第58話 拭えない違和感

 どくん、どくんと。

 強く、太く、誰のものかもわからない鼓動が鳴り響いている。


 ざわめく木の根――いや、それはもはや植物と呼ぶにはあまりにも異質だ。まるで太い血管のように、管の中を何かが流れている。膨らんで、萎んで。そうやって鼓動を真似た太い管が、ばらばらに激しく脈打っている。そのせいで広間全体が大きく揺れ動き、まともに立つこともできないほどだ。


 脈打ち、さざめいてこすれ合う音に紛れて、声が聞こえたような気がした。震える空気が悲鳴を模して振動しているのだ。

 鼓膜を震わすのは言葉とは呼べないほどの音の洪水。まるで負の感情を凝縮したような叫びに意識を吹き飛ばされそうになったアレスが、握りしめていた剣の刃で自身の手のひらを浅く切りつけた。


「……っ」


 鋭い痛みに、意識が覚醒する。それでもなお無遠慮に踏み込んでくる呪いの声は、頭を強く振ることで弾き飛ばした。


「レティシアっ!」


 慌てて振り返った先に、レティシアが両耳を塞いで蹲っていた。再度強く名を呼ぶと、小さな肩がぴくりと震える。お互いの視線が重なり合った瞬間、レティシアの青い瞳から大粒の涙がはらりとこぼれ落ちた。


「アレス……っ」


 怯えた子供のように、レティシアがアレスへ手を伸ばした。その指先が――ふっと光にほどける。


「アレス……たすけて。……怖い」


 掴んだはずの指先が、くうを切った。その先でおぼろげに輪郭を崩していくレティシアが、青い瞳の色までなくしていく。それでも必死に駆け寄ってアレスの腕に飛び込んできたかと思うと、その衝撃でレティシアの体は幾つもの光の綿毛になって辺り一面にふわりと舞い散って消えてしまった。


「レティシアっ!」


 レティシアが消えた瞬間、それまで空気を震わせてざわめいていた壁の鼓動がぴたりと止んだ。恐ろしいほどに不自然な静寂。まるでレティシアを手に入れたことで、この地が満足したかのようだ。


「レティシア……っ、くそ!」


 もう目の前で失うのはごめんだと、強くそう思っていたのに。あんなにも怯えたレティシアが、助けを求めて伸ばした手に触れることすらできなかった。

 また、間に合わなかった。神界人としての力を手に入れたところで、レティシアを救えなければアレスは無力と同じだ。

 爪が食い込むほどに強く拳を握れば、剣で切り裂いた手のひらに鋭い痛みが走る。それを戒めとして傷口を抉ることで感情を律し、アレスは怒りに飲み込まれないよう心を強く抑え込んだ。


「レティシアを探してくる。ロッドとイルヴァールは月の涙鏡るいきょうを探してくれ」


 返事も待たずに走り出す。向かうべき場所も何もわからないが、じっとなどしていられない。レティシアが消えたあの感じ、光にほどける様子は、獣人界で見たあの夜の光景と似ていた。それが尚更、アレスの心に不安を呼ぶ。


「待て、アレス。ここは広く、複雑に入り組んでいる。闇雲に探してもレティシアは見つけられぬ」

「でも、イルヴァール。レティシアは翼をヴァレスに狩られてる。もしかしたら奴の仕業かもしれないし、そうだったらレティシアが危ないぞ。アレス、やっぱり俺らも手分けして探した方が……」

「いや。……月の涙鏡るいきょうを探せ。そこにレティシアはいるはずだ」


 不自然なほどに落ち着いたイルヴァールの声が、さっきとは違う意味で広間に静寂をもたらした。不可解に眉を顰めて足を止めるアレスと、ロッドでさえかすかな違和感を覚えてイルヴァールを胡乱げに見つめている。


「なぜ、そう言い切れる?」


 心の奥で燻り続けていた疑問が、また「形」を伴わないまま膨らんでいく。月下大戦を生き抜いた三人の目覚めと、時を同じくして封印が解ける月の結晶石。アレスたちの知らないところで、何か別の思惑が動いているようだ。


「イルヴァール。龍のゆりかごで目覚めたとき、お前は時が来たと言ったな。あそこが俺の分岐点だとも」

「……そうだな」

「ずっと、拭えない違和感がある。微睡みの蒼湖水エルスフォーリアから、俺たちは何かに……いや、誰かに導かれているような気がする」


 精霊王に「時が来るまで守れ」と伝え残していた龍のゆりかご。その中で眠っていたイルヴァールを起こしたのは、紛れもなくアレスの意思だ。けれどその後のラスティーンの目覚めから今に至るまでは、十分な考えも及ばないほど時間に急かされているようだ。

 レティシアの翼が切られたことも、神界人としての力が目覚めたことも、結晶石を再度封印するために魔界跡を訪れたことも。誰かが仕組んでいるとは思えないが、偶然で片付けるにはあまりにも出来すぎている。


「その道を選ばせているのは……お前なのか?」


 咎めるでもなく、ただ知りたいのだと、深緑の瞳をまっすぐにイルヴァールへと向ける。視線が交わったのは一瞬で、先に逸らしたのはイルヴァールの方だった。


「お前は俺をあるじだと認めてくれた。なら、隠さずに言ってくれ。お前は何を知っているんだ?」


 美しく澄んだ、それでいて強い意思を秘めた瞳だった。レティシアも世界も守るという一貫して揺るがない思いに、イルヴァール自身も突き動かされて目を覚ましたはずだ。

 ヴァレスに似ていて、ヴァレスとは違う道を歩むのではないかと期待させる。アレスの進む道に希望を賭けて、イルヴァールもここまで共に来たのだ。


 アレスもイルヴァールも願う先は同じ、こと。それがいま、複雑に絡み合い自由を奪っていることに、イルヴァールはただ静かに目を伏せるしかなかった。


「わしは……それに答えることを許されてはおらぬ」

あるじの俺が答えろと言ってもか」


 アレスの追求から逃れるように、先程からイルヴァールは視線を合わせない。あるじであるアレスの命令を無視して無言を貫くということは、裏を返せばイルヴァールはまだ「誰か」の命令に縛られているのだ。

 その誰かとは、考えなくてもわかる。


「そうか。……お前の中にはまだ、ラスティーンとの契約が残っているんだな」

「アレス。わしは……」

「もういい。わかった。あとはラスティーンに直接聞く」


 押し問答をしている暇はない。イルヴァールのことも、何かを知っているであろうラスティーンのことも気になるが、いま優先すべきはレティシアだ。イルヴァールと話し合うのはその後でいい。


「アレス。俺、レティシアの場所わかるかもしれない」


 二人の会話が終わるのを待っていたロッドが、そう言うなり白いライオンへと変化した。


「うん。やっぱり……かすかにレティシアの匂いがする。瘴気の臭いも凄いけど……おぇっぷ」


 獣人化したことでより嗅覚が敏感になったのか、漂う瘴気の悪臭にロッドが舌を出して嘔吐えずいている。


「大丈夫なのか?」

「平気平気……っぷ。悪臭のおかげで、レティシアの薄い匂いがより鮮明になってる。レティシアは多分こっちにいるはずだ。乗るか?」

「お前が大丈夫なら……。イルヴァール、お前もさっきみたいに小型化しろ」


 そう言ってアレスが自分の肩を指差した。イルヴァールについて疑問に思うことはあるが、彼との関係を解消する気はないのだ。そう答えるつもりで見つめると、やがて根負けしたように緩く首を振ったイルヴァールが翼をゆるりと左右に広げた。

 その羽ばたきに重なるようにして、空気を揺らす低い男の声がした。


「この地は死と絶望が支配する魔界跡ヘルズゲート。命ある者は等しく闇に屠られる」


 誰のものでもない声に瞬時に身構えて振り返った先――ヴァレスの座る王座の両脇に、いつの間にかふたつの人影が佇んでいた。

 ゆらりと流れる、ひとつに結んだ茶色の髪。重なり合った深緑の、同じ色をした双眸に、剣を握るアレスの手が制御できずにかたかたと震える。


「魔界の守護者たる私の剣で、その命――貰い受ける」


 感情の見えない静かな声でそう告げた男は、アレスそっくりの姿で静かにこちらを見つめていた。



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