第60話 月の涙鏡

 腐臭と黴の臭いに紛れて、薄く棚引くレティシアの香りを追って、ロッドは暗い地下洞を駆け抜けていた。ライオンに変化したおかげで夜目が利くようになり、灯りがなくとも道の先は見通せた。

 魔界跡の入口からヴァレスのところまでは道標のようにランプが灯っていたが、レティシアを感じて進む道には一切の光がない。辺りに漂う闇の濃さは先程通ってきた道の比ではなく、ロッドを進ませまいと、体に、足に絡みついてのし掛かる。

 まるでこの先に進ませたくないような、そんな気配を漠然と感じた。


 早くレティシアを見つけて、アレスと合流しなければ。そう、ロッドの心が焦る。

 消えたレティシアの安否も心配だが、敵を引き受けたアレスの様子も気になる。アレスと似た容姿のあの男。敵として現れたのは、アレスの両親だ。家族を傀儡として扱われ、あろうことか敵として再会を果たすなど悲劇以外の何でもない。

 兄クラウディスを操られたレティシアには、心の拠り所としてアレスがいた。ならばいまひとりで父親と戦っているアレスには、一体誰がついていてやれるのか。

 直前でイルヴァールとの絆に綻びが見え、レティシアは消えたまま行方がわからない。アレスはいま、ひとりで戦っているも同じだ。


 そんなアレスの痛みを少しでも軽くしてやりたい。その役目が自分でなくとも、彼のそばについてやらねばと、そう強く心に思ってロッドは先の角を左に曲がった。


『ヴァレス』


 角を曲がった瞬間、レティシアではない女の声がした。ロッドの視界から闇が弾き飛ばされ、青白い光に包まれたその先に、ひとりの女が立っている。

 エルティナ、と発したはずの声が、音を持たずにロッドの足元に転がり落ちた。


『愛しいヴァレス』


 エルティナの前に、男が蹲っている。ヴァレスだ。エルティナの亡骸を抱きしめて、声もなく泣いている。


『あなたを永久に苦しめることになってしまった。ごめんなさい』


 すぐそばにいるというのに、エルティナの声はヴァレスにまったく届いていない。涙も、声も。切なる思いも。まるで分厚い壁に、お互いが遮断されているようだ。


『あなたを救いたいのに……わたしはまた、あなたを苦しめてしまう』


 ゆるりと振り返ったエルティナに見つめられたような気がして、ロッドがハッと息を呑んだ。

 周囲を包む青白い光がさざなみのように流れて一箇所に集まり、やがてそれは大きく巨大な光の繭のようにエルティナの姿を覆い隠していく。辺りにはいつの間にか闇が戻っていて、ロッドは角を曲がったところで足を止めて立ち尽くしていた。


『彼を救って。お願い』


 最後の囁きを飲み込んで、青白い光が硬質的な輝きに変化していく。

 舞い戻った魔界跡の地下洞。暗澹あんたんの闇に澱むその最奥に、不釣り合いなほど清浄な輝きを放つ巨大な青白い水晶が聳え立っていた。

 その中にいたのは――。


「……エルティナ!?」


 天井にまで届きそうなほどに巨大な水晶。淡く発光するその中に、エルティナが当時の姿のまま保管されていた。

 その前にぼんやりと佇むレティシアを見つけたものの、どことなく雰囲気の違う様子にロッドの足が二の足を踏んだ。姿も気配もレティシアなのに、獣としての本能が感じる空気が微妙に変化している。一瞬アレスの父のように体を乗っ取られたのかと心配したが、レティシアに絡みつく気配に闇のにおいはしない。


「……レティシア」


 おそるおそる服の裾を噛んで呼びかけると、夢うつつの青い瞳がロッドを見つめ返した。


「ロッド……?」

「大丈夫か?」

「私……どうして」

「急に消えたんだ。匂いを辿って探しに来たら、ここに……」


 水晶とエルティナを危険視する必要はないと判断する。それでもエルティナについて言及することは、何となく躊躇われて。ロッドは歯切れ悪く言葉を切ると、急かすようにレティシアの足を鼻先でつついた。


「早く戻ろう。いまアレスが大変なことに」

「アレス。……そう、アレスもお兄様も……彼は私の大切な人たちを苦しめてしまう。ガルフィアスを滅ぼし、自分の願いを叶えるためだけに世界を滅ぼそうとしている。そんな彼を、許すことはできない。……許してはいけない」

「レティシア……?」


 雰囲気の違うレティシアに、ロッドの心がざわめく。強めに服を引っ張っても、レティシアの視線は水晶のエルティナへと向けられてしまい、もうロッドの声も届いていないようだった。


「それなのに……」


 水晶を見上げたレティシアの瞳が、涙に濡れる。


「ヴァレスを憎むだけでいいのに……どうしてこんなにも悲しいの?」


 頬を伝う涙のしずく。はらりとこぼれ落ち、それは床に落ちる前に鏡へと変わる。カラン……と、金属的な音を響かせてロッドの足元に転がり落ちた鏡は、その鏡面を緩く波立たせて水晶のエルティナを映し出していた。


「……っ!? これって……」


 驚いて顔を上げると、目が合った瞬間にレティシアが意識を失った。


「レティシア!」


 倒れ込む前に、レティシアの体を背に受け止めてやる。何度か声をかけても返事はなく、小さく呼吸する音だけがかすかに届くだけだった。


 結晶石の再封印に必要な、月の涙鏡るいきょう。魔界跡にあるといわれていたそれが、レティシアの涙で具現化した。

 封印の鍵がレティシアの中にあるのなら、最初から魔界跡へ来る必要はなかったのではないか。もしエルティナの体と引き合うことが条件だったとして、ならばなぜ、敵同士であるはずのヴァレスの居城に「鍵」のひとつがあるのか。

 その答えに辿り着くには難しく、ロッドの中には不気味な違和感だけが残った。


 結晶石を守る使命を第一に考えてきたレティシアは、ヴァレスの過去を見ても、どちらかといえば同情より怒りの方が強かった気がする。気持ちがわかると言ったアレスに食ってかかったほどだ。

 そのレティシアが、ヴァレスに対して「悲しい」と呟いた。その思いは間違いではないし、どちらかと言えばロッドもヴァレスに対して同情する思いも確かにある。けれどレティシアの悲しみは、どちらかと言えば当事者に近い響きがあった。直前で頭に入り込んできた、エルティナの幻影に引きずられているのかもしれないが――レティシアの悲しみはエルティナのそれとひどく似通っている。


『愛しいヴァレス。あなたを救いたいのに……苦しめてしまう』

『どうしてこんなにも悲しいの?』


 レティシアの涙が形取った月の涙鏡るいきょう。どうしてだか、一刻も早くこの場からレティシアを連れ出さなければならないと、そう理由のわからない焦燥感に襲われた。

 見上げた水晶の中、眠っているようにしか見えないエルティナの体がそこにある。保管されているだけの体が動くことはなかったが、青白い水晶の光が語りかけてくるようで、ロッドは全身の毛を逆立てて大きく身震いした。


「レティシア。戻ろう……アレスのところへ」


 囁いて、ロッドは月の涙鏡るいきょうを咥える。レティシアが戻るべき場所はアレスの隣だと、そう誰に示すわけでもなく。ただ願いのように強く思いながら、ロッドは魔界跡の入口を目指して一目散に駆け出した。

 水晶に保管されたエルティナを振り返ることはしない。過去ではなく未来を進むために、ロッドはただひたすら闇の中を入口光の方へ突き進んでいった。


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