石を封印せずに、どうやってヴァレスから世界を守るつもりなんだよ!」

「もう封印する必要はない。そもそも、月の涙鏡るいきょうは結晶石を封印するためにあらず」


 激昂するロッドに対して、ラスティーンの声はどこまでも静かだ。それが余計に神経を逆撫でする。加えて淡々と告げられた言葉の意味するところを知り、ロッドの体が怒りに震えた。


涙鏡るいきょうでは……封印できない? ちょっと待ってくれよ。だったら俺たちは……アレスは、何のために両親と戦わなくちゃいけなかったんだ!?」


 魔界跡の守護者としてジークたちを葬ったことは、仕方のないことだったとロッドも頭の奥では理解しているつもりだ。アレスにとっても、両親を闇の力から解放できたことは、彼の願いでもあったはずだ。


 ロッドも自分の言葉と思いが矛盾していることはわかっていた。涙鏡るいきょうを求めて魔界跡へ行かなければ、ジークたちは今も闇に捕らわれたままだっただろう。けれど。

 つらい思いをして両親に刃を突き立てた果てに得たはずの、唯一の希望。レティシアをヴァレスから救うための月の涙鏡るいきょうが、まったく意味を持たないものであったことを告げられて、平静を保っていられるわけがない。


 ロッドでさえ声を荒げるほどなのだ。常にレティシアを第一に考えてきたアレスにとって、涙鏡るいきょうの破壊は……ラスティーンの裏切りは許しがたい行為であることに違いない。


「ラスティーン。俺がいま、何を考えているのか……わかるか?」


 落ち着いた……というよりも、アレスの声音はわき上がる怒りを必死に押し殺したように、低く掠れ、わずかに震えていた。


「あぁ、感じる」

「そうか」


 ロッドにはその動きが速すぎて、目で追うことができなかった。気付けばアレスはラスティーンに距離を詰め、彼女の喉元に剣の刃を突き付けている。その現状に、ロッドは思わずアレスの名を呼んで彼の動きを牽制した。

 止めるべきだと思った。確かにラスティーンのやり方は許せるものではないが、感情のままに彼女を断罪すべきではないとも思う。仲間内で揉めている場合ではないのだと伝えるように叫べば、アレスが歯噛みして眉根を寄せる姿が目に映った。


「お前に私は殺せない。それに私を殺しても無駄だ」

微睡みの蒼湖水エルスフォーリアで言ったはずだ。レティシアの命は世界よりも重いと!」

「レティシアは死ぬ運命にある、とも言ったはずだ」

「……っ!」


 怒りに剣を握る手が震え、ラスティーンの喉元に当てた刃が柔肌を裂く。体は既に人としての姿を失っているというのに、ラスティーンの白い喉元からは驚くほどに鮮やかな赤が滲み出た。

 鮮血に「せい」の感触を嫌と言うほど認識し、剣を握るアレスの手がわずかに離れる。その隙を突いて二人の間に小さな炎の柱が巻き上がったかと思うと、イルヴァールの巨体がどちらをも傷つけない羽ばたきを纏って割り込んだ。


「アレス! ラスティーンを害しても意味はない。冷静になれ」

「冷静になれだと? ふざけるな! お前は俺が何を求めてここに来たか、知らないわけではないだろう!」


 いつも冷静なアレスが見せる初めての激昂。両親と対峙した時でさえ、溢れる感情を必死に抑え、怒りに身を焦がすことに耐えていたというのに。今のアレスからは目に見えるほどの怒気が溢れ、それは空間を埋め尽くす銀髪を揺らし、空気すらビリビリと振動させて、ロッドの目に肌に直接怒りを伝えてくる。

 アレスの眼前にいるイルヴァールにも、その怒りは届いているはずだ。現に竜の王たるイルヴァールの覇気は弱く、アレスよりも大きな体は怯えた子竜のような弱々しさを錯覚させた。

 その弱さや躊躇いは、アレスに対する負い目もあるのかもしれない。会話の端から察するに、おそらくイルヴァールはラスティーンがやろうとしていることを初めから知っていたのだ。知っていて、自分たちを魔界跡へ連れて行った。そう考えると、ロッドの胸を冷たい何かが通り過ぎていく。


「お前たちはレティシアを何だと思っている! あいつは結晶石を守るための道具なんかじゃないっ。先祖の犯した罪をすべてあいつに拭わせるな!」

「……レティシアにしか、できぬこともある」

「それはあいつがひとりで背負わなくてはいけないものなのか!? お前たちはレティシアに、何をさせようとしているっ!」


 アレスの怒号に、一瞬だけラスティーンが言葉に詰まったような気がした。けれどその静寂も長くは続かない。停滞する空気を揺らして響いたのは、この場にいる誰のものでもない、滑らかな韻を持つ男の声だった。


「レティシアを贄として、月の結晶石を葬るつもりなのだろう?」


 振り返った先に、漆黒の闇が立っていた。カツンと足音を響かせて進むたびに、闇が剥がれ落ち、その中からラスティーンと同じ銀髪をした若い男の姿があらわになる。

 レティシアに似た青年。けれどその瞳は、レティシアに似ても似つかぬ鮮血の色。


「ヴァレスっ!」


 誰よりも早く名を叫んだアレスを一瞥して、クラウディスの姿をしたヴァレスが興味深そうに目を細めた。鮮血の瞳に映すのは、その背で羽ばたく白い翼だ。


「ほう? 奇妙な力の波動を感じていたが……神界を捨てた一族が、再びその力に縋るとはな。だが力を捨て、暢気に竜と遊んでいた一族お前に俺が止められるとでも?」


 アレスが口を挟む余地すら与えずに、ヴァレスが闇を纏わせた右手を軽く真横に薙ぎ払った。飛び散った闇のかけらは四方へ散らばり、落ちたそばから床を埋め尽くすラスティーンの銀髪を溶かしていく。溶けた銀髪を飲み込んで侵蝕する闇は複雑な紋様をした魔法陣に姿を変え、赤黒い光を放ったかと思うとそこから形を留めない汚泥のような魔物の群れがずるずると這い出してきた。


「これは礼だ、ラスティーン。月の涙鏡るいきょうを壊してくれたお前への」


 そこではじめて、ラスティーンが驚愕と悔恨に灰の目を大きく見開いた。対してヴァレスはさっきからずっと愉悦の表情を隠しもしない。思い通りに事が運んだのがどちらなのか、見て明らかだ。


「俺が何も知らぬと思ったか? お前が月の涙鏡るいきょうを探し、砕くことも予想済みだ。そのためにお前を生かしておいたのだからな」


 ヴァレスに共鳴して、這い出た魔物たちが形のない体を揺らして笑う。そのたびに飛び散る闇の泥からまた新たな魔物が生まれ、数をどんどん増やしていく。


「だが、ここまでだ」


 パチンと指を鳴らすと、それを合図にして魔物が一斉にラスティーンのいる巨木の根に群がりはじめた。宙に浮いているアレスやイルヴァールは元より、下にいるロッドにさえ目もくれず、標的をただひとりラスティーンに絞っている。


「結晶石と共にエルティナの魂を消滅させようとしているお前に、ここから先の舞台は用意されていない。俺がエルティナを復活させるのを、そこで魔物に喰らわれながら見ているがいい」

「……エルティナの、魂……」


 ぽつりとこぼれ落ちたアレスの声には、かすかな嘆きが混ざっているようだった。それはロッドも同じだ。ヴァレスの言葉に、大事な何かを見落としていることを実感したのだから。


 エルティナはバルザックの怒りを買い、その体と魂を別々に封印された。もう二度とこの世に現れることのないように、体はガルフィアスの地底深くへ。

 ならば魂は?

 微睡みの蒼湖水エルスフォーリアから立て続けに動いていたせいで、すっかり頭から抜け落ちていた、エルティナの魂の居場所。それが早くにわかっていれば、もっと違う道があったのかもしれない。そう悔やんでも、もう遅いことは明白だ。


 結晶石をエルティナの魂ごと消滅させると、龍のゆりかごの夢で告げたラスティーン。エルティナの真の復活を望むヴァレスが、月の涙鏡るいきょうの破壊を黙認していた現実。そもそも涙鏡るいきょうに結晶石を封印させる力はないという。ならば、月の涙鏡るいきょうの真の目的は。

 レティシアの涙が形となった涙鏡るいきょうに、何の意味がある?


 答えに辿り着く指先を掠めて、その向こうでヴァレスがアレスを見て嘲笑する。


「ラスティーンにいいように転がされた愚か者たちよ。その様子だとレティシア同様、真実を知らぬままここへ来たと見える」

「……レティシアはどこだ」

「レティシアは真実を知った。もうお前たちの元に戻ることはない」


 飛びかかろうとするアレスを瘴気の鞭で軽く躱して、ヴァレスが後方へと距離を取った。今は戦うつもりはないと言いたげに緩く首を横に振る。それはアレスたちなど、はなから敵ではないと見下しているようでもあって。


「レティシア同様、憐れな男だ。本当はもう、お前にもわかっているのだろう? エルティナの魂が、どこにあるのかを」


 その答えを聞いてはいけない。けれど、本当はもうアレスにもわかっている。わかってしまった。


「神界人の血の中に、エルティナの魂は封じられた。結晶石を守る使命を負った、今は天界人の系譜の末端――レティシアの血の中に、な」



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