第66話 消えたレティシア
獣人界を囲む深い森を、白い朝日がゆっくりと照らし出していく。夜に染まった濃緑から、朝露を受けて輝く深緑へ。
朝を告げる鳥が飛び立つ青空の先に、眩い光を集めたような白く大きな影がある。ばさり、と羽音を響かせて、影から現れた六枚の翼が悠然と空を
神龍イルヴァールの神気に当てられて、森の動物たちに動揺が走る。そのざわめきを感じ取って外に出てきたロッドの前に、イルヴァールが着地するのを待てなかったアレスが焦ったように背から飛び降りた。
「ロッド! レティシアが消えた!」
「えぇ!? なんで……」
「おそらくだが……ヴァレスに連れ去られたんだと思う」
片翼を切り落とされた時、目覚めたレティシアは何かに呼ばれているようにその姿を消しかけていた。「羽落としの剣」で両翼を切られた者は、翼を求めて死ぬまでさまようとイルヴァールが言っていた。ならばそれは、片翼でも同じなのではないか。
片翼をもがれ、魔力が半減したのは結果論だ。ヴァレスの目的は最初から、レティシアを手中に収めることだったのだ。
「俺はこのまま天界へ向かう。お前は……」
「一緒に行くに決まってるだろ! 少し待ってろ。すぐに用意してくる」
とりあえず衣服だけでも着替えようと部屋へ戻ったロッドを待っていたのは、旅の準備を一式揃えたセリカの姿だった。アレスたちが来たことを知り、着替えの服と簡単な食料を用意していたのだ。
「こんな時に食べ物なんて喉を通らないかもしれないけど、少しでもお腹に入れていた方がいいわ。ここにアレスの分のパンも入っているから、一緒に持っていって。それからこっちには水が……」
「セリカ。ごめんな。……ありがとう」
荷を用意しているセリカを後ろから抱きしめて、乱れ髪に隠れた首筋に顔を埋めた。
これから向かう戦いに、決して無傷ではいられないだろう。最悪なことをいえば、命の保証すらないのだ。そんな戦いへ、不満も不安もなにひとつ漏らさずに送り出してくれるセリカに対して、ロッドは感謝の思いしかない。
怖くないと言えば嘘になる。セリカを抱きしめる腕も、かすかに震えているのが自分でもわかった。けれどアレスとレティシアを助けたいと願うのも、またロッドの譲れない思いなのだ。
「あなたは少し、そそっかしいところがあるから……ちゃんと気を引き締めて」
「……厳しいな」
「怪我しても、腕をもがれてもいいから、絶対に帰ってきてちょうだい。あなたに伝えなくちゃいけないことがあるのよ」
「それはいまじゃなくて?」
「そうよ。気になっておちおち死んでもいられないでしょう? だから……」
そっとセリカが、自身の腹部を撫で下ろした。後ろから抱きしめるロッドは、それに気付けない。けれどそれでいいのだと、セリカは思う。
いまは目の前の戦いに集中してほしい。そう強くあろうと、セリカはゆっくり振り返って、自分から愛しい
先に空へ駆け上がるイルヴァールの白い巨体を追って、ロッドの乗る飛竜が獣人界を飛び立った。見下ろした眼下、巻き上がる風に髪を押さえて空を仰ぐセリカがいる。あまり弱音を吐かない彼女の顔がさみしそうに見えたのはほんの一瞬。ロッドが瞬きする間に、憂いは淡く貼り付けた笑顔の向こうに隠されて。
「気をつけて」
その声が届いたかどうかはわからない。
獣人界の上空にあった二頭の飛竜の影は、やがてイルヴァールの紡いだ転送の魔法によって光に解けるようにして消えてしまった。
***
白いレースのカーテンが、少し肌寒い朝の空気に揺れていた。
ちらちらと差し込む朝日にゆっくりと目を開けると、微睡む視界に見慣れた部屋が映る。
肌触り滑らかな白いベッドシーツ。サイドテーブルには水差しと、栞を挟んだ読みかけの本が一冊置いてある。その本の上に時期を終えた青いレイメルの花が一輪、握り潰されたままの姿で置かれているのを見た瞬間、レティシアは弾かれたようにベッドから飛び起きた。
「……っ!!」
見慣れた部屋だと感じたのも無理はない。レティシアがいま目覚めた部屋は、天界の自室だ。読みかけの本は天界を逃げ出したあの夜に読んでいたもので、レイメルの花はその時にクラウディスがレティシアの前で握り潰したもの。
「ずいぶんと気持ちよさそうに眠っていたな。やはり自室が落ち着くか?」
いつの間にか、扉の前にクラウディスが立っていた。変わらぬ兄の姿に思わず名を呼べば、およそクラウディスとは思えないほどの蔑んだ笑みを向けられる。
「まだその名で俺を呼ぶか。お前の兄はもういないと言ったはずだ」
「……っ、ヴァレス」
「あぁ、そうだ。ようやく、俺の名を呼んだな」
蔑みから一点、レティシアに名を呼ばれたことでヴァレスの表情がわずかに和らいだ。まるでレティシアに幻影を重ねているように、見つめる双眸ですらやわらかい。
「俺に辿り着くまで、ずいぶんと時間がかかったな。イルヴァールにでも聞いたか? それとも……この地下で眠るラスティーンか?」
「なぜそれを……っ!」
「別に驚くことはないだろう? 月の
「どうして……あなたがそれを、知っているの……?」
「月の
「……っ」
アレスの両親を侮蔑されたようで、レティシアの中に抑えきれない怒りが込み上げてくる。彼らがどんな気持ちで向き合ったのか。アレスがどんな思いで剣を振るったのか。それは笑いながら語れるような、軽いものでは決してない。ましてやヴァレスなんかに、語って欲しくもなかった。
「俺が憎いか? だが、高みの見物を決め込んでいたのは俺だけではないぞ」
「何を……っ」
「言っただろう。俺も月の
「なぜあなたが月の
「再度封印するため、とでも言われたか?」
ひどく胸騒ぎのする笑みを浮かべたまま、ヴァレスがレティシアの言葉尻を攫う。引き継ぐ言葉は何も間違っていないのに、笑みを絶やさないヴァレスの顔を見ていると悪寒にも似た不安が押し寄せた。
「
ぐいっと顎を掴まれて、レティシアはベッドに座ったままヴァレスを見上げる形となる。触れる指先は羽根のように優しいのに、その力からレティシアは逃れる術を見出せない。見下ろしてくる兄と同じ青い双眸がわずかに赤く煌めいて、レティシアの体から自由を奪っているかのようだ。
「お前たちはこの舞台を整えるための駒に過ぎない。ここまで自分たちの意思で動いてきたと思ったか?」
「……なに、を……っ、何を言っているの!?」
「月の
顎を掴んだまま、ヴァレスがレティシアへ顔を寄せてくる。クラウディスの姿なのに、近付くその顔が、その笑みが恐ろしい。無意識にぎゅっと目を閉じれば、鼓膜に直接息を吹きかけるようにして、ヴァレスが甘くねっとりとした声音で囁いた。
「レティシア。お前は何も感じないか? それを宿す者として」
「それ」がどちらを指すのかと、わずかでも考えてしまった瞬間に、レティシアの背筋がぞくりと凍った。
レティシアの中にあるのは、月の結晶石だ。それ以外に、何があるというのか。何を、想像してしまったのか。
「結晶石の封印は
戦慄するレティシアの青い瞳の中で、クラウディスの姿をしたヴァレスがにやりと笑った。
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