第57話 無言の王座

 水晶のランプに照らされた人の像は、通路の奥にまで続いているようだった。ここからはよく見えないが、奥の方に残された像の方がより異形化が進んでいる。その姿は、天界から逃げてきた衛兵エミリオの変貌を彷彿とさせた。


「彼らはもしかして……」


 青ざめた顔で口元を覆うレティシアに、アレスの肩から飛び立ったイルヴァールが壁に近付いて石像をじっくりと観察する。その羽ばたきの振動に、また石像の一部が脆く崩れ落ちた。


「シュレイクの者たちであろうな。……ヴァレスが魔界王として誕生した夜、奴の憎悪に反応して地下洞の奥にある結界が崩壊した。そこから溢れ出した瘴気に飲まれ、このような姿に変貌したのかもしれぬ」

「そんな……」


 直接体験したわけでもないのに、あの惨劇の夜は今も強くレティシアの心の奥に深い傷跡として残っている。それほどまでに強烈な記憶として刻まれた悲劇を、シュレイクの人々はその身をもって体験しているのだ。

 バルザックの脅威に加えて、溢れ出した闇の瘴気。逃げ場などないに等しい狭い通路を、彼らは一体どれほどの恐怖を抱えて走り抜けていったのだろう。それを思うと、レティシアの視界が熱く歪んだ。


「あるいは死んでしまった仲間をよみがえらせるため、ヴァレスが黒魔法を使ったとも考えられる」

「魔物に変えてまで、か?」

「奴はすべてを失った。拠り所を欲するのは致し方あるまい」


 幼い頃に両親を亡くしたアレスにとっても、その気持ちがわからないわけではない。けれどアレスには守るべきロゼッタがいて、守ってくれるガッシュたちがいた。

 もしも自分がヴァレスと同じ境遇で世界から見離されたとして、失った者たちを魔物化してまでそばに置きたいと思うだろうか。明確な答えは出せなかったが、それが間違っていることは世界のことわりからも十分に理解できた。


「な、なぁ……もう行こうぜ? 何だかここは落ち着かない。……見られてるみたいだ」


 両腕をさすりながら、ロッドが背を丸めてアレスへと近寄ってくる。アレスよりも強靱な体躯を持つくせに、怯えた表情を浮かべて眉を下げる様子はまるで気弱な大型犬のようだ。

 けれどロッドの言わんとすることもわかる。この地に流れる空気は、重すぎる。


「そうだな。早く月の涙鏡るいきょうを見つけて戻ろう。長居は無用だ」


 目的は月の涙鏡るいきょうだ。どこにあるかはわからないが、魔界跡へ行けばそれは自ずと見つかるだろうとラスティーンは夢で語りかけてきた。今はまだそれらしい気配は感じないが、少なくともこの通路にはないだろう。

 再び進み始めたアレスにレティシアたちが続く中、イルヴァールは少し遅れて壁から離れた。かと思うと、もう一度背後の石像へ目を向ける。


「……おぬしらは……ヴァレスを救いたいと願うのか?」


 その言葉に応えるように、壁に埋め込まれた人の像が一斉にざぁっと崩れ落ちた。



 ***



 奥へ続く薄暗い通路と、闇を照らす水晶のランプ。幾つか枝分かれしていた通路を、アレスたちは水晶のランプが灯っている道だけを選んで進んできた。明かりに誘われる虫のようだと思いはしたが、手がかりがない状態では水晶のランプが唯一の道標であることに違いはない。

 警戒だけは怠らず、無言で進んだ通路の先に――それは突然現れた。


 地下神殿かと思うほどに開けた場所。床は剥き出しの岩盤ではなく、灰色に光沢を放つ滑らかな石を敷き詰めている。その石床をまっすぐに伸びる漆黒の絨毯は、まるで闇を織り上げて作られたように、見ているだけで吸い込まれそうな感じがした。

 壁には太い木の根のようなものがびっしりと張り付いている。ラスティーンが眠っていた天界の地下の様子と似ていたが、満ちる空気はまるで違う。通路で感じていたものよりもはるかに重く、気を抜けば意識を奪われてしまいそうなほどの、目には見えない瘴気が充満していた。


 壁に掛かった水晶のランプが、ちかちかと揺れている。その明かりに照らされて、漆黒の絨毯が伸びた先――ぽつんと置かれた椅子の上に、真紅を纏う男がひとり座っていた。


「……っ、ヴァレス!」


 息を呑み、誰もがぎくりと体を震わせた。その中でアレスだけがいち早く動いて、レティシアを自分の背に隠すようにして剣を構えた。


「な、なんでここにいるんだよ。あいつはクラウディスの姿をして天界にいるんじゃないのか?」


 床よりも一段高くなったその場所に置かれた椅子――王座に座っているヴァレスは、こちらの様子にはまったくの無反応だ。眠っているのか、頭すら前に傾いている。そのせいで顔は見えなかったが、ぼろぼろに焼け焦げた服とそこから滑り落ちた腕には黒く歪んだ火傷の痕が残されていた。


「慌てるな。あれはヴァレスの抜け殻だ」


 静かに呟いて、イルヴァールがアレスの肩から飛び立った。そのまま魔法を解いて体を元の大きさに戻すと、首を伸ばして壁や床を注意深く観察する。


「ここに奴の魂はない。月下大戦で傷付いた体を、ここで癒やしていたのだろう」


 鼻先で示された方を見ると、ヴァレスの体には天井から垂れ下がった太い管のようなものがいくつも張り付いていた。その様子もラスティーンの姿を思い出させる。あの管のようなものは、大地に満ちる生気を吸収する役割でもあるのだろうか。

 けれど今もなお身体を動かせないということは、やはり神龍の炎はヴァレスを滅ぼせないにしても効果は十分にあったようだ。


「生気を奪い尽くしても、奴の体は癒えなかったということか」

「ここに来るまでに見たであろう。あれほど広大な大地の生気を奪っても、体を自由に動かせるだけの力は戻らなかったようだ。――だから、代わりを欲したのだろう」

「……っ。それが、お兄様なのですね」


 ヴァレスの体に張り付いた管からは、もう何の力も流れていない。奪える生気がなくなったところに、魔界跡を訪れたクラウディスを新たな体として乗っ取ったのだ。

 血まみれで帰還したその時からヴァレスだったのだと思えば、レティシアの体が過ぎ去った恐怖にまた震えた。


「一応、この部屋調べてみるか? ヴァレスがいるってことは、月の涙鏡るいきょうもここに隠されてるかもしれないしな」

「そうだが……ロッド。お前は余計なものに触れないよう、気をつけろよ」

「何だよ、信用ないな」

「当たり前だ」


 王座の方は避けて、とりあえず壁に張り付いた木の根を掻きわけてみることにする。広い空間なので手分けして探してみたが、それらしいものは何も見つけることができなかった。


「何もないな。他にありそうな場所って言ったら……」


 ロッドが視線を向ける先には、王座に座ったままのヴァレスがいる。確かに一番怪しい場所ではあるが、だからこそレティシアを近付けたくないとも思ってしまう。


「レティシアは、ここでイルヴァールと……」


 待っていてくれ、と。そう告げようとして振り返ったアレスが、ぎくりと体を震わせて目をみはった。


 レティシアが、泣いていた。

 ヴァレスをじっと見つめたまま、悲しげに眉を寄せて涙を流していた。


「レティシア」

「……え? わたし……泣いて……?」


 泣いていたことに自覚がないのか、レティシアは頬を伝う涙を拭いながら不可解な表情を浮かべている。意識ははっきりしているのに、感情が自分の意思とは裏腹に現れている、そんな感じだ。


「私……どうして」

「大丈夫か?」

「アレス……私」


 怯えるレティシアの声を遮って、今度はロッドの驚愕した声が響き渡った。


「うわ! アレス、レティシア、ちょっとこっち来てくれ。何かヤバそう……っ」

「……っ、またお前は! 今度は何をしでかしたんだ!」


 怯える様子のレティシアにもう少しついてやりたかったが、焦るロッドも放ってはおけない。苛立ちを隠せずに思わず舌打ちして振り返ると、「俺じゃない」と首を横に振って否定するロッドがヴァレスの方を指差していた。


「ヴァレスが……泣いてる」

「……何だと?」


 項垂れたままのヴァレスを横から覗き込むと、確かに閉じた瞼を押し上げて涙の雫がこぼれ落ちていた。青白い頬を滑り、ぼろぼろに焼け焦げた服を濡らして染みを作っている。恐る恐る指先で掬った涙は、予想に反して驚くほどに熱かった。


 とうに棄て去ったはずの抜け殻に宿る、命の熱。流れるはずのない涙の意味を想像して、アレスがぎくりと体を震わせた。


「体はまだ……生きているのか……っ!?」


 思わずそう呟いた瞬間。

 アレスの言葉を肯定するかのように、壁に張り巡らされていた木の根が一斉に脈打ちはじめた。


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