第50話 羽落としの剣

 真紅の魔法陣をすっぽりと覆い隠した瘴気は、レティシアとアレスを完全に分断した。満ちる瘴気が濃すぎて、見上げても姿どころか声すら聞こえない。

 完全にクラウディスと二人きり。魔力差がありすぎて到底敵う相手ではなかったが、レティシアの瞳から戦意が消えることはなかった。

 瞬時に防御結界を張って、どこから攻撃が来てもいいように身構える。その前で、クラウディスが憐れみでも嘲りでもない、静かな笑みをこぼした。


「下界に降りて、お前は変わったようだな」


 響く声にかつての兄の面影を見た気がして、レティシアの肩がぴくりと跳ねる。


「真実を知ろうとする強い心。他人を大切に思い、愛する心。それが私に、懐かしい影を思い出させる。……お前はよく似ている」

「……何の話ですか」

「レティシア。少し、話をしよう」


 腕を組み、右手の指先を顎に当てて、クラウディスが懐かしむように目を細めた。纏う空気は変わらず邪悪で重苦しかったが、攻撃の気配は消えている。言葉通り、本当にレティシアと話をするつもりのようだ。


「メルドールから聞いたぞ。お前は結晶石にまつわる謎を解くために旅立ったのだと。……それで? お前はその石について、どれくらいの真実を知り得たのだ?」

「……結晶石が作られた、本当の理由を」

「ほう?」

「この石に込められた願いは世界支配などではなく、魔界王ヴァレスの深い悲しみでした」

「そうか。短い時間で、よく調べたものだ」


 声に棘はなく、まるでレティシアの労をねぎらうかのようだ。そのやわらかさに警戒心が若干薄れてしまったことを、レティシアは自分でも感じていた。

 もしかしたら、クラウディスの中で何かが変わるかもしれない。彼がロゼッタたちにしたことは許されないが、それでも話し合う余地があるのならと、レティシアの心に甘い望みが顔をのぞかせた瞬間。


「だが……」


 クラウディスの顔に、いびつな笑みが戻った。


「必要なのは過去ではなく、今だ。過ぎてしまったことを嘆いても、エルティナはもう戻っては来ない」


 レティシアの体に、さっと緊張が走った。その笑みに、その言葉に、レティシアの心が警報を打ち鳴らす。

 結晶石が作られた過去を見たのは、イルヴァールの夢の中だ。誰も、結晶石の真の目的については知らなかった。もちろんそれはクラウディスも同じだ。

 なのになぜ、その名を口にできるのか。ヴァレスが愛した神界の姫の名を。


「……どうしてその名を……」


 震えるレティシアに、クラウディスは答えない。ただ黙って、不気味な笑みを張り付けているだけだ。


「お兄様……っ!」


 そう、呼ばれて。

 クラウディスが、自身の胸に左手をそっと当てた。


「お前の兄は、もういない。私の中で消滅した」


 耳をつんざくほどの轟音と共に、魔法陣の中央からおびただしい量の闇が溢れ出した。六角柱から垂れていた鎖をすべて呑み込んで、とぷんと揺れるそこはまるで深淵を思わせる沼のようだ。

 ロゼッタたち四人の魔力を吸い込んだ先、触れるだけで命を奪われそうになるその闇の中へ、クラウディスが躊躇いもなく右腕を沈み込ませる。そして中から、漆黒に濡れた一本の剣を引き抜いた。


「レティシア。お前を傷つけるのは、少々心が痛む。だが、私が求めるのはではないのだよ」


 冷たい声音。熱のない瞳。唇は弧を描いていても、クラウディスの顔にレティシアを憂う兄としての感情はどこにもない。


「……あなたは、誰なの……」

「その答えを、お前は既に知っているはずだ」


 眼前に掲げた黒い剣。その漆黒に染まる刃の向こうで、クラウディスの青い瞳が揺らめいて――。


『俺を残して、逝かないでくれ』


 鮮やかな真紅に、煌めいた。



 どおんと揺れる激しい振動と共に、瘴気の渦を割ってイルヴァールの咆哮が響き渡った。空を覆っていた闇が晴れ、広がる青空に白い軌跡がまっすぐに降下する。その背に乗る人物を目にして、レティシアが反射的に身を翻した。


「アレス!」


 逃げようとして後退したその足元に、鈍い音を立てて罅が入る。はっとして目を落とすと、レティシアの足元にクラウディスの黒い剣が深々と突き刺さっていた。

 チリッとした痛みを感じて触れた頬、その指先が鮮やかな真紅に濡れている。


「二度も逃がさぬと言ったはずだ」


 レティシアを傷つける目的で振り下ろされた剣。その柄を握っているのは、紛れもなくクラウディスだ。なのにその瞳は兄の面影をなくして、濃い赤に色を変えている。鮮血を連想させるその瞳が、ただただ不気味で恐ろしい。

 兄の姿をした何かが、目の前にいる。おぞましい剣を手にして、レティシアに狙いを定めている。レティシアを……殺そうとしている。


「レティシア!」


 クラウディスが再度剣を振り下ろす前に、二人の間を割って紅蓮の炎が吐き落とされた。邪を焼き尽くすイルヴァールの炎に、クラウディスが素早く後ろへ跳ねて距離を取る。

 狩りを邪魔されたというのに、その顔には愉悦の表情が浮かんでいた。


「目覚めたばかりで力が出せぬか? イルヴァール」


 遠目でもわかるクラウディスの異質な瞳の色は、アレスに夢の残像を、イルヴァールに過去の記憶を呼び起こさせた。


「おぬしは……っ!」


 その色を、知っている。

 絶望に泣き喚いたあの夜を、憎悪に塗り替えた真紅の雨。愛しい女の血に濡れた、その男の名は――。


「ヴァレス!」


 悲鳴に近い声をかき消して、空を割る雷鳴が轟いた。

 青空に影を落とすのは雷雲ではない。クラウディスの薙ぎ払った剣の衝撃波がそのまま黒い稲妻となり、意思を持つ魔物のようにイルヴァールの行く手を遮っていた。

 ゆらり蠢いて、蛇だか獣だかわからない形を取って、牙を剥き出し飛びかかってくる。剣で切ればそのぶん数を増やし、炎で焼けば周囲に満ちる瘴気から新たな魔物が生まれ出た。


「再会の挨拶だ。お前はそこでおとなしくしていろ」


 魔物に行く手を阻まれ、イルヴァールの白い体が瘴気に覆い隠されていく。その間にクラウディスはレティシアへ向き直り、これで最後だと告げるように武器を持たない左手をゆるりと差し伸べた。


「レティシア。お前の体を傷つけるのは本意ではない。おとなしく戻るというのなら……」

「戻りません」


 言葉を遮ってきっぱりと言い切ったレティシアに、クラウディスの顔から笑みが消えた。纏う邪気が、濃さを増す。


「そうか。ならば仕方ない」


 その顔に愁いの色が滲んだのは、ほんの一瞬。一呼吸分も待てずに振り上げられた黒い剣と、上空でイルヴァールの炎が爆ぜたのはほとんど同時だった。


「レティシア!」


 再度響いたアレスの声に顔を上げれば、瘴気の足止めを振り切って急降下するイルヴァールが見える。こちらに向かって手を伸ばすアレスの姿を確認した途端、レティシアの心が安堵とも焦りとも違う、言葉にできない思いに埋め尽くされた。


 戻らなければ。レティシアが帰る場所は、もうここにはない。

 失った故郷、友人、そしてクラウディス。何もない天界に悲しみは残れども、いまレティシアが戻りたいと願うのは――。


「アレス!」


 兄と、天界と。そして結晶石に囚われていた自分との決別を胸に、レティシアがアレスを求めて翼を広げる。

 どんな時もレティシアを守り、導いてくれたその腕を求めて手を伸ばした瞬間。


「羽を広げるなっ!!」


 怒号に近いアレスの声が響いたかと思うとそれをかき消して、レティシアの真後ろで風を切る鋭い音がした。



 羽根が舞う。

 乱れ散る弔花のごとき白い羽根を彩って、鮮血の雨が降り注ぐ。


 ねっとりとした瘴気の尾を引き摺りながら振り下ろされた剣は、獲物を狩ると同時に、役目を終えて砂のように崩れ落ちた。

 唯一の目的にのみ、効果を発する暗黒の剣。その黒き刃が切り落とすもの。それは。


 ――どさり、と。

 重い音を立てて、レティシアの片翼が切り落とされた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る