第59話 親子の再会
どんな時も感情に流されず、冷静に状況を見極めろ。そう教えてくれた人が、目の前にいる。ひとつに結んだ長い髪は年月を感じさせない茶色のまま、アレスを見つめる深緑色の瞳には恐ろしいほどの殺気を孕んで。情のかけらもない冷酷な相貌を、ただアレスに向けていた。
「……ジーク」
小刻みに震える手のせいで、握った剣がおかしいくらいに揺れている。幻覚でも見ているのかと瞼を強く押さえても、視界に映る光景は何も変わることはなかった。
ヴァレスの座る王座。その両脇に佇むふたつの影を知っている。どれだけ時が過ぎようと、その面影を忘れたことは一度もない。
深緑色の瞳をしたジークと、金色の巻き毛のアシュリア。幼い頃に死に別れたはずの両親が、記憶に残る最後の姿のままでそこにいた。
「……アレス。大丈夫か?」
目の前の二人の姿を見て、ロッドも思うところがあったのだろう。アレスを気遣って声をかけてはきたが、それ以上追求してくることはなかった。
「ヴァレスによって、闇に従属させられたか」
背後でイルヴァールが呟くのを、アレスはわき上がる怒り抑えながら聞いていた。
天界王クラウディスはその身を乗っ取られ、衛兵のエミリオは命を歪められた。直接的な関わりではなかったが、ガルフィアスの女王エレインが生きるために縋ったのも闇だ。
彼らの残酷な末路の影には、いつも闇に潜む魔物がいる。命を弄び、生きたいと、救いたいと叫ぶ願いを蹂躙して嘲笑う。その声なき笑いが聞こえた気がして、アレスは強く頭を振りかぶった。
「相変わらず、お前のやり方には反吐が出る」
座ったままのヴァレスへ、あるいは姿の見えない魔物へ向けて。感情をできるだけ抑えて、低く押し殺した声を吐き出した。
「ロッド。……レティシアを、頼めるか?」
眼前のジークを見据えたままそう言うと、背後でロッドが低く喉を鳴らした。
「任せろ」
「レティシアを見つけたら、そのまま飛竜で脱出しろ。俺たちのことは構うな」
「わかった。……でも、アレス。無理するなよ」
それには答えず、アレスは手にした剣をぎゅっと握りしめる。目の前に敵として現れているのは親であり、剣の師でもあるジークだ。自分の腕が正直どこまで通用するのかわからなかったが、それでも逃げるという選択肢はアレスの中にはない。
死者の眠りを冒涜する魔物を、許せるはずがなかった。死してなお望まぬ命令に体だけが使われているのなら、その
「行かせると思うのか?」
ジークが右手を横に上げると、その手を握ったアシュリアの体が白い光に包まれる。ぼんやりと霞む光の中で輪郭を崩したアシュリアは細長く形を変え、瞬きひとつ分の間にジークの右手に収まる一本の剣へと変化した。
その光景にアレスが目を
「行けっ!」
アレスの声に、ロッドが身を翻して通路の奥へ駆け出した。その背を守るように割り込んだアレスの剣が、高い音を立ててジークの剣とぶつかり合う。交差した刃の向こう、重なる瞳は同じ色であるというのに、ジークの深緑は死んだ森のように生気がない。
「私の剣から逃れられた者はいない」
「なら俺たちがその最初だな」
「勝てると思っているのか? 愚かな夢を見る。お前も、あの獣も消えた女も……その命、ヴァレス様へ捧げてもらおう」
体を乗っ取られているとわかっていても、ジークの口から発せられる言葉にアレスの体は否応なしに反応してしまう。その一瞬の隙を突かれ、アレスの腹にジークの蹴りが食い込んだ。
「アレス!」
およそ人の蹴りとは思えないほど、アレスの体が勢いよく後ろへ吹き飛ばされた。壁に激突する手前でイルヴァールの体に受け止められ難を逃れたが、胃からせり上がるものの中にはわずかに血が混じっていた。
一撃でこの衝撃。しかも人ならざる力が働いているのは間違いない。アシュリアを剣に変えた術も、手合わせた時に感じた冷たい力も、どちらも黒く
「臆するな。あれはおぬしの父親ではない」
「……わかっているっ」
剣を突き立てて立ち上がると、その足元に不気味な赤に煌めく魔法陣が敷かれていた。ハッとしてジークを見ると、彼の足元にも同じものが現れている。
「この場は戦いには不向きだ。それにヴァレス様の体を傷つけるわけにはいかない」
バチバチと赤黒い火花を散らした剣を、ジークが魔法陣に深々と突き刺した。空気を割る音が響き、同時にアレスとイルヴァールを囲む魔法陣にも鋭い火花が散る。
肌を貫く無数の針に似た痛みに目を
「アレス!」
投げ出された足元に、イルヴァールの声がする。はっとして瞼を開けると、地下とは思えない明るさに目を
風を切る音が鼓膜に響き、閉じた瞼の裏側に光を感じる。そこでアレスは、自分が上空から落下していることを知った。
「空も飛べないとは、人の体は不便だな」
視界がふっと翳ったかと思うと、剣を振り上げたジークが重力を味方に降下してくるのが見えた。その剣が振り下ろされるより先にイルヴァールの炎が空気を焦がし、灰色の空を赤く染め上げる。
アレスに向けた剣の軌道を瞬時に変えたジークの姿が、イルヴァールの炎の壁にかき消されていく。その隙にイルヴァールの背に拾われ、アレスはジークから距離を取って更に上空へと駆け上がった。
見下ろす視界に、死んだ大地と瘴気を撒き散らす暗黒の大穴がある。ジークの魔法陣によって、アレスたちは魔界跡の上空へと弾き出されていた。
ここでなら地下洞を破壊せず、存分に戦えると踏んだのだろう。ジークの思惑を知ると同時に、彼が守ろうとしているものが魔界跡であることにアレスの胸が激しく軋んだ。
「……悪い、助かった」
「呆けている暇はないぞ」
イルヴァールの言葉通り、炎を振り払ったジークが鋭い眼差しでアレスを見上げている。寸前でジークが炎の盾にと展開した魔法陣が、黒焦げになってぼろぼろと崩れ落ちていくのが見えた。
それでも防ぎきれなかった炎によって、ジークの左腕が赤黒く焼け爛れている。見え隠れする白い骨に闇の触手が絡みつき、瞬時にジークの腕を再生した。その様を目の当たりにして、アレスは彼の体が完全に闇に堕ちている現実を突き付けられてしまった。
ヴァレスと同じ黒魔法を操り、翼もないのに空を飛ぶ。敵に対して向けられる眼差しはどこまでも冷たく、父親としての彼しか知らないアレスにとって、対峙するジークの姿はただただ不快で、恐ろしく、そして愚かにも――懐かしい。
「……っ」
わかっている。頭では嫌と言うほどわかっているのだ。目の前にいるのは父親ではなく、その姿を借りただけの魔物だということを。闇に捕らわれたジークを救うために剣を振るうしかない現実も、受け入れているはずだった。
なのに実際に剣を交えて、アレスは自分の中にある迷いに気付いてしまった。
もしかしたら、どこかにまだ彼の意識が残っているのかもしれない。扱う力も、感じる魔力も、体さえもう人として存在していないのに。愚かにも、心はまだ生きているかもしれないと……生きていて欲しいと願ってしまった。
『救いたいのなら、殺すべきだ』
以前、レティシアに告げた言葉がそのまま自分に降りかかっている。人には冷酷に現実を突き付けるくせに、自分が同じ立場になれば向かってくる敵に対して剣を振り上げることもできない。
激しい怒りと絶望。胸を裂かれるほどの強烈な思いに、アレスは叫びだしそうになる自分を、唇を強く噛み締めることで必死に耐えた。
「力の差もわからないとは、愚かで哀れだな。どんな時も感情に流されず冷静になれと、教えたはずだったが……忘れたか? アレス」
「……っ! お前は……っ、お前は俺を覚えているのか!?」
何度目かの剣を交えた後、ジークがその瞳をかすかに和らげてアレスを見つめてきた。薄く唇を引いて笑う顔にまで父の面影を乗せてくるジークに、アレスは驚愕したまま息をするのも忘れて目を
「忘れたとはおかしなことを言う。息子の顔を忘れるはずがないだろう」
「でもお前は……っ」
「その背中に残る傷跡も、初めて飛竜に乗った時の笑顔も全部覚えている。最後に別れた日の、さみしそうな眼差しもな」
指摘され、アレスの背中がずきりと痛んだ。もう痛みなどないはずなのに、幼少期の記憶がジークの言葉に揺り起こされ、魔物の咆哮が鼓膜までもを震わせる。
母であるアシュリアが病気で臥せった時、アレスは薬草を求めて危険区域と呼ばれる森の中へ侵入した。同世代の子らより飛竜に乗るのも早かったし、ジークに稽古もつけてもらっていたので剣の扱いにも自信があった。
だが、所詮は腕力の弱い子供だ。対峙した魔物にアレスはあっけなく敗れ、背中に深い傷を負ってしまった。
絶体絶命の危機を救ってくれたのは父ジークであり、その時の記憶は強い安心感と共に今でもアレスの奥底に大切にしまわれている。
アレスでは歯が立たなかった魔物を一撃で仕留めた強さ。絶対に守るのだと無言で語るジークの背中。自分の力を過信したアレスを叱り、けれど他者を守るために行動した思いは認めてくれた。あのとき頭を撫でてくれた手の温かさまで、目を閉じれば鮮明によみがえる。
父として、ひとりの男として、ジークは昔からアレスの目指す生き方の指標だ。
『力にのまれるな、アレス』
かつてそう諭したジークが、記憶の中で薄くぼやけて崩れていく。
愕然と見開いた深緑の瞳に映る彼がどちらなのか、アレスにはもうわからなかった。
「……力にのまれたのは、お前の方だったのか」
感傷に歪む視界、ジークの姿が幼少期に見た憧れと重なり合う。それでも彼はもう違うのだと自分を叱咤して、アレスは揺れ動く心を振り切るように強く頭を横に振った。
「アレス」
鼓膜を震わせる懐かしい父の声にハッと顔を上げた瞬間。
父の面影をかき消して笑うジークの姿を最後に、アレスの視界は彼から放たれた瘴気によって完全に闇に捕らわれてしまった。
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