第52話 死の淵から

 風の匂いが変わったことにほんの僅か顔を上げると、アレスの瞳に青々とした濃い緑が映った。けれど、それが深い森だと認識することはできない。アレスの脳は思考を止めたまま、その視界に映る景色の意味も遮断されている。

 アレスの中に残るのは、真紅だけだ。瞼の裏に、鼻腔の奥に、ただ濃い鮮血の痕だけが居座っている。

 だからイルヴァールの背に乗って、自分がどこへ連れて来られたのかもまったく理解できていなかった。


「アレス。獣人界についた。まずはレティシアを……」

「アレス! レティシア!」


 少し離れたところに飛竜を降ろしたロッドが、駆け足で向かってくる。それでもアレスはレティシアを抱えたまま、イルヴァールの背から動こうとはしない。声すら聞こえていないようだ。

 辺りには濃い血臭が漂い、その臭いに怯えた獣たちが木の陰からこちらの様子を窺っている。その間もレティシアから流れる鮮血はイルヴァールの背を濡らし、地面にまでぽたぽたと赤い染みを作っていった。


「アレス。レティシアをこのままにしてはおけぬ」

「そうだぞ。早く血を止めなきゃ……。アレス、聞いてるのか!?」


 二人の声もまるで聞こえていないのか、アレスはイルヴァールの背の上で固まったようにレティシアを抱きしめているだけだ。軽く揺すってもまったく反応を示さない。


「な……に、やってんだよっ。早く降りろ! そのままじゃ、レティシアが……っ」


 腕を伸ばすロッドから、アレスがレティシアを奪われまいと身を捩る。少し動くだけで服の隙間に溜まった血がこぼれ、ロッドの足元にもボタボタと飛沫を上げて飛び散った。

 完全に自分を見失っているアレスに、ロッドが思わず舌打ちをこぼした。レティシアの状態は放っておいていいものではない。助けたいと願う思いは皆一緒なのに、こうしている間にもレティシアの命は刻一刻と失われていく。現に、瞳を固く閉じたレティシアの顔には、もう死相が浮かび始めていた。


「アレス!」


 堪らずアレスの腕を強く掴んだロッドが、今まで聞いたこともないほど大きな怒鳴り声をあげた。


「レティシアを殺す気かっ!」


 ぎくんと、大きくアレスの体が震えた。やっと焦点の合った目がロッドに向いたかと思うと、その深緑が揺らめく前に涙は瞼の奥に隠される。縋るようにレティシアをかき抱いて、アレスが消え入りそうな声で呟いた。


「……助けてくれ」


 はじめて見るアレスの姿に、ロッドの胸が切なく軋む。思わず緩みそうになる視界を瞬きで抑え、嗚咽が漏れないようにきゅっと唇をきつく噛み締めた。

 泣くことは、諦めと同じだ。


「レティシアが、お前を置いていくわけないだろ。しっかりしろ」


 口調を緩めてそう言うと、アレスがやっとロッドを見て体を動かした。ずるずると滑るようにイルヴァールから降り、そのまま背を預けて座り込む。力なく萎れたレティシアの片翼が、血溜まりに触れて更に真紅に染まった。


「アレス。今のレティシアを助けるには魔力が足りぬ。天界人にとって翼は魔力の核。それを半分失い、レティシアの体はショック状態だ。今のままではわしの魔力すら受け付けぬであろう」

「イルヴァールの魔力でだめなら、他にどうするんだよ。俺たちは魔力なんて……」


 そう言いかけたロッドが、思い出したように小さく声を上げてアレスを見た。レティシアの惨状に忘れかけていたが、アレスの背にはどう言うわけだか天界人と同じ白い翼が現れている。その翼のおかげで落下するレティシアを救うことができたのだ。若干の違和感はあれど、その翼が悪いものではないことはロッドにも感覚的にわかった。


「レティシアの中を同じ魔力で満たし、ショック状態を緩和できれば、わしの魔法も届くだろう。それにはアレス、おぬしの力が必要だ」

「レティシアが助かるのなら、何でもする」

「いい返事だ」


 レティシアの背中へ顔を寄せ、イルヴァールが瞼を閉じた。


「嘆きも絶望もいらぬ。ただレティシアを救うことだけ考えろ」


 そう叱咤したイルヴァールに、アレスも唇を強く噛み締めて目を閉じた。

 瞼の裏側にこびり付く鮮血を愛しい銀髪に塗り替えて。鼻腔を突く濃い血臭を、精霊界の白い花の匂いにすり替えて。不安も悲しみも胸の奥に押し込めて、今だけはただレティシアの笑顔を脳裏にきつく刻み込む。


 意見の違いに口論したことも、近すぎる距離に戸惑ったことも。思い出せば、それは昨日のことのようにアレスの中によみがえる。抱きしめた体のぬくもり。緊張に震える体。見つめ合う瞳の奥に、確かに感じた淡い恋情。

 記憶は数え切れないほどに多く、けれどそれ以上の新しい記憶をレティシアと共に作っていきたい。笑った顔。怒った顔。恥じらう顔。アレスの知らないレティシアの表情を、もっとたくさん見せて欲しいのだ。

 だから――。


「死ぬな」


 強く願う。

 声が、熱が届くように。その願いがレティシアの心に届くように。再び大きく羽ばたいたアレスの翼から、きらきらと小さな光の鱗粉が舞い上がった。それは静かに吐き出されたイルヴァールの吐息に絡まって、くるくると緩やかな渦を描きながらレティシアの背中の傷へと吸い込まれていく。

 淡い光の膜に覆われた傷口はゆっくりと塞がっていき、レティシアの顔からは苦痛の色が薄れていった。


 ばさり、と。最後に大きく羽ばたいたアレスの翼が、光に弾けて消えた。はらはらと舞い降りる粉雪のように、アレスの光はレティシアにやさしく触れて肌の奥へ溶け込んでいく。魔力が戻りつつあるのか、光が溶けるたびに、レティシアの頬には赤みが差していった。

 そして、ゆっくりと――睫毛が動いて。


「……アレス……」


 レティシアの青い瞳に、アレスの姿が映った。


「レティシア……っ」


 強く抱きしめようとして、思いとどまる。目を開けたとはいえ視線はまだ虚ろで、名を紡ぐ声すら耳を寄せないと聞こえないほどだ。意識は戻れども、完全に無事だとは言い切れないレティシアに、加減のわからない今のアレスでは、抱きしめるだけで傷つけてしまうかもしれない。

 それでも我慢出来なくて、アレスはそっと指の背でレティシアの頬に触れた。


「レティシア。……もう、大丈夫だ」

「……みんなは……?」


 この期に及んでまだ他人の心配をするのかと、アレスが僅かに眉を顰める。それでも虚ろな視界のレティシアには見えなかったようで、不安げにそっと手をアレスの方へ伸ばしてきた。


「みんな無事だ。心配ない」

「……そう。……よかった」

「だからお前もしっかりしろ。お前が無事でないと、意味がない」


 一瞬、ほんの僅かにレティシアが目を見開いた。かと思うと青い瞳を細めて、静かに微笑む。血に濡れて青白い顔なのに、浮かぶ笑顔は花が咲いたように美しい。


「わたしも……アレスのいる、この世界で……もっと……生きたい、です。……一緒に……隣で」

「なら、生きろ。……俺のために、生きろ」


 伸ばされた手をしっかりと握りしめて、アレスはレティシアの指先にそっと、祈るように口付けた。


「俺はお前のそばにいる。お前が望むなら、ずっとだ。だからお前も……俺のそばを離れるな」

「……はい……」


 ふわり、微笑んで。

 レティシアの瞼が再び重く閉じられた。頭はことんとアレスの胸に傾き、腕に抱く体には重みが増す。


「レティシア!?」


 慌てて名を呼んでも返事はない。焦るアレスに、ロッドが落ち着いた様子でレティシアの顔を覗き込んだ。

 顔色はいいとは言えないが、さっきよりも随分とましだ。かすかに聞こえる呼吸音も規則正しいことから危険はないと判断し、ロッドはアレスにも立ち上がるように促した。


「大丈夫、眠ってるだけだ。今のうちにベッドへ運ぼう」


 できるだけ負担のかからないように抱えて立ち上がると、アレスはロッドの後に続いて石造りの城へと歩いて行った。





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