第53話 血の目覚め

 城の一室を借りてレティシアをベッドに寝かせると、アレスはすぐさま湯殿へと連れて行かれた。レティシアのそばを離れるのが嫌で何度も断ったが、最終的にはロッドの押しに負けて、なぜか今は一緒に風呂に入っている。

 ゆっくり湯に浸かっている場合ではないのだが、あたたかい湯は体だけでなく心もやわらかくほぐしてくれて、アレスはようやく自分の頭でものを考える余裕ができたことを感じた。それにアレス自身、レティシアの血で服も体も汚れていたのだ。そんな姿で獣王の城に居座ることは、さすがに無礼が過ぎるだろう。そう考えが及ぶのも、頭が正常に働き始めた証拠だ。


 用意されていた麻の服はゆったりめに作られており、おそらくは就寝着なのだろうと予想がつく。日は西に傾き始めたばかりで寝るには早いが、血まみれの服は既に洗濯されており、アレスは仕方なく麻の服に袖を通した。

 ロッドと同じ服を着ていることに奇妙な感覚を覚えつつ、促されるまま外に出れば、城の前庭に寝そべっていたイルヴァールがゆっくりと顔を上げた。


「少しは落ち着いたか?」

「あぁ……。取り乱して悪かった」

「レティシアの気も落ち着いているようだ。今のうちに話をしておきたい」

「俺も聞きたいことがある」


 気を利かせた従者が既に準備していたのか、イルヴァールのそばにはテーブルと飲み物が用意されている。ロッドが木の器に注いでくれた茶は初めて口にする味だったが、爽やかな香りは思考をクリアにしてくれるようだった。


「天界王クラウディスだが……」


 隣でロッドがごくりと喉を鳴らす。きっとロッドもあれが誰なのか、もう予想はついているのだろう。アレスもイルヴァールが叫んだ名を、はっきりと覚えている。


「あれは、魔界王ヴァレスだ。クラウディスになりすましているのか、それとも体を乗っ取っているのかはわからんが、少なくともにヴァレスがいることは間違いない」


 やはり、といったところなのか。イルヴァールの言葉を聞いてもアレスに驚きはなく、ロッドも両手で顔を覆って深い溜息をついている。


「何となく、そうなんじゃないかって思ってたけど……改めて言われると絶望感が半端ないな。あんなのとどうやって戦えって言うんだよ」

「天界王の体を使っている辺り、おそらく奴はまだ自由に動くことができないのだろう。白魔法と黒魔法、どちらも使うとなれば……やはり体を操っている線が濃厚だ。強敵には違いないが、わしらの方にも新たな力が加わった」


 青い瞳に見つめられ、アレスの背中が僅かに疼く。けれど、それはもう姿を現す気配がない。


「力って……」

「ロッドも見ただろう。アレスの翼を。あれは……ラスティーンと同じ、神界人の力だ」

「神界って……えぇ!? アレスが!?」

「少なくとも、わしにはそう感じた」

「なんでいきなりアレスが神界人になるんだよ。竜使いだろ?」


 同意を求められるようにロッドに見られても、当の本人であるアレスでさえ何が起こったのかわからないのだ。無言で思案していると、機嫌を損ねたと思ったのか、ロッドはそれ以上口を挟むことはなかった。


「天界人も龍神界の民も、元を辿れば神界リヴァイアの末裔だ。レティシアを救いたいと願う心が、アレスの血に眠る神界人の力を呼び覚ましたのだろう」

「力と言っても……もう出せる気がしない」

「それはおぬしが完全に目覚めていないからだ。今はまだ感情に左右されやすい。制御できれば、自分の意思で具現化できるはずだ。そしてその力は、これからの戦いに必ず必要となる」


 神界人の力。それは、かつては世界を恐怖で支配していた、あのバルザックと同じ力だ。魔界王ヴァレスを誕生させ、その呪いを現代にまで引き摺る原因となった忌むべきもの。

 そんなものが自分の中に流れていると思うだけで、吐き気がするほど不快だった。けれど同時に、その力があればクラウディスの中にいるヴァレスに対抗できるかもしれないとも思う。


 力に意思は存在しない。

 レティシアの中に眠る結晶石と同じように、アレスの中にあった神界人の力も、それだけでは善悪のどちらでもないのだ。大切なのは、それをどう使うかということ。


「……俺は……」


 バルザックのようには決してならない。ヴァレスの思いに同調することもない。この力はレティシアを守るためだけに使う。


「俺は、力に溺れたりはしない」


 見つめていた右手をぎゅっと強く握りしめて、アレスは自分自身に固く誓った。


「……やはり、おぬしの心は強くまっすぐだな」

「力があるなら、あいつを守るために使いたいだけだ。……こんな思いは二度とごめんだ」

「……そのレティシアのことだが、奴が使ったのは『羽落としの剣』で間違いないだろう」


 不穏な響きの名前に、アレスの表情が曇った。その名前からよくないことは嫌でも理解できる。


「名前の通り、天界人……いや、本来は神界人の翼を切り落とす目的で作られた剣だ。バルザック亡き後も、数年は神界人たちの支配が続いた。しかしバルザックを討ち取ったヴァレスが元奴隷であることを知った民は、自分たちにも出来ることがあるのではないかと模索したのだ」


 ヴァレスの標的は、あくまでもバルザックひとりだ。魔界王である彼の目的は復讐と、そしてエルティナとの再会ただそれだけ。バルザックを殺した後の世界など、もうヴァレスにはどうでもいいことだったのだろう。


「その結果、出来上がったのが『羽落としの剣』だと?」

「そうだ。剣は各国の力を集結させて作られる。神界を倒すために、他国が協力して初めて完成するのだ。そうして作られた剣が唯一切ることのできるもの、それが神界人の翼だ」

「何で翼なんだ? 剣なら、その……」


 言い淀むロッドが、何を思っているのかアレスにもわかった。回りくどいことなどせず、剣なら心臓を一突きにだってできるはずだ。

 そうしない理由がある。剣に「羽落とし」と名前がついていることからも、神界人の翼には重要な意味が含まれていると推測できた。


「神界人は、その強大な魔力によって人を虐げてきた。そして彼らの魔力の源、その核は翼にある」

「レティシアの魔力の核も?」

「そうだ。幸い……と言っていいかわからんが、奪われたのは片翼だ。レティシアの魔力は半減するが、今のところ命に作用することはないだろう」

「……両翼とも奪われていたら、どうなっていた……?」

「……魔力を失い、人と同等になる。そして失われた力……翼を求めて、死ぬまでさまようと言われている」


 神界人の矜恃とも言える強大な魔力。それをすべて失ったとなれば、奴隷であろうと彼らを屠ることは簡単だ。翼を失い、廃人のように地を這う神界人たち。彼らの犯した罪を思えば因果応報にも思えるが、無力の相手に刃を突き立てるその光景は想像するだけでも吐き気がした。


「レティシアの容態は落ち着いているように見える。……しかし、しばらくの間は目を離さぬ方がよいだろう」


 空を覆い始めた夜のように、アレスたちの間に言い知れぬ不安が忍び寄っていた。誰も声を発しない。空気を震わせるのを恐れているかのように、揃って息を潜め俯いていると、その静寂をりん……と揺らして一陣の風が吹き抜けた。

 蒼い葉を巻き上げて緩やかに渦を巻く風の中から現れたのは、精霊王イエリディス本人だった。


「突然の訪問を許されよ、獣王」


 はじめて見る精霊王に、ロッドは目を白黒させて椅子から転げ落ちそうになっている。


「え? 何で……?」

「わしが呼んだのだ。息子のルネリウスのこともあるが、彼らの治癒にイエリディスの力を借りようと思ってな。精霊界ほどではないが、自然の多い獣人界ここなら精霊力も濃いだろう」


 イルヴァールに同意して頷くと、イエリディスは少し急いたようにアレスたちの方へと進み出た。


「おおよその話は神龍から聞いた。息子を助けてくれたこと、感謝する」

「あ、あぁ。今はみんな、城の者たちに様子を見てもらってる。でも……まだ目を覚ます気配はないんだ」

「ならば私の力を役立ててくれ。その代わり、森の生気を少々もらうことになるが」


 木々の生命力を回復に充てると聞いて、ロッドの表情が僅かに曇る。セリカたちの回復を優先したいのは山々だが、そのせいで森が枯れることになるのなら、ロッドは獣王として安易に頷くことはできない。

 そんなロッドの心配を察したのか、イエリディスが薄く笑みを浮かべて首を横に振った。


「森が枯れぬよう、配慮する。広大な森だ。個々の樹木から、少しずつ生気を集めれば大丈夫だろう」

「そうか。なら頼む。何か必要なものがあれば言ってくれ」

「承知した。では私は森へ……」

「わしも手伝おう、イエリディス」


 足早に踵を返したイエリディスの後を追って、イルヴァールも腰を上げる。森へは入れないので、上空から助力するつもりなのだろう。六枚の翼をゆるりと広げて、数回大きく羽ばたいた。


「二人とも……特にアレス、おぬしは少し休んでおけ。力を解放したせいで、思うより体力を消耗しているはずだ。何かあれば知らせる」


 それだけ言うと、イルヴァールも森の奥へと飛んでいく。その先には、完全な夜の闇が迫ってきていた。



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