第62話 アシュリア

 大地が悲鳴を上げて、大きく揺れ動いた。

 魔界跡の最深部から飛竜に乗って地上へ戻ったロッドは、大穴から少しだけ顔を出して周囲の様子を見渡した。

 相変わらずの曇天。腐臭は薄く漂っているものの、魔界跡の深部ほどではない。逆を言えば、この空気さえ清浄に感じるほどだ。やっと深呼吸できると少しだけ緊張の緩んだロッドの背で、少し前に目を覚ましていたレティシアが慌てたように彼の服を引いた。


「ロッド! 避けて!」


 引っ張られるままにしゃがむと、危険を察知したらしい飛竜がぐんっと高度を下げる。その真上を物凄い勢いで何かが通り過ぎ、同時に深く抉られた地面の破片がバラバラと頭上に降りかかってきた。


「ひぇぇっ。何だよ、今の」


 二度目がないことを確認してから再度飛竜を上昇させると、目の前の地面がまるで獣の爪跡のように深く抉り取られているのが見えた。その先を追って顔を上げると、薄暗い空に細い漆黒の線を引いて落下していく女の姿があった。

 女の胸から流れ出る漆黒の靄がこちら側へ飛んでくる。焦って再び地中へ潜ろうとするより先に、イルヴァールの炎によって魔物らしき黒い影は跡形もなく焼き尽くされてしまった。


「あれは……アレスの」


 ロッドの背で目を覚ました時、レティシアは彼からいま起こっていることを簡潔に説明された。自分が何かに呼ばれて二人の前から消えたこと。敵が現れたこと。その敵が、アレスの両親であったことも。

 落下していく金髪の女。あれがおそらくアレスの母親なのだろう。体を操っていたものが抜け出した今なら、もしかしたら救えるかもしれない。


「ロッド! 急いで彼女の元へ飛んで下さい!」

「わかった! おい、聞こえただろ? アレスの両親を救うんだ!」


 元気に返事をしたかと思うと、飛竜に進路を丸投げする。ロッドがしたことと言えば手綱をただ握っているだけだったが、それでも二人が乗っているのはアレスの飛竜だ。言葉は交わせずともレティシアたちの意図を読み取って、飛竜は両翼を大きく羽ばたかせて一直線に落下するアシュリアの元へ空を駆けていく。


 風の音に負けないほど強く呪文を唱える。凜としたレティシアの声が響くと同時に、アシュリアの体にやわらかな風の魔法が絡みついた。勢いを増して落下していた体はふわりと宙に浮き上がり、舞い落ちる羽根のように軽やかに地面へと着地する。まさに間一髪だ。


 アシュリアから少し離れたところへ飛竜を下ろし、ロッドに手伝ってもらいながらその背から降りる。急いでアシュリアの元へ駆け付けると、彼女は固く瞼を閉じたまま仰向けに倒れていた。


「ロッド! 彼女は無事ですか!?」

「よくわからない。……でも、息はしてるみたいだ」


 胸から脇腹にかけて斜めに入った傷は深く、けれどその傷口から血は流れていない。彼女の服を濡らすのは、どろりとした闇色の液体だ。

 魔物に堕ちた者は、二度と人の姿には戻れない。その悲しい現実を突き付ける光景に、レティシアが小さく息を呑んだ。


「いま助けます!」


 黒い傷跡に手をかざして、レティシアが治癒魔法を唱えはじめる。人ではない体に魔法がどれだけ効くかわからなかったが、何もせずにはいられなかった。


 再会した両親が敵だと知った時のアレスを思うと、レティシアの胸は痛いくらいに切なく軋む。肉親と袂を分かつことがどんなにつらいか、レティシアにはその気持ちが誰よりもわかるつもりだ。


 感情を抑えて、自然の理に倣い「そうあるべき」だと自分を律して戦うアレスを、レティシアは一番近くで見てきた。その行動に、間違いはないとわかる。魔に堕ちた者は助からない。彼らを救うには安らぎの死しかなく、その役目を彼はいつも一人で背負ってきた。

 その手が、今度は彼の両親にまで向けられている。けれどアレスはきっと、迷いながらも戦うことをやめはしないだろう。


 ――助けてやりたい。

 アレスの両親も、そして誰より、いま一人で戦うアレスの心を。


「私に治癒魔法は必要ないわ」


 やわらかな声がしたかと思うと、傷口にかざしていたレティシアの手が静かに掴まれた。驚いたレティシアの前では、アシュリアが薄く瞼を開いている。


「時の流れから外れた私は、……この世界にいるべきでは、ないから」


 アシュリアの手には、もう人としての体温がない。治癒魔法を中断した傷口からは再びどす黒い体液が溢れ出し、その体から異質な闇が抜け落ちていくたびにアシュリアの肌から色が失われていく。


「でも……このままではあなたが……っ」

「必要ないわ。魔界跡で体を乗っ取られた時に、私もジークも……死んだのよ。その現実を生きてきたからこそ、今のあの子がいるのでしょう?」


 遠く、空の上では、アレスとジークが剣を交えて睨み合っている。愛しいふたつの人影を目にして、アシュリアの顔に淡い微笑みが浮かんだ。


「あの子は道を違えることなく、本当に強くなりましたね。そして素晴らしい仲間に、出会えた。……あの子のそばにいてくれて、ありがとう」


 アシュリアの体から、ぽつぽつと小さな光が溶け出していく。舞い上がる光の綿毛が頬を撫で、レティシアの涙を優しく拭ってくれた。その感触があまりに優しくて、こぼれる涙が止まらない。


 泣いている場合ではないのに。アシュリアの言葉を聞くのは、自分ではなくアレスであるべきなのに。そう思えば思うほどレティシアの胸は軋み、嗚咽をこらえようとしてとうとう項垂れてしまった。

 その頬を包むように、アシュリアの手のひらを感じた。


「泣かないで」


 ぬくもりはおろか、感触さえ既に消え失せているはずなのに、レティシアの頬に触れたアシュリアの手はとてもあたたかい。アシュリアが人として、最期に残した命の熱。


「ごめんなさい。……あなたを、アレスに会わせたかったのに……っ」

「こうして、あなたと話せただけでも十分です。――あなたなんでしょう? あの子が大切に思うのは」


 ことさら優しく頬を撫でて、アシュリアが嬉しそうに笑う。その笑顔は太陽の下に咲く大輪の花のようで、明るく笑うロゼッタにとてもよく似ていた。

 レティシアとロッドを交互に見て、アシュリアが小さく頷く。体はもう半分以上がほどけて、横たわる地面の茶色を薄く透かしている。それでも、声はしっかりと二人の心に刻み込まれた。


「……あの子を頼みます」


 微笑んだまま、アシュリアの手がぱたりと落ちる。その衝撃で脆くなった体が光の粒子となって弾け飛び、レティシアとロッドの肌を優しく撫でながら灰色の空へと舞い上がっていった。


 アシュリアの光は上空のアレスへ届く前に、吹き抜ける冷たい風に攫われてゆっくりと消えていく。体を蝕んでいた闇の体液さえ見る間に風化して、アシュリアがこの地にいたことを示す痕跡は何ひとつ残らない。それが余計に悲しくて、レティシアは涙を止めることができなかった。


 けれど泣きたいのはきっとアレスの方だ。そう自分を叱咤して、レティシアは少し乱暴に涙を拭った。

 その手のひらが、何か硬い小さなものを握っている。


 最期までアシュリアが握りしめていたレティシアの手。その右手の中にいつの間にか握りしめていたもの、それは深い緑色をした小さな石のついた首飾りだった。

 加工などされていない、ただの石だ。それでも深く美しい緑色の石は、きっとアシュリアにとっては愛しい者を重ねた色なのだろう。

 朝露に濡れた深い森を思わせる深緑。安らぎを覚えるその色は、レティシアにとっても愛しい色だ。


 ――アレスを、頼みます。


 吹き抜ける風に、アシュリアの声を聞いたような気がした。


「……はい」


 唯一残されたアシュリアの形見を握りしめて、レティシアは誓いを立てるように空を見上げて強く頷いた。



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