第63話 ジーク
遠くに、声が聞こえていた。
「 」を呼ぶ、幼い声が。「 」を救おうとする、青年の声が。懐かしいと感じるその声は泣いているようでもあり、怒っているようでもある。
応えなければと、漠然とそう思う。闇と同化した体を引きずり、どこかもわからぬ出口を求めて必死にさまよった。
蹲って泣く彼を、助けてやらなくては。あの小さな体を守れるのは「 」だけなのだと、そう思ったところで胸の中に一陣の風が吹き抜けていく。
助けを求めているのは彼ではなく、「 」だ。そして彼の小さな手は、いつの間にか
その大きな手を、握ってみたいと思った。その手に、救われたいと――。
『ジーク!』
闇しかない世界に、一条の光が射す。痛みすら感じる清浄な光に体を包む闇が剥がれ落ち、伸ばした触手の中から人の――「 」だったものの腕が現れた。その指先に光を感じ、そこから数多の記憶が体の中に流れ込む。
あぁ、と息を漏らした。
戻らなければ。「 」がいるべき場所はここではない。最期まで、足掻かなくては。「 」が「ジーク」であるために。
***
躊躇いもなく振り下ろされた青銀色の刃が、ジークの左肩から心臓までを切り裂いていた。どろりと溢れ出るのは闇色の血液。剣身を淡く包む光が浄化しているのか、ジークの傷が再び塞がることはなかった。
「……ばか、な……っ! お前は実の父を、殺せるとっ……!」
「ジークは死んだ。お前はその亡骸を操っているだけだ」
口から大量の黒い血を吐きながら、ジークがアレスをぎろりと睨み付けた。その瞳の瞳孔は爬虫類のように細長く、呪いを孕むかのように血走っている。
「ジークを返してもらう」
そう冷淡に告げて、アレスがジークの体から無造作に剣を引き抜いた。ごぽり……と音を立てて引きずり出された闇の血液が、空気に触れて形を成す。口すらないそれは蛇に似た幾つもの細長い体をアレスの剣に絡ませて、汚れた血色の目でぎょろぎょろと周囲を見回していた。
「イルヴァール!」
剣に纏わりついたそれを放り投げると同時に、イルヴァールの猛火が魔物の体を覆い尽くした。口のない魔物の最期はただ静かに、灰色の空を彩ることもなく風に攫われていく。
アレスは、力をなくし落下するジークの体を支えて地上へ降り立っていた。彼を操っていた魔物の最期など塵とも興味がなく、意識は既に戦いの場を離れてジークへと向けられている。
支えたジークをそっと地面へ横たえると、アレスの腕の中で互いの深緑がようやく重なり合った。
「……ジーク」
名を呼ぶ声は、思っていた以上に震えていた。再度口を開けば視界が歪むのも自覚しながら、それでもアレスはジークの名を呼ばずにはいられなかった。
腕に抱く彼が、記憶と違わぬ笑みを浮かべている。儚い微笑ではあったけれど、そこには確かに父としての面影が戻っていた。
「……っ、ジーク。……俺が、わかるか?」
「あぁ……わかるよ」
傷口にあてたアレスの手を握って、ジークが眩しそうに目を細めた。
「……アレス」
呼吸と共に吐き出される声はひどく小さい。反してアレスの手を握る力は強く、もしかしたらという甘い期待が胸をよぎるけれど――。
腕に支えたジークの重みがふっと軽くなったのを感じて、アレスは嗚咽を漏らさぬよう唇をきつく噛み締めた。
「つらい選択をさせた。だが……お前のおかげで、私もアシュリアも救われた。……ありがとう」
「ジーク……」
「お前は私が思う以上に、強くなったな」
「俺は……守るべきものを、見つけた」
「そうらしい……」
少し離れたところでこちらの様子を窺うレティシアを見て、ジークが安堵したように深くゆっくりと息を吐いた。そのぶん、また体が軽くなる。
「その気持ちを、忘れるな。……その思いが、お前を強くする」
掴まれたままの手を、少しだけ強く引かれた。ジークの輪郭は既に
そっと身を屈めて顔を寄せると、かすかな熱を残すジークの吐息がアレスの耳朶を掠めていった。
「あとを、頼む。ロゼッタを……、龍神界を……」
「あぁ、わかってる」
心配ないと強く手を握り返すと、もう瞳の色すら薄れたジークが近い距離でアレスを見つめて、笑う。
「お前は、自慢の息子だ」
ジークの背を追いかけていた、幼いアレスはもういない。進むべき道をその足でしっかりと歩き出したアレスを、いつの間にかジークの方が後ろから見守っている。奪われた時の流れを恨みはすれど、自分がいなくとも立派に成長したアレスを最期に見られたことは唯一の救いだ。
できればその成長を間近で見たかった。そしてこれから進むアレスの未来を、見届けたかった。けれど、その役目はもう自分ではないのだと、ジークは霞む視界に映る
「アレス……お前を、愛しているよ」
最期に一番伝えたい言葉を残して、ジークがゆっくりと瞼を閉じる。
アレスの腕に、もうジークの重みはない。声も熱も感触もすべてが失われ、抜け落ちた色彩は光の粒になって、はらはらと空へ上っていく。
風が吹けば足が
「……ジーク」
返事はない。それはアレスにもわかっていた。
だからアレスを呼ぶジークの声が自身の
『アレス』
今だけは、その夢に縋りたかった。
ほろほろと、崩れていく。淡い光を纏って、空へと消えていく。ジークの光に包まれながら、その行く先を追って空を見上げたアレスの髪を揺らして、葬送の風が吹き抜ける。それを合図に、アレスの腕に残っていた最後のひとかけらが空高く舞い上がって――消えた。
『お前は、自慢の息子だ』
鼓膜を震わせて、なおもジークの声がする。静かに目を閉じれば、瞼の裏に憧れたジークの姿が浮かび上がった。
『愛しているよ』
「……父さん……――」
言葉の続きが届いたかどうかはわからない。けれど届かずとも、思いはとっくにジークに伝わっている。そう思うと、瞼の裏で消えていくジークが強く頷いたような気がした。
「……アレス」
そっと、背中に声をかけられて振り向くと、そこには心配そうに眉を下げるレティシアがいた。離れたところで小さく頷くロッドを見れば、彼が無事にレティシアを連れ戻ったことを知る。
「よかった。無事だったんだな」
「私は大丈夫です。それよりも……アレスの方が……」
言いかけて口を噤んだレティシアが、はっと目を見開いた。重なったかと思った視線が意図的に外され、躊躇うように俯いて。
「アレス……っ」
切なげに名を呼ばれたかと思えば、次の瞬間アレスはレティシアに儚い力で抱きしめられていた。
「レティシア……?」
「……ひとりで……泣かないで」
震える声で告げられて、そこでアレスは自分が泣いていることを自覚した。認めてしまえば涙はあとからあとから溢れ出し、強張っていたアレスの頬をとめどなくこぼれ落ちていく。
アレスの心をあたためるように。慰めるように。涙の熱が、レティシアのぬくもりが、少しずつアレスの傷を癒やしていく。
肉を裂いた感触が、まだ手のひらに残っている。同じ手のひらに、まだジークの重みを感じている。
魔物に乗っ取られた二人を救ったことに後悔はない。それしか方法はなかったし、きっと二人もそれを望んでいた。けれど。
けれども、アレスの胸は青くせつない色に染まっている。
「……レティシア」
名を呼べば、自然と体が動いた。
レティシアの背に腕を回して、その首筋に顔をうずめる。優しい香りに、胸を染める青い切なさがゆっくりと薄れていくようだった。応えるようにレティシアの手がそっと背中を撫で下ろして、そのぬくもりにアレスの瞼がまた熱くなる。
「もう少しだけ……こうさせてくれ」
傍らに突き立てた青銀色の剣が、太陽の隠れた曇天の下でかすかに光を反射する。その儚い瞬きは、空に消えていった二人の、最期の光のようにやわらかかった。
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