第61話 覚醒

 ずきりと痛むのは幼少期の傷か、それとも心の方か。じくじくと体を蝕む痛みに引きずられ、アレスの脳裏に優しかった父と冷酷なジークの顔が交互に浮かんでは消えていく。


 母アシュリアのために薬草を求めて踏み入った禁忌の森。そこで対峙した魔物は、幼いアレスなど赤子の手を捻るように殺せたはずだ。現にアレスは深手を負い、背中の傷は小さな体にとって致命傷にすら成り得た。


 ――否。

 それは紛れもなく、致命傷だった。

 ならばなぜ、アレスはいまも


 幼い頃に死に別れたはずのジークと再びまみえたことで、曖昧だったアレスの記憶が鮮明に色を取り戻してく。


 病に伏せったアシュリア。

 薬草を求めて単独で入った禁忌の森。

 対峙した魔物と、背中に受けた深い傷。

 死を覚悟したアレスを救ってくれたのはジークだ。朦朧とした意識の中、体を真っ二つに切り裂かれた魔物が炎に包まれて燃えていくのが見える。その半分がただでは死なぬと、アレスを抱えたジークへ捨て身の攻撃を仕掛けたその瞬間――振りかぶったジークの剣を核にして二人を包むが発現した。


『身に余る力はわざわいを呼ぶ』


 そう言ったジークの言葉が、アレスの中に木霊する。

 魔物から身を守った結界魔法も、アレスの背中の傷を塞いだ治癒魔法も。ジークが扱う不思議な術は、アレスも当時はじめて目にする力だった。それはまるでレティシアが紡ぐ魔法のように優しく、美しくて、芯が強い。


 どうして忘れていたのだろう。

 あの時に見たジークの力は、紛れもなく「魔法」だ。龍神界が天界とふたつに分かれた時に失った神秘の術。その背に白い翼はなかったが、ジークもまたアレスと同じように神界人としての力に目覚めていたのだ。

 そしてその力を、ジークはガッシュたち周囲にも秘密にしていた。子であるアレスでさえ魔物に襲われた時に初めて目にし、そしてその記憶をジーク本人に書き換えられていたのだから。


『そんなに凄い力を持っているのに、どうして父さんは力を隠そうとするの?』


 純粋に、そう訊ねた気がする。父のように強くなりたいと、ただ力を求めていたあの頃。幼いアレスでは気付けなかったジークの思いが、今なら記憶によみがえる彼の表情から読み解くことができる。


『大きすぎる力は、使い方を間違えれば身を滅ぼす。力に溺れれば、守りたいと願ったものすら、もしかしたら自分の手で壊してしまうかもしれない』


 そう言って、ジークは困ったように微笑んだ。


『それに俺は、お前たちを守るだけで手一杯だ。しっかりしているようで、目を離すと無茶をするお前から目が離せない』

『……ごめんなさい』


 優しく頭を撫でてくれる大きな手が、アレスの両目を覆う。瞼を通して、何か不可解な紋様が見えたと思ったら、アレスの意識が少しずつ靄に包まれて薄れていく。


『アレス。お前もいつか、この力が目覚めるのかもしれない』


 目を閉じているのに白く感じる意識下で、ジークの優しい声がした。


『その時は、力の使い道を間違えるな。自分の手の届く範囲でいい。大切なものを守るために、力はある。お前にはそういう力の使い方をしてほしい』


 どくんと。背中の傷が、今度は熱を持って疼き出した。

 脈打つ鼓動に急かされて、アレスの中に追想の夢が渦を巻く。ぐるぐると熱くうねるのは血潮のようで、ジークの思いのようで。それは時に鈍い痛みを伴いながら、出口を求めてアレスの体内を所狭しと駆け巡る。


 あまりの痛みに、思わず手にした剣をぎゅっと強く握りしめた。その手のひらから流れ出た力の一部が水のように剣を滑り、清浄な輝きを放つ青銀色の光が剣身を染め上げていく。

 まるでレティシアを思わせるその色合いは、アレスの脳裏に彼女の姿が浮かび上がった。


『アレス……たすけて。……怖い』


 見開いた視界に、どこまでも続く闇が広がっている。腐臭の混じる魔界跡の闇が肌に食い込んで、アレスの腕を黒く侵蝕していた。その束を鷲掴みにして引き抜くと、アレスは激痛に顔を歪めながら手にした剣を両手で強く握りしめた。


『大切なものを守るために力はある。お前にはそういう力の使い方をして欲しい』


 再度響くジークの言葉が、アレスの血を激しく揺り動かした。憧れ、追い求めたアレスの理想。ジークの強い思いの結晶。彼が本当に守りたかったものは――家族だ。

 そしてアレスもまた同じようにレティシアを、そしてジークを救いたいのだと、誰にも負けないほどに強く願う。


「俺は……負けないっ。守るべきものを前に、退くことはできない!」


 剣を握る手が。体を流れる血潮が。髪が、肌が、爪の先までもが熱を持つ。大きく膨らんだ熱は体の隅々へと駆け巡り、やがて引き合うようにただ一点――アレスの背中へと集中する。

 奇しくも魔物から受けた傷跡を上書きするように、アレスの背中から二枚の白い翼が大きく羽ばたいて姿を現した。


 アレスを取り巻く瘴気の闇が、翼から弾き出された光の鱗粉に触れてパキパキと悲鳴を上げながら罅割れていく。ぱらぱらと剥がれ落ちていく闇の向こう、淡い光に照らされて浮かび上がったジークの幻影が笑ったような気がした。



 ***



「人間とは弱いものだな」


 ジークの目の前には、アレスを捕らえた瘴気が生き物のように蠢いていた。その闇の隙間から、逃げ出そうともがくイルヴァールの姿が見える。けれどジークの放った瘴気は神龍の翼に絡みつき、更にはその背に乗るアレスの意識下まで忍び込んで、彼を内側から壊そうとしている。

 かすかに見えるアレスはぐったりと項垂れ、剣を握ってはいるもののその腕を振り上げる力もないようだ。


「これで終わりだ」


 にいっと唇を引いて、ジークが黒い風を纏わせた剣をアレスめがけて振り下ろした。くうを切り裂き、瘴気を真っ二つにして放たれた衝撃波は地上にまで届き、枯れた大地を穿ちながら流れていく。まるで巨大な龍の爪跡のようだ。


 弾け飛んだ瘴気に紛れて、白い羽根が舞っている。けれども、そこにジークの想像していた色彩鮮血は一滴たりともこぼれてはいない。

 怪訝に眉を顰めたその先でイルヴァールが炎を吐く。穢れた体を消し去る炎に身を捩って躱したジークは、そこでイルヴァールの背にアレスがいないことを知った。


「……っ!」


 太陽など出ているはずもないのに、ふっと頭上が翳った気がした。瞬時に身を翻して構えた剣が、悲鳴に似た高い音を上げて啼く。

 ジークの剣に重なるのは、青銀色の輝きを放つ刃。頭上から振り下ろした剣を握るのは、先程までイルヴァールの背で項垂れていたアレスだ。その背には、白い二枚の翼が迷いなく堂々と羽ばたいている。


「その羽は……っ」


 先程の剣戟の比ではない。明らかに質の違うアレスの力に押し負けて、ジークの持つ剣の刃に罅が入る。かと思えば瞬きよりも速く、ジークの剣身が今度こそ真っ二つに折れてしまった。


「アシュリア!」


 折れた剣の半身が、落下しながら淡い光を纏って形を変えていく。薄く尾を引いて流れる帯は鮮血に似ていて、けれどその色は闇を真似た漆黒だ。

 アシュリアを内側から操っていたものの正体。その醜悪な魔物は声にならない悲鳴を上げながら、逃げるように魔界跡の大穴へと飛んでいく。


「イルヴァール!」


 アレスの合図に間を置かず、イルヴァールの猛火が魔物を覆い尽くした。醜い声が響いたのはほんのわずか。一呼吸分にも満たない間に、アシュリアを内側から操っていた魔物が跡形もなく燃え尽きていく。残ったのは、静かに落下していくアシュリアの抜け殻だけだ。


「……アシュリアを、殺したな」

「闇の呪縛から解き放っただけだ」


 青銀色の刃をジークに突き付けたアレスに、もう先程の迷いはかけらもない。ここで終わらせるのだと、確固たる意思が深緑の瞳に浮かんでいる。


「お前は父親である私も、殺せるというのか」

「俺の目指したジークはもういない。お前は人の心を弄ぶ、ただの魔物だ」


 ぎろりとアレスを睨み付けたジークの瞳、その瞳孔が縦に細長く伸びる。過去の夢に囚われることなく、真の力を解放したアレスの前に、もう父親という枷は通用しない。武器も失い、ジークがわずかにアレスから身を退いた。


「ジークの誇りを穢したお前の罪は重い。――覚悟はいいか」


 一切の慈悲もない深緑の瞳を細めて、アレスが青銀色に輝く剣を――一気に振り下ろした。



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