第55話 翼にかけられた魔法

 暗闇に、じゃらりと鎖が揺れる。鈍色の枷に絡め取られているのは、血に濡れた片翼だ。

 血でこびり付いた羽根の一枚を引き抜いて、ヴァレスは無感情にそれを見つめる。鮮血に染まる、その羽根と同じ色の瞳で。


「……レティシア」


 この体クラウディスの妹であるレティシア。その銀髪と青い瞳は、どれだけ時を経ようと、ヴァレスの中に愛おしい記憶と悍ましい過去を呼び起こさせる。


 その色彩を、愛している。

 その色彩を、憎んでいる。


 羽落としの剣に散った、レティシアの片翼。バルザックに連なる者を屠った昂ぶりと、エルティナに似た女を傷つけてしまった後悔と。ふたつの反する感情が、今もヴァレスの中に渦を巻いている。


 レティシアの片翼は、彼女の自由を奪うのに必要なことだ。無意識に翼を求める有翼人としての血の宿命さだめ。そこにほんの少し魔法を重ねてやれば、両翼を奪わずとも、レティシアは翼を求めて自らここへ引き寄せられる。それに両翼を切り落とすことで命を奪うことを、ヴァレスは望んでいない。

 レティシアの中にある結晶石も、そしてレティシア本人も。ヴァレスの願いは、どちらが欠けても成就しない。


「来い、レティシア」


 片翼にこびり付いた血が、ぞわりと蠢いた。ヴァレスの呪文を絡め取って染み込んだ鮮血は、残っていた白い羽根の部分さえも呪いの文字で埋め尽くしていく。

 翼を求める血の宿命さだめには抗えない。神龍の守りもすり抜けて、レティシア自身が、ここへ来ることを望むはずだ。


 呪文に埋め尽くされた片翼が、不気味に赤黒く光を放つ。呼応するように、緩く点滅するその様子はまるで儚い鼓動のようだ。


 とくん。

 とくん、と。

 微弱に命を刻むのは――。



***



 朝にイルヴァールたちと魔界跡へ行くことを決めたあと、各々は準備のために忙しく動いた。

 ロッドはしばらく城を離れる旨を伝え、そのあいだ獣人界のことは妻であるセリカに一任された。メルドールとイエリディスたちは、これから起こるであろう戦いに備え、下界が巻き添えを食らわないように対策を整えてくれるという。下界すべてに結界を張ることはできないが、世界最強の白魔道士と世界に散らばる精霊たちが手を組むのなら、アレスたちが心配することはないだろう。

 一旦魔法都市へ戻るというメルドールは、その途中でロゼッタを龍神界へ届けてくれるらしい。ガッシュと話したいこともあるらしかったが、レティシアが不安定ないま獣人界を離れられないアレスにとっても、メルドールの申し出は非常にありがたかった。


「お兄ちゃん……ちゃんと、帰ってくる?」


 最後まで不安そうな顔をしていたロゼッタだったが、何か大きなことが起ころうとしていることは感じ取っているらしく、アレスを困らせるようなことは言わずにいてくれた。それでもぎゅっとしがみ付いてきたので、アレスはロゼッタのやわらかい金髪を梳くように何度も頭を撫でてやる。

 少し離れたところではメルドールが、セリカに何か薬のようなものを渡していた。何を話しているのかまでは聞こえなかったが、セリカが腹に手を当てて頭を下げていたので、彼女の体調に関することなのだろう。魔獣に受けた傷を治しにメルドールを訪ねていたのだから、もしかしたらその関係なのかもしれない。


「では、そろそろ行くとしよう」


 そう言ってメルドールがロゼッタを連れて獣人界を後にした。イエリディスたちも既に精霊界へと戻っており、獣人界は再びしんとした樹海の静けさに包まれる。

 静謐の樹海。その奥から徐々に忍び寄る夕闇を彩って、夜空に宝石を撒き散らしたような星々が競って光を放ち出す。アレスたちが獣人界を訪れてから、二度目の夜が訪れようとしていた。



 ***



 白い、白い世界だ。

 前を見ても後ろを見ても、アレスの目には色が映らない。不安に思って一歩を踏み出すと、足元で白い羽根が舞い上がった。

 視界を埋め尽くす、羽根の雨。頬を掠めるやわらかな羽根が、ねっとりとした感触を残して消えていく。少しだけ不快な感触に頬を拭えば、指先に鮮やかな鮮血が絡みついた。


 びちゃり、と。

 湿った音がする。

 それが血溜まりだと認識すると同時に、アレスの腕に急な重みが増した。がくんと膝を付いたアレスの腕に支えられたもの――血まみれのレティシアが睫毛を震わせて静かに目を開ける。


『……ごめんなさい、アレス』


 名を呼ぼうとして、声が出ないことに気付く。その間もレティシアはゆっくりと手を伸ばして、アレスの頬にそっと指先で触れてくる。愛おしげに。さみしげに。


『私……行かなくては……。もう、ここには……いられない』


 レティシア、と。

 強く、声にならない叫びを上げた瞬間、レティシアの体が幾つもの羽根になってぶわりと辺りに舞い散っていく。アレスに残されたのは、血に濡れた羽根だけだ。


 レティシア。

 レティシア。

 何度叫んでも声が出ない。アレスはひとり、血濡れた羽根に呑み込まれていく。腕に抱いていたレティシアの感触さえかき消され、アレスに残るのはレティシアの流した鮮血の痕だけだった。



「レティシアっ!」


 弾かれたように体を起こすと、部屋の中は闇に包まれていた。ベッド脇に置いていたランプの炎が消えている。肌を撫でる風を感じて目を向けた先、開け放たれたバルコニーに立つレティシアの姿が見えた。

 その後ろ姿が白くぼんやりと霞んでいるのは、カーテンに遮られているからではない。レティシア自身が淡く光り、その輪郭が薄くほどけていた。


「レティシア!」


 慌てて腕を掴み引き寄せると、虚ろな青い瞳がアレスを見上げた。


「……私……呼ばれている。……行かなくては」


 夢の続きかと思うほどに、レティシアが同じ言葉を口にする。心臓がどくんと跳ねて、喉が一気に干上がった。


「だめだ、レティシア。戻ってこい!」


 これ以上、失わせない。そう強く願って、不安定なレティシアの体を抱きしめる。それでも腕に伝わる感触はひどく曖昧で。


「レティシアっ」


 両腕では足りない。そう漠然と思った瞬間、アレスの背中に熱が篭もった。膨れ上がる熱はまるで羽化するように弾き出され、それはそのまま純白の翼に姿を変える。


 ばさりと大きく羽ばたいて、アレスの両翼がレティシアの体を覆い隠すようにして包み込んだ。舞い散る光の鱗粉は薄く解けたレティシアの肌に溶け込んで、そのたびに輪郭が少しずつこちら側へと戻ってくる。

 感触がはっきりと戻ってきたのを感じて、抱きしめる腕にきゅっと力を込めてみると、レティシアの澄んだ青い瞳が今度はしっかりとアレスの姿を映し出した。


「……アレ、ス?」


 たった二日足らずだというのに、その声を聞いたのは随分と久しぶりのような気がした。


「……無事か?」

「……は、い。……痛みは……もうない、です」

「お前が……消えてしまうのかと思った」


 いつもよりも、抱きしめる腕の力が加減できなかった。緩めてしまえば、また光に溶けてしまいそうで。

 今ここに、確かにいるのだという証拠を欲するように、アレスはレティシアの体を強く、きつく抱きしめる。腕の中でレティシアが少しだけ苦しそうにもがいたが、それでも力を緩めることはできなかった。


「アレス……っ、その翼は」

「後で話す」

「え……、っと……あの」


 レティシアが何を言いたいのか、本当はわかっている。それでも今だけは、その願いを叶えてやる余裕がない。更に強く力を込めると、腕の中で「きゃっ」と短い声が上がった。戸惑うその声すら愛おしい。

 本当ならもっと強く抱きしめて、レティシアの存在を自分の体に刻みつけたかった。もうどこにも行かないよう、レティシアと自分を繋ぐ証を残したいとさえ思った。けれどレティシアは瀕死から目を覚ましたばかりで、おまけに二人の関係も一歩踏み込むにはまだ浅い。

 だから今だけは、少し強く抱きしめるくらい許して欲しいと思うのだ。



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