第7章 受け継がれる力

第56話 魔界跡ヘルズゲートへ

 そこに時の流れはなかった。


 見渡す限りの、枯れ果てた大地。罅割れた地面を転がるのは小石だけで、雑草のひとつも生えていない。世界から切り離され、時を刻むことも命を育むことも忘れた土地は、陰鬱とした闇だけを抱いて一万年前から変わらずそこにあった。


 空を覆う暗雲。暗い土地を慰めるように降り注ぐ、ガラスの破片にも似た鋭い雪片。嘆き叫ぶ声に振り向けば、それは死せる大地を吹き抜けていく風の音だった。


「なんてさみしい場所なの」


 イルヴァールの背上から見下ろした大地に、レティシアは思わず声を漏らした。

 龍神界から旅立って、レティシアは世界を彩る鮮やかな景色を目にしてきた。大地を癒やし潤す自然の緑や、隠された精霊界の静謐の蒼。多くの人が暮らす雑然とした街でさえ、活気溢れる美しい色に彩られていたというのに。

 いま目の前に広がる景色からは、何の色も生まれていない。足を踏み入れれば、こちらがすべて吸い込まれてしまうのではないか。そう錯覚してしまうほどに、この地は命というものが枯渇していた。


 魔界跡ヘルズゲート。

 一万年の時を経ても今なお濃く残る、月下大戦の傷跡。


「ここに命は生まれない。シュレイクであった頃から、この地は多くの血と悲しみを吸いすぎたのだ」


 ゆるりと向きを変えて、イルヴァールが六枚の翼を大きく羽ばたかせた。上昇したことで広がった視界の先、枯れた大地をどす黒い瘴気で埋め尽くす場所が見える。空にまで漂う瘴気は、まるで救いを求めて伸ばされた無数の腕のようだ。


 溢れ出す瘴気を、イルヴァールの炎が一掃する。その先に姿を現したのは、大地を深く穿うがつ巨大な大穴。よどむ闇に遮られ、底はおろか入口付近の内部さえまったく見えない。終わりなき深淵、あるいは黄泉へと続く死出の旅を彷彿とさせた。


「行くぞ。ロッドも、わしから離れるな」


 ゆっくりと降下していくイルヴァールの姿が、瘴気の黒にじわりと覆い隠されていく。その姿を見失う前にと、アレスの飛竜に乗ったロッドも慌てて後を追い、地底深くへと進んでいった。



 ***



 底の見えない深淵をどこまでも降りていく。周囲は闇に沈んで見えなかったが、かすかに発光するイルヴァールの体のおかげで進むべき道を迷うことはない。光は淡く滲んでいるものの、どこまでも濃い闇の中ではその弱い光だけが唯一の救いだ。


 温度はぐっと低くなり、指先の熱が奪われていく。空気は重くのし掛かり、呼吸すら気怠く思えてしまう。降りるたびに濃度を増す闇は、内包した負の感情をも濃くさせるようで、この場にはいない誰かの叫びが幻聴として耳に届いてしまうほどだ。


『いやだ……、死にたくない』

『どうして私たちがこんな目に……』

『痛い』

『憎い』

『許さない』


 ガルフィアスの比ではない。途切れることなく押し寄せる怨嗟の声に、レティシアはたまらず両耳を塞いでしまった。それでも声は少しも弱まることなく、それはより強く、鋭く、レティシアの中に木霊していく。

 共鳴しているのは、レティシアの中にある月の結晶石ではない。彼らの声に強く心を揺さぶられているのは、レティシア本人だ。


『たすけて』

『くるしい』

『かなしい』


『いとおしい』


 聞こえてくる声が変わったことに、はっと顔を上げた瞬間。レティシアの体が、背後からやわらかなぬくもりに抱きしめられた。


 ――エルティナ。


 鼓膜を震わせる声音に、ぎくりと体が震えた。吐息を感じたかと思えば、耳朶の形を確かめるようにくちびるが寄せられる。体を抱きしめる腕に力を込められ、更に強く背後へと引き寄せられたような気がした。


「レティシア? どうした?」


 アレスの声が聞こえた瞬間、レティシアの体に纏わり付いていた幻影が霧散した。いつの間にか最深部まで辿り着いていたようで、イルヴァールは既に足場の悪い岩の地面に着地している。


「ごめんなさい。何でもありません」


 闇の方へ引き摺られていた意識を戻し、レティシアは周囲の様子を見回してみた。辺りは相変わらず真っ暗で、右も左も分からない。ただ降り立ったこの場所は、二頭の飛竜が着地できるほどの広さがあるようだ。

 イルヴァールがその場で大きく翼を羽ばたかせると、羽根から舞い散った燐光が闇を端へと追いやった。その一瞬に見えたのは、ここから先に伸びるひとつの横穴だ。イルヴァールの光さえ受け付けない漆黒が、更に奥へと続いている。


 このまま飛んでいけないほどではないが、何かあったとき素早く動けるような広さはなさそうだ。イルヴァールもそう判断し、一旦背中からレティシアたちに降りるよう促した。


「仕方ないが、ここから先は歩きだな。ロッド、おぬしも降りろ。アレスの飛竜はここに置いていく」

「え!? こんなとこにひとりでか?」

「結界を張っておく。それに帰る場所にこやつがいれば、おぬしもアレスも気配を辿ってここへ戻れるだろう」


 確認するように青い目を向けられ、アレスは束の間逡巡したあと静かに頷いた。飛竜に近付き、その深緑の体を労るように撫でてやると、少しだけさみしげに喉を鳴らした彼が額をアレスにすり寄せてくる。


「何かあれば、すぐに地上へ避難しろ」

「クルゥゥ……」

「俺たちなら大丈夫だ」


 イルヴァールの張った結界の中、魔法陣からはみ出さないように飛竜は翼をたたんで腰を下ろした。アレスの目には映らないが、その結界とやらは飛竜をすっぽりと覆う形のものなのだろう。飛竜は何もない頭上を、首を巡らせて気にしている。


「アレスの飛竜を置いていくってことは、イルヴァールもここに残るのか? その体じゃ、先に進むことも難しいんだろ?」

「心配するな、ロッド。わしはしばらくアレスに乗せてもらうことにする」


 そう言うが早いか、イルヴァールの体が光に包まれた。かと思えば、みるみるうちに縮んでいく。あっという間に猫ほどの大きさに変化したイルヴァールが、小さな翼をぱたぱたと動かしてアレスの肩にとまった。


「うぉ! 何だこれ、かわいいな!」


 普段はどっしりと威圧感のあるイルヴァールも、小さな姿では愛らしさの方が勝ってしまう。小さな生き物特有の庇護欲も掻き立てられ、ロッドではないがレティシアもあまりの可愛さに思わず頬が緩んでしまった。


「おぬしは本当に緊張感がないな。……まぁ、その明るさが今だけは救いかもしれん」

「そうだな」


 呆れるイルヴァールに、アレスも苦笑しながら肯定する。思わぬところで場の空気が和んでしまったが、ここから先が本当の魔界跡ヘルズゲートだ。緩みかけた気持ちを引き締めて、アレスは先陣を切りヘルズゲートの闇へと足を踏み入れていった。


 少し進むと、真っ暗だった通路の両脇にぼんやりと光が灯るのが見えた。近付くことで、それが岩壁に取り付けられた水晶のランプだということがわかる。時々ちかちかと点滅しながら辺りを暖色に照らす水晶のランプに、レティシアたちは見覚えがあった。

 龍のゆりかご。イルヴァールの夢の中で見たエルティナが、それとまったく同じものを取り付けていたことを思い出す。


「これは……」

「驚いたな。一万年以上も経っているのに、まだ機能しているのか」


 エルティナの魔法が残っているからなのか、それともこの地が魔界となってからヴァレスが魔力を込め直したのかはわからない。それでも一万年以上は経った今でも、エルティナの作った水晶のランプは魔界跡の澱んだ闇をひっそりと照らし続けている。その光景が何だかひどく悲しいもののように思えて、レティシアはそっとランプの炎から目を逸らしてしまった。


「まるで、王の帰りを待っているようだな」


 ぽつりとこぼされたアレスの言葉に、どこからともなく風が吹いた。取り付けの弱かったランプのひとつが小さく揺れ、辺りに光と闇が交互に揺れる。レティシアたちの影を映して、消して。その荒く剥き出しの岩壁に、ふっと別の人影が映り込んだような気がした。


「あ……」


 レティシアの視線の先、反対側の壁に取り付けられたランプの下に、見知らぬ男の石像が掘られていた。注意深く見れば、それは周囲の壁すべてに掘られている。長い年月が過ぎて砕けたものも中にはあるが、大半はそれが性別や年齢など、ある程度推測ができるほどの精巧さを保っていた。


「こんなところに石像? しかも……何か、妙に生々しくないか?」


 ロッドがそう感じるのも無理はない。岩壁を直接削って作られた石像は、そのどれもが恐怖におののいた表情で、今にも彼らの絶叫が聞こえてきそうなほどだ。

 逃げる者、諦めて蹲る者、人波に飲まれ踏みつけにされる者。その更に奥には、体が半分異形と化した者の石像まである。まるで襲い来る何かから逃げ惑う人々を描いた壁画のようだ。


「表情もそうだけど……ほら、これなんか体中の傷や……血の流れたあとまである」


 ロッドが男の石像につけられた傷跡に触れた瞬間、それはざぁっと音を立てて崩れ去ってしまった。驚いて後退したその足元で、かつん……と乾いた音がする。

 脆く崩れ落ちた石像の中からこぼれ落ちたもの、それは。


「ほっ、骨……!?」


 落ちた衝撃で砕けた頭蓋骨の一部が、残った片方の眼窩をロッドに向けて転がっていた。


「うわ! な、なんで人が……っ。石像じゃなかったのか!?」


 魔界跡の奥へ続く、淡い水晶光に照らされた薄暗い通路。その両壁に埋め込まれた人間の像が、ロッドの声に揃ってこちらを見たような気がした。


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