第67話 砕かれた涙鏡

 空を浮遊する天界は、ひとつところに留まってはいない。イルヴァールの魔法によって天界が目視できる場所にまで飛んできたアレスは、現れ出た場所を眼下に見てハッと息を呑んだ。


 空を覆う分厚い雲。自然を感じられない、枯れた大地。遠くの方には、穢れた瘴気を吐き出す漆黒の大穴が見える。アレスたちの眼下に広がるのは、記憶に新しい呪われた場所――魔界跡ヘルズゲートだった。

 天界に決まった軌道はないはずだが、決戦として赴いた場所が魔界跡ヘルズゲートの上空であることに、不気味な因縁を感じずにはいられない。


「レティシアが捕らえられているなら城のどこかだろうな」


 前のように結界が張られているかもしれない。まずは上空から天界の様子を窺おうとしたところで、不意にアレスの頭の中にラスティーンの声が響いてきた。


『アレス。月の涙鏡るいきょうを持って、私の元へ急げ』

「ラスティーン!?」

『ヴァレスの目的は結晶石だ。封印が解かれるまで、レティシアを傷つけることはしないだろう。その間に月の涙鏡るいきょうを使って、結晶石を再封印させる』


 それっきり、ラスティーンの声は聞こえなくなってしまった。まるでアレスの返答など、最初から求めていないかのようだ。

 この場にレティシアがいなくても封印は可能なのか。そう疑問が芽生えはしたが、ラスティーンの言うように、レティシアの無事を優先させるなら一番にすべきことは結晶石の封印だ。幸い月の涙鏡るいきょうは奪われずにこちらにある。


「ラスティーンは何て?」

「先に結晶石を封印すると。イルヴァール。ラスティーンのところへ行けるか?」

「……承知した」


 そう返事をしたイルヴァールの声は、なぜだかわからないが少しだけ逡巡する迷いのようなものが感じられた。けれどそれを追求する間もなく、六枚の翼が風を切る。


 太陽を覆い隠した灰色の空はこの先の不安を表しているようで、アレスの胸にはずっと理由のわからない気持ち悪さだけが居座ったままだった。



 再び訪れた地下の最深部。壁を、床を埋め尽くす銀髪の海の中、フェゼリアの大樹の根と同化したラスティーンが変わらない姿でアレスたちを出迎えた。


「月の涙鏡るいきょうを見つけ、魔界跡からよく戻った」


 光を失った灰色の目をイルヴァールへ向けて、ラスティーンが静かに睫毛を震わせる。


「やはり……天界王はヴァレスだったのだな。時が来て、魔界跡で目覚めたか」

「お前はいたのか?」

「イルヴァールの目を通してな。アレス、お前もよく耐えた」


 労いなのか、それとも同情なのか。そんなつもりはないのだろうが、抑揚のないラスティーンの声音は義務的に響くだけで、アレスの心には何の思いも残らない。


「アレス、月の涙鏡るいきょうをここへ」


 ラスティーンの体が同化している樹の根元へ近付くと、それに合わせて涙鏡るいきょうの鏡面がざわざわと波紋を揺らしはじめた。まるで怯えているようだと、そう思った瞬間に、歪む鏡面の奥にエルティナの幻が見えた気がした。もう一度確かめようと覗き込むよりも先に、上から伸びたラスティーンの髪がアレスの手から涙鏡るいきょうを絡め取っていく。

 見上げるアレスと木に埋まったラスティーンの間で、月の涙鏡るいきょうが白い光に包まれた。


「どんな願いも叶えられるという月の結晶石は……それを作った本人以外にとって、呪いにしかならない。ヴァレスの願いにしか反応せず、その願いを叶えなければ消えることもないのだから」


 この世界から結晶石をなくすということは、ヴァレスの願いが叶うということだ。けれどもヴァレスの願いは自然の理に反し、無理にでもエルティナをよみがえらせれば世界に満ちる魔力の均衡が崩れ、結果的に世界は崩壊へと進むだろう。

 ヴァレスに石を使われる前に砕いたところで同じだ。ヴァレスの願いと月の魔力を凝縮した大きな力は、結晶石という入れ物があってこそ、そこに留まることができている。砕けばそこから月の魔力は暴走し、世界は滅びの一途を辿ってしまうのだ。


 月の結晶石は、ヴァレスのためだけに存在する。それ以外のアレスたちにとっては、どう扱っても滅びの石でしかない。


「私たちは石を砕くという選択肢すらなく、封印をもってヴァレスから遠ざけるしかできなかった。――けれど、ようやく時が満ちたのだ」


 重なり合った視線の先で、ラスティーンの灰色の瞳がかすかに揺れているのがわかった。


「アレス。はヴァレスの願いを何としても阻止し、世界を崩壊から守るために今日まで生き長らえてきた。光を失っても、人としての姿を失ってもだ。それが神界の姫である私の使命で、バルザックの血を引く者としての贖罪だ」

「……何が言いたい」

「お前に恨まれることになっても、私は世界を救いたいと願う」


 まっすぐに向けられる灰の瞳に、揺るぎのない意思が宿る。光をなくしても、その瞳が見ているのは未来だ。動けない体であるというのに、少しも衰える気配のないラスティーンの闘志に気圧されて、アレスは思わず言葉を失ってしまった。


「ラスティーン」


 束の間の沈黙を破ったのは、イルヴァールだった。それまで黙していたイルヴァールの声に、周囲を埋め尽くすラスティーンの銀髪がさわさわと揺れている。


「わしは……第二のヴァレスを生み出したくはない」

「迷っているのか? ……無理もない。お前はもう、アレスを主としているのだから」

「あの時はそれしか方法はなかった。だが今の時代なら、奴を止められるかもしれぬ。共に行動し、わしはアレスの力を、決して折れることのない思いの強さを知った。ヴァレスとよく似た……けれど奴とは違う強い光だ。アレスならば、もしかしたら……」

「確かに、私たちの選択は正しくはないのだろう。けれど、勝敗の見えぬあやふやな賭けに乗ることはできない」

「ラスティーン!」

「ここから先は、私だけでやろう。いままでよく仕えてくれた。ありがとう、イルヴァール」


 しんと、再び辺りが静まり返る。誰も言葉を発しない空間に、何かよくない影が忍び寄ってきていた。

 恐怖や悪意といったものではない。強いて言うなら、アレスの心を撫でていく感情は焦燥と不安だ。何かしなくてはと焦るのに、その不安の全貌がまだ見えてこない。けれど、確実に自分たちにとって好ましくないことが起ころうとしていることだけはわかった。


「ちょっと待て。一体なんの話をしているんだ」


 龍のゆりかごで語りかけてきたイルヴァール。初めて会った時に、同じようにアレスに問うたラスティーン。魔界跡で消えたレティシアを前に、イルヴァールに感じた違和感。それらが指し示す中心にいたのは、いつもレティシアだ。


『世界とレティシア、お前にはどちらが必要だ?』

『お前の意思は強くとも、その願いはあまりに儚い』

『レティシアは死ぬ。そういう運命なのだ』


 カッと目を見開いた瞬間、アレスの心に同調して背中から白い翼が現れた。そのまま大きく翼を広げると、ラスティーンの前に引き寄せられていた月の涙鏡るいきょうめがけて一気に駆け上がる。


「アレス!?」


 急に飛び上がったアレスに驚いて、ロッドが何か叫んでいる。行動の理由を、アレスでさえはっきりと言葉にすることができなかった。けれどもなぜか月の涙鏡るいきょうを取り戻さなくてはと焦燥する。

 ラスティーンに渡してはならないと、心が叫んでいる。


 流れる時間はほんの一瞬。迫り来るアレスを確実に捉える灰の瞳がかすかに揺れ、滲み出る感情を抑え込むようにラスティーンの瞼が閉じられる。


「すまない」


 壁を覆い尽くしていた銀髪が盾となり、あるいは剣となり、アレスは結界の衝撃波をまともに食らって後方へ勢いよく吹き飛んだ。それでも逸る心のままに血を滾らせ、空中で大きく一回転すると、ダンッと強くくうを蹴る。


 再度手を伸ばして飛び込んだその先で、――灰の瞳に宿るかなしみの光を見てしまった。光の奥に隠されていた残酷な決意を知り、アレスの体が悲鳴を上げるように震える。


「やめろ!!」


 銀色の空間に響き渡ったのはアレスの怒号と、エルティナの悲鳴に似た高く儚い破裂音。

 硬直したアレスの指先を掠めて、銀色の光がきらきら、はらはら、落ちていく。


 光はかけら。

 かけらは、鏡の成れの果て。


 月の結晶石を封印するための月の涙鏡るいきょう

 アレスたちにとって唯一のレティシアを救う手段が、ラスティーンの手によって粉々に打ち砕かれてしまった。



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