第65話 帰る場所

 夕陽の沈んだ空に混じる橙と濃紺を控えめに照らして、白い月が昇っていく。

 天界で見ていた月も、いまここでアレスと共に見上げている月も、その冴え冴えとした白い輝きは変わらない。美しく、清浄で、畏怖すら感じる夜の象徴は、きっといつの時代も同じ光で世界を照らし続けてきたのだろう。


 エルティナが命を落とし、魔界王ヴァレスが誕生した夜も。ガルフィアスが滅んだ、血塗られた月下大戦も。そして、すべてを終わらせるために天界へ赴くレティシアたちのことも。

 ただ静かに世界を見つめてきた月の記憶を知ることができたのなら、この運命の輪を断ち切る答えが見つかるかもしれない。


「どうした?」

「……え?」

「やけに空を見上げているから。……何か、気になることでもあるのか?」

「そういうわけではないんですけど……。あの月に残された記憶を辿ることができたなら、誰も傷つかない、もっといい方法があるんじゃないかって思ってしまって」


 誰も傷つかない、と口にしたことで、レティシアは自分の中にあるヴァレスへの思いを意図せず認めてしまう形となってしまった。慌てて口を噤んでも、隣でアレスがわずかに息を呑む音がする。それでも彼の口からこぼれた言葉は、レティシアを否定するものではなかった。


「お前は……ヴァレスを救いたいと願うのか?」


 家族を殺され、愛した人も、まだ見ぬ我が子までもを奪われたヴァレス。憎しみに染まってしまった彼が辿って来た道を許すことはできないが、一人で背負うにはあまりにつらい悲しみや痛みまで否定してはいけないような気がした。

 彼を魔界王に変えてしまった原因は憎悪と孤独だ。それを取り去ることができれば、誰も傷つかずにすむのかもしれないとも思う。けれど彼が望むのはエルティナただ一人で、そのエルティナはもうこの世のどこにも存在しない。


「……救うことで人も世界も、もう傷つかずに済むのなら……憎しみはここで断ち切らなくてはと。……救う方法があればの、話ですが」

「そうか」

「あ、あの! すみませんっ、こんな時に。ヴァレスの術によって、ふたりは……」

「気にするな。奴に対して憎しみがないとは言い切れないが、お前の気持ちも否定はしない」

「アレス……」

「そんな顔をするな。お前を責めているんじゃない」


 儚く笑いかけてくれるアレスに対して、レティシアはもう少し配慮すべきだったと自分の浅はかさを呪った。

 どうにも龍のゆりかごで見たエルティナの思考に、自分の意識が引きずられている感がある。それは魔界跡で手に入れた月の涙鏡を目にした時から、より強くレティシアの心を揺さぶっている気がする。


「憎しみが何も生まないことは、俺にもよくわかっている。ただ……」


 そっと、髪を撫でられたかと思うと、アレスの手のひらがレティシアの頬を包み込んだ。


「時々お前が……エルティナに寄り添いすぎている気がして、不安なんだ」

「……っ、それは」

「あんな過去を見れば誰だってヴァレスに同情する。俺も奴を救うことで犠牲を出さずに済むのなら、それが一番だと思っている。ただ……時々、お前がヴァレスと共にあることを望んでしまうんじゃないかと……」


 頬に触れた手が、かすかに震えていた。重なる視線は優しく、向けられる微笑みもあたたかいのに、アレスの纏う気配はまるで雨に打たれて泣くのを我慢している子供のようだ。そうさせているのが自分であることに自責の念を抱き、レティシアはたまらず頬を包むアレスの手を取って両手できつく握り返した。


「いいえ……。いいえ、アレス。私はどこにも行きません。ずっとアレスのそばにいます。そばに……いたいです。だから……っ」


 泣かないでほしいと、そう願った視線の先で――アレスが虚を突かれたように目をみはった。かと思えば、名を呼ぶ前にアレスの腕に強く抱きしめられる。


「あっ……」

「レティシア」


 首筋を、熱い吐息が掠めていく。レティシアを抱きしめているはずなのに、アレスの腕はまるで幻影に追い縋るかのような必死さが感じられた。


「お前のいるべき場所は、ここだ。天界でも、ヴァレスのところでもない。お前の居場所は、いつでも俺の隣にある」

「……アレス」

「だから……すべてを終わらせたら……帰ってこよう。二人で、龍神界ここへ」


 レティシアよりもはるかに強いはずのアレスが、声を震わせて切に願う。

 その思いに応えたい。応えられるのは自分しかいないのだと。レティシアは自分の思いと共に、アレスの思いもすべて受け止める覚悟をした。


「……はい」


 アレスの背に手を回して、レティシアもしがみ付くように抱きついた。アレスの体温がレティシアを落ち着かせてくれるように、彼も同じならいいと――そう願って、躊躇いながらも腕にきゅっと力を込める。


 アレスが一緒なら、怖いことはなにもない。

 繋いだ手のぬくもりを、抱きしめる腕の強さを信じていれば、心を揺らすエルティナの影がゆっくりと薄れていく。

 見つめ合う瞳の奥、アレスの深緑に映るのはレティシアだ。


 ――ふっと、月光が翳る。


 レティシアの視界から月を遮って、深緑の影が落ちる。

 やわらかな羽根に似たやさしいくちづけに、一瞬だけ世界の時が止まったような気がした。


『お前のいるべき場所は、ここだ』


 掠めるほどに淡く儚い触れ合いだ。けれどそれはレティシアの心に、確かな願いを刻み込んでゆく。

 再び重なるくちびるに、そっと目を閉じる。瞼の裏に浮かぶ幻影は、いつかロゼッタと共に花冠を作った花畑でアレスたちと笑い合う、とても幸せな夢だった。




 翌日、龍神界からレティシアの姿が消えた。



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