第51話 アレスの血に眠る力

 それは、『羽落としの剣』と呼ばれていた。


 天界の書庫にて、禁書として保管されている黒い本。厳重に鍵がかけられた本にはタイトルがなく、まるで誰かの日記のようでもある。

 禁書の棚の奥、ひっそりと隠された本の存在を知る者はいない。長い年月が過ぎると共に、その本も天界人の記憶から薄れていった。

 けれど、記された内容が消えることは決してない。それはバルザックの悪行に対抗するために作られたものだからだ。


 羽落としの剣。

 各国の力を集結させて作られる一本の剣が、唯一切ることができるもの。それは魔力の核とも言える、命の次に大事な有翼人の白い翼だ。



 ***



「レティシアっ!」


 見開いた視界に、鮮血が散る。羽が散る。目に映るのは赤。赤。ほとばしる血の色だけだ。鼓動が大きく響いて、他の音が何も拾えない。ただ、鮮血に濡れたレティシアの姿がアレスの脳を深く揺さぶった。


 まるで悪夢だ。片翼を切り落とされたレティシアの姿が、イルヴァールの夢で見たエルティナの最期と重なり合う。

 伸ばした手は、まだ遠く。触れることさえ叶わぬまま、レティシアの体がぐらりと大きく傾いた。その足が魔法陣を離れて空を踏み、そして――そこから落下した。


「レティシアは捕らえたも同然。私の願いが叶う日は、近い」


 切り落としたばかりの片翼を拾い上げ、そう口にするクラウディスを気にする余裕もなかった。なおも絡みつく瘴気を振り払い、イルヴァールを駆って急降下する。通り過ぎる一瞬にクラウディスの真紅と目が合ったが、どちらも今は互いの敵など眼中になく。宿敵となり得る邂逅は、瞬きよりも短かった。


「イルヴァール! 急げっ」

「わかっておる!」


 苛立つ声がふたつ。鮮血の糸を辿って落ちていく。

 イルヴァールが追いつけないのは、力が足りないからではない。魔法陣から溢れ出た瘴気の名残が翼に纏わり付いて、イルヴァールの速度を落としているのだ。反対にレティシアは落ちるほどに速度を増している。姿はもう見えず、視界には逆流する血の雨しか映らない。

 頬を掠めるその鮮血が、アレスの肌に冷たい痕を残していく。消えていくぬくもり。失われていく命。


 ――だめだ。


 絶望と焦燥に駆られて、鼓動は激しさを増すばかりだ。嫌な予感を振り払えず、心がどんどん凍て付いてゆく。なのに巡る血潮は沸騰しているかのようで、先程からアレスの内側には熱が篭もり続けている。


『だめだ……エルティナ。俺を残して逝かないでくれ』


 よみがえる記憶は、アレスの声で絶望を嘆く。

 守ると誓った。ヴァレスとは違うのだと、そう言ったのに。レティシアを失う現実を思うだけで、体が、心が、粉々に崩れてしまいそうになる。


 行くな。逝くな。

 手を伸ばしても、レティシアには届かない。間に合わない。失ってしまう。


「レティシアっ!!」


 どくんと、強く心臓が跳ねた。

 早鐘を打つ鼓動に合わせて、体の全細胞が疼く。弾けて分裂し、増殖するかのように膨れ上がったそれは、血に眠るいにしえの記憶を呼び覚ます鍵となる。

 血を滾らせ、体内に篭もり続ける熱が出口を求め――アレスの背中から純白の翼を解放した。


 きらきらと光の鱗粉を撒き散らし、アレスの背中で二枚の翼が伸びをするように大きく羽ばたいた。かと思うと、次の瞬間にはもうイルヴァールの背を飛び降りて、アレスはレティシアを追って下へ下へと飛んでいく。


「アレス!? おぬし、その姿は……」


 驚くイルヴァールの声が、あっという間に遠くなる。自分に何が起こったのかわからなかったが、現れた翼の使い方は体のほうが覚えていた。記憶にない感覚は、けれど僅かに馴染みがある。五感がいつもより研ぎ澄まされ、レティシアに意識を集中させれば、弱まっていく魔力の流れが手に取るようにわかった。

 その微弱な糸を辿って急降下したその先で、アレスはやっとレティシアを腕の中へ取り戻した。


「レティシア! 聞こえるか!」


 体勢を整えて支えてやると、レティシアの頭がことん……とアレスの胸に当たる。額には汗が滲み、睫毛を震わせるものの瞼は固く閉じられたままだ。浅い呼吸は、まるで息をしていないのではないかと錯覚してしまう。それでもかすかに漏れる声が、うわごとのように何度もアレスの名前を呼んでいた。


「……ス……アレ、ス……」

「ここにいる! レティシアっ、……大丈夫だから……っ」


 アレスの叫びに、レティシアの頭が僅かに動く。動いて――かくんと、力尽きた。


「レティ……シア? ……レティシア」


 軽く揺すってみても、レティシアはもう動かない。抱きとめる腕には確かな熱があるのに、それが体温ではなく流れ出る鮮血であると脳が理解した瞬間。アレスの中で、張り詰めていた糸がふつりと切れる音がした。


『レティシアは死ぬ。そういう運命なのだ』

『あいつは俺が守る』


 そっと頬を寄せれば、レティシアの肌に熱はもうほとんど残されてはいなかった。


「だめ、だ……。だめだ……レティシア。……レティシアっ」


 哀願するほどに切ない声音は、もう、レティシアには届かない。



 ***



 色のない世界にいた。

 前を見ても、後ろを見ても、視界はやわらかな白一色だ。歩いても歩いても、レティシアの瞳には何も映らない。自身の姿さえもだ。

 初めはイルヴァールの翼に包まれているのかと思った。けれどすぐに、イルヴァールとは「誰なのか」わからなくなる。


 どうしてこんなところにいるのだろう。今まで何をしていたのだろう。

 歩くたびに、記憶が薄れて消えていく。なのに足を止めるという選択肢が、今のレティシアには思いつかなかった。


 はらり。

 右足を踏み出せば、飛竜に乗って駆け上がった青空が色をなくして消える。

 はらり。

 左足を踏み出せば、小麦色の肌をした陽気な青年の姿がほどけて消える。


 少しずつ失われゆく記憶に一抹の寂しさは覚えるものの、進むたびに体が軽くなる解放感に安堵もした。

 終わったのだ。何が終わったのかすらもうわからなかったが、これ以上苦しまずに済むのだと思うと、自然と唇に笑みが浮かぶ。

 ――だからいまのは、きっと嬉しいからに違いない。


『レティシア』


 かすかに響いた声に、レティシアの足が止まる。振り返っても、この世界には何もない。なのに自分でも知らぬ間に、レティシアは「誰か」の影を求めて視線をさまよわせた。


『レティシア。……いくな』


 ただただ、せつなく。何かをこいねがう声音に、レティシアの背中がずきりと痛む。その痛みから逃げたくて、また先へ進もうとしたその足元に……ぽたりと、鮮やかな赤がこぼれ落ちた。


 色のない世界に、色を落とすレティシアの赤。命のしずく。

 背中の痛みに引き寄せられるようにして、空っぽになったレティシアの中へ、手放したはずの記憶が一気に逆流した。

 兄との決別。結晶石の謎。心躍る、束の間の旅。そして精霊界での、あまく震える蒼い夜。見つめ合い、吐息を感じるほどに近付いた、あの深緑の瞳を覚えている。


 忘れていいはずがない。

 彼は。アレスは、レティシアに生きる道を示してくれた大切なひとだ。


『死ぬな』


 どんな時も、強くまっすぐにレティシアを導いてくれた声が、今はこんなにも頼りなく弱々しい。レティシアがいないだけで、今にも脆く崩れ落ちてしまいそうだ。


 ――戻らなくては。


 焦燥する思いに振り返ると、世界は一変して漆黒に塗り替えられた。進む方向すらわからない闇の中、けれどレティシアは迷いなく歩を進める。


 生きるために。

 アレスと共に、生きて世界を守るために。


「アレス!」


 そう強く叫んだ瞬間。

 レティシアを取り巻く漆黒の空間が、がらがらと音を立てて崩れ落ちた。




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