第8章 真実を知る者

第64話 深緑色の誓い

 久しぶりに戻った龍神界では、ガッシュと彼の妻メレシャ、そしてすっかり元気になったロゼッタが笑顔で出迎えてくれた。ロッドはセリカの様子が気になると言って、飛竜を借りたまま獣人界へ戻っている。月の涙鏡をラスティーンの元へ届ける時にも同行すると念を押されたので、休息を終えたら獣人界へ寄ってから天界へ向かう事になりそうだ。


 ガッシュの体には、まだ包帯が巻かれていた。家の前の地面は深く抉られており、薙ぎ倒された木々も端に寄せられままになっている。生活する上では問題なく片付けられてはいるものの、ここでクラウディスが行った非道の名残がそこかしこに残っていて、レティシアは彼らに合わせる顔がないとしばらく顔面蒼白のまま立ち尽くしてしまった。


 そんなレティシアの手を引いてくれたのは、ロゼッタだ。彼女の屈託のない笑顔はレティシアの心を優しく慰め、ガッシュたちもまた責めるどころか、逆にかたく手を握って「よくやってくれた」と声を震わせて涙した。


「ロゼッタを救ってくれたこと。そして……ジークとアシュリアを解放してくれて、本当にありがとう」


 アレスを孫のように可愛がっていたガッシュだ。きっとジークのことも息子のように思っていたのだろう。静かに涙を流すガッシュを見ていると、レティシアもまた目頭が熱くなるのを止められなかった。

 その間、アレスはずっと表情を変えていなかったように思う。天界で皆を解放したことや、魔界跡で起こったことを淡々と説明するだけだ。涙ぐむガッシュたちに対してわずかに微笑みはしたが、うまく感情を抑えているアレスを見ていると、レティシアは少しさみしい気持ちになってしまった。


 ガッシュの家で夕飯をご馳走になったあと、ふとアレスの姿が消えていることに気付いた。何となくアレスを一人にしたくなくて姿を探していると、ガッシュが控えめな声でレティシアを呼ぶ。二人して家の外に出ると、ガッシュがすっと村の外れにある丘を指差した。


「あの丘からは、このリュッカの村が一望できるんじゃ」


 そう言えば天界から逃げて次に目を覚ました夜、レティシアはあの丘へ登ったことがあった。そこでアレスと初めて言葉を交わしたのだ。


「あそこに、ジークとアシュリアの墓を建てると言っていた」


 遺骨など、何も残っていない。闇に染まってしまった彼らの体は、すべて魔界跡の風に攫われてしまった。それでも二人の思いは、きっとアレスが故郷である龍神界へ連れて戻ったはずだと思いたい。墓を建てるのはそういった気持ちを鎮めるためでもあるのだろう。


 それは決別の儀式だ。

 両親の死をその手で導いたアレスの。

 ジークの背を追いかけたままで止まっていた、過去の自分との別れの儀式。


 丘の上まで登ると、斜陽に照らされた龍神界を黙したまま見つめるアレスの後ろ姿があった。

 間に合わせのもので作った墓標は枯れた木の枝で、十字に重ねられた部分には少し歪んだ花輪がかけられている。その傍らに突き刺したアレスの剣が、青銀色の刃に夕陽を反射して控えめな光を揺らしていた。


 アレスを一人にしたくなくてここまで来たが、実際に一人で佇む後ろ姿を見ていると声をかけていいものかと迷ってしまう。もしかして一人で静かに見送りたかったのかもしれない。そう思ってしまうと、余計な心配をしてしまった自分が途端に恥ずかしくなってしまい、レティシアはそこから先へ進むことができなくなってしまった。


「レティシア?」


 気付かれる前に戻ろうとしたところで声をかけられる。別に悪いこと見咎められたわけでもないのに、びくりと肩が大きく震えた。


「どうかしたか?」

「え……と、別に何も」

「そのわりには、ずっとそこにいた気がするが?」

「……っ! 気付いていたんですか!?」

「お前の気配はすぐにわかる」


 嬉しいような、くすぐったいような。レティシアがどこにいても見つけられると、そう言われた気がして、こんな時なのに胸があまく疼いてしまう。


「ガッシュから、ここにいると……聞いたので」

「そうか」


 それだけ答えると、アレスが誘うように手を差し出してくる。


「あ、あの?」

「心配して、来てくれたんだろう?」

「それはそう……なのですが。……私がいてはお邪魔では」


 言ってしまってから、自分の言動がちぐはぐなことに気付いた。アレスを心配して来たはずなのに、逆に自分がいてはゆっくり二人を見送ることもできないのではないか。親子の葬送に部外者が割り込むべきではないと、今更ながらに怖じ気づく。

 けれどもアレスはそんなレティシアの感情をまるっと包み込んで、かすかに憂いの残る微笑みを向けたまま、差し出した手を引き戻すこともしない。


「正直、自分でも思った以上にこたえているんだ。ガラにもなく、誰かにそばにいて欲しいと思ってしまう」

「……アレス」

「本当はこんな姿なんて見せたくなかった。……でも、お前が来てくれて、ホッとしている自分もいる」


 レティシアを見つめる瞳は逸らされることなく、悲しみの色を纏っているとは言え、その深緑の輝きは強い意思を秘めたままだ。


「弱さも、醜さも、脆い部分を全部さらけ出した俺を……受け止めてくれるのは、お前がいい」

「……っ」

「お前でないと、意味がない」


 世界から、音が消えた気がした。口を開けば予期せぬ涙がこぼれ落ちそうで、声を出せない代わりに差し出された手をぎゅっと強く握りしめる。

 そばにいていいのだと。レティシアがいいのだと。そう迷いもなく言ってのけるアレスの強さに、胸が焦がれそうだった。


「……はい」


 絞り出すようにそれだけ告げると、アレスがそっとレティシアを自分の隣に引き寄せる。両親の墓標を前に、何をするでもなく二人寄り添い合うだけだ。けれども心の距離がぐんと近付いたのを、レティシアは繋ぐ手の体温からひしひしと感じるのだった。


「あのアレス。これを渡さなければと思っていたんです」


 しばらく二人で龍神界を見下ろした後、レティシアは深緑色の石の首飾りをアレスに手渡した。アシュリアが消えた時、その形見としてレティシアの手の中に残ったものだ。


「これは……」


 ハッとしたように、アレスが目をみはる。やはり彼にも見覚えがあったのだろう。深緑色の石を見つめる眼差しは、まるで母親に思いを馳せているようでやわらかい。


「母が……肌身離さずつけていたものだ」

「アレスに渡せてよかったです」

「……ありがとう」


 きゅっと、石を握りしめて呟いたかと思うと、今度はその手をレティシアの方へ差し出してくる。渡したばかりの首飾りを突き返されたような形だ。戸惑いと不安に顔を上げると、そうではないと伝えるようにアレスが唇に淡い笑みを浮かべた。


「お前がよければ、これを受け取って欲しい」

「……えっ? で、でもこれはアシュリアの」

「どんな時もそばにいると願って、ジークがこれを渡したように……俺も、この首飾りをお前に託したい」


 アレスの強い意思を形にしたような、深い緑色の石。どんな時もそばにいると。たとえ離れていても、心はここにあるのだと告げるように、二つの深緑がレティシアをまっすぐに見つめてくる。


 いとしい人の、いとしい色。けれどもそれは遺骨さえ残らなかった二人の、唯一の形見だ。そんな大事なものを受け取るなんてと戸惑っているうちに、アレスはレティシアの髪を梳いて、深緑の石をそっと首にかけてくれた。


「アレス……」

「それは俺だ。どんな時もお前と一緒にいる。そう誓わせてくれ」


 淡く微笑みを浮かべてはいるものの、どこか切なく乞うように願う。そのアレスの思いを、レティシアもまた心の奥にひっそりと感じていた。


 月の涙鏡を手に入れて、レティシアたちは結晶石の封印をするために天界へと向かう。きっとヴァレスはそれを全力で阻止しにくるだろう。

 おそらく最後の戦いだ。何が起こるかわからない。胸をざわつかせる不安を、きっと誰もが抱いているはずだ。そんな曖昧な不安に押し潰されないように、きゅっと石を握りしめれば、不思議とレティシアは心が軽くなるのを感じた。


「……ありがとうございます」


 レティシアの不安をかき消してくれるアレスの強さ。彼だって不安でないはずはない。そんなアレスの憂いを少しでも取り去るには、どうしたらいいのだろう。

 アレスはレティシアを守ると誓い、深緑色の石の首飾りをくれた。何も持たないレティシアは、アレスに何をあげられるのだろう。


「アレス。私……。私も、アレスを守ります」


 守られるばかりでは、だめだと。その優しさと強さに甘えるばかりでは、本当に必要な時に動けなくなるかもしれないと、レティシアは自分自身を叱咤する。

 アレスがレティシアを大切に思ってくれているように、レティシアにとってもアレスはもう自分の一部になるほどにかけがえのない存在だ。


 守りたい。

 大切な人と、その人が暮らすこの世界を。


 そう強く願いを込めて、レティシアはアレスの手をきゅっと強く握りしめた。



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