第6章 失われた片翼

第48話 ラスティーンの目覚め

 無音の空間。

 光も差さない場所だというのに、闇に覆われているわけでもない。辺りをぼんやりと照らすのは銀色の光。床を埋め尽くす銀髪が、星の輝きを真似て輝いている。

 髪の先を辿れば、そこに女の姿があった。

 岩壁を覆う太い木の根に絡まって、下半身はもはや判別できないほどに同化している。腕と頭を根に支えられ、かろうじて前を向いているという状態だ。

 女の瞼は開かない。けれども、どこからともなく小さな音が響いてくる。


 ――とくん。


 無音の空間を揺らすのは、弱く儚い鼓動音だ。もうずっと動かないままだった空間を、静かに、けれど確かに動かしていく。


 ――とくん。とくん。


 女の瞼は、まだ開かない。鼓動にあわせてさざめくのは、床を埋め尽くす銀色の髪の海だけ。

 さらさらと。あるいはざわざわと。

 時が来たことを告げるかのように、静かな波紋を広げていく。


 さざなみは合図。

 あとは目覚めの鍵を待つばかりだ。



 ***



 天界ラスティーンに、人の気配はどこにもなかった。

 上空から見下ろした城下町に荒れた様子はなかったが、綺麗に整備されたその景色が今は逆に不気味に見える。人も動物も、鳥さえもいない。流れる風すら、この地を避けているようだ。


 絵に描いたような、ただ美しいだけの場所。それとは逆に、城の方角は冷や汗が吹き出るほどの瘴気に溢れていた。瘴気と言っても、それは目に映らない。ただ空間を激しく歪ませて城を覆い隠し、虫一匹すら侵入を許さない結界の役割を兼ねているようだった。


「城の方は特に穢れているな。まずはあの目に見えぬ瘴気をどうにかせねばなるまい」

「イルヴァールの炎でどうにかならないのか? 飛竜の聖火よりも凄いんだろ?」


 隣で同じように城の方角を見ていたロッドが、自身の口元を腕で覆って顔を顰めている。獣人ゆえに、アレスにはわからない悪臭を嗅ぎ取っているのだろう。


「やってもよいが、それだと捕らわれている者たちを傷つけるやもしれんぞ。城の上空に幾つか人の気配がする。向こうの状況がわからないまま、外から強引に手を加えることは避けた方がよいだろう」

「何とかならないのか? あそこにはセリカもいるんだ!」


 逸る気持ちを抑えきれず少し先へ進んだロッドだったが、それ以上は飛竜が言うことを聞かなかった。


「落ち着け、ロッド。瘴気は何とかなる」

「本当か!」


 ロッドの進路を塞ぐように体を滑り込ませ、イルヴァールが眼下に広がる天界をぐるりと見回した。その視線の最後に行くつく場所は、やはり城の方角だ。


「レティシア。フェゼリアの大樹は、まだ枯れてはおらんな?」


 城の裏手。飛竜が乗り降りできるよう、少し広めに作られた裏庭に聳え立つのがフェゼリアの大樹だ。天界の象徴とも言える巨大な樹は、今は目に見えぬ瘴気の壁によって緑の葉一枚さえも覆い隠されている。


「は、はい。私が最後に見た時には、まだそこに」


 クラウディスから逃げ出した時のことを思い出せば、もう傷は治っているはずなのに体のあちこちが痛みに疼く。それでもうつむかないでいられるのは、アレスが強く手を握ってくれているからだ。


「ならば、内側から浄化しよう。フェゼリアの大樹の下に潜るぞ」

「え? どうやって?」

「もちろん地下からだ。ついてこい。あやつにも、目覚めてもらわねばならん」

「あいつとは?」


 そう訊ねたアレスをちらりと振り返って、イルヴァールが懐かしむように蒼い瞳をそっと細めた。


「神界最後の姫、ラスティーンだ」


 巨大な岩塊を空に浮かべたような国、それが天界だ。イルヴァールの向かった先、天界の真下にはごつごつとした岩肌が剥き出しになっている。その一角を目の前にしてイルヴァールが息を吹きかけると、まるで砂がこぼれ落ちるように古びた魔法陣が姿を現した。


「まさか、こんなところにラスティーンが眠っていたなんて……」


 驚きを隠せずに目を見開くレティシアの前で、イルヴァールの吐き出した炎が魔法陣に吸い込まれていく。掠れて読めそうもなかった魔法陣の文字が、イルヴァールの炎を吸収して赤く煌めいた。

 入口の役割として刻まれていた魔法陣が炎によって目を覚まし、天界の真下に飛竜が楽々通れるくらいの大穴が開く。暗いはずの岩壁には銀色の髪がびっしりと張り付いていて、ランプの代わりに辺りを白く照らしていた。


「目覚めは近いな。行くぞ。ラスティーンはもっと奥にいる」


 念のため誰も乗っていないアレスの飛竜のみ外に残して、アレスたちはイルヴァールと共に奥を目指した。

 進むほどに明るさが増す。かすかに聞こえるのは風の音だろうか。そう思案したが、開けた場所に辿り着いた時、アレスはそれが風の音ではないことを悟った。


 広い空間を埋め尽くした銀髪が、さざなみのように揺れている。壁も床も長い髪に埋め尽くされているから、まるで銀色の海にでもいるかのようだ。

 ゆっくりと着地したイルヴァールを避けるように、髪がざぁっと左右に割れる。その先を追って目を向けると、頭上よりも少し高い位置に、巨樹の根と同化した女の姿があった。


「あれが……ラスティーン」

「月下大戦後、わしもラスティーンも長い眠りについていた」


 背中からアレスとレティシアを下ろしてから、イルヴァールが再び翼を広げてラスティーンの近くまで上昇する。


「起きよ、ラスティーン。目覚めの時だ」


 イルヴァールの額に淡い青色の光が浮かび上がった。ラスティーンを傷つけぬよう、そっと鼻先を触れさせると、イルヴァールの青い光がすぅっとラスティーンの額へと吸い込まれていく。それと同時に、緩やかにさざめいていた銀髪の波がぴたりと止まった。

 急な静寂に戸惑い辺りを見回せば、そばに降り立ったイルヴァールが大丈夫だと告げるように頷いてみせる。


 静寂を待つ時間は、そう長くはなかった。

 とくん、とくんと。どこからか響く鼓動音に合わせて、空間を埋める銀髪が今度はラスティーンの方へ逆流するようにさざめき始めた。大きくうねるたびに、鼓動の音が強くなる。


「……あ」


 レティシアが声を漏らすと、ほぼ時を同じくして髪のさざなみが止まる。そしてゆっくりと、ラスティーンの瞼が動いた。


「――時が、来たのだな。イルヴァール」


 長い睫毛を揺らして開かれた瞼の奥、蒼穹の瞳はその色を完全に失っていた。それでも気配は感じるようで、灰色の瞳はまっすぐにイルヴァールの方を見つめている。


「長すぎる時の中で、私はどうやら光を失ったようだな。だがお前たちの気配は十分に感じているぞ。天界の姫レティシアに、イルヴァールの新しいあるじアレス。それに獣王ロッド。よくここまで辿り着いてくれた」

「なぜ俺たちの名前を知っている?」

「イルヴァールが記憶の共有をしてくれたからな。お前たちは今、天界に捕らわれている者たちを救出するためにここへ来たのだろう」


 イルヴァールの額に現れた青い光、おそらくあれがそうなのだろう。ちらりとイルヴァールを見れば小さく頷いて、「説明するより早い」と付け加えられた。


「城の周囲に見えぬ瘴気の結界が張られている。おぬしの力で、内側から瘴気を浄化してくれ」

「あぁ……そのようだな。禍々しい気配を感じる」

「な、なぁ、ラスティーン。瘴気は消せるのか? どれくらい時間がかかる?」


 さっきからずっと落ち着かない様子のロッドが、ついに我慢出来ずに口を挟んだ。不躾にも会話に割り込んだかたちになったが、ラスティーンは気分を害した様子もなく、逆にロッドの方へ視線を向けて淡く微笑み返した。


「時間などかからぬ。もう瘴気の壁は取り払われているだろう」

「えっ? 早っ! いつの間に……」

「私の目覚めと共に。フェゼリアの大樹を通して、私の魔力を結界内部に送り込んだ。穢れたものは存在することができぬ」

「さ……っすが、ラスティーン。ありがとう!」

「だが、私の力を跳ね返すほどの黒き力が中心にいるようだ。瘴気は取り除いたが、その者に対峙するのはお前たちだ」


 イルヴァールと共に伝説を作った戦姫も、今はフェゼリアの大樹の根元で目覚めたばかりだ。大樹と同化し、動けないラスティーンの力が、天界王に届かないのも無理はない。届いたところで、白魔法も使うクラウディスにその力が通用するのかは微妙なところなのだが。


「いや、瘴気を消してくれただけで十分だ。感謝する、ラスティーン」


 灰色の目が、じっとアレスを見つめた。色は変わってしまったが、その心の奥を探るような視線は、龍のゆりかごで見た夢のラスティーンと同じ鋭さを纏っている。


「竜使いアレス。……ヴァレスに似て、非なる者。お前の意思は強くとも、その願いはあまりに儚い」

「お前もイルヴァールと同じか」

「まっすぐすぎるゆえに、心配しているのだ」

「記憶を共有したのなら、俺が何を望むのかもわかっているはずだ。二度も言わせるな」

「そうか。ならば、もうこの話は終いだ。私もお前も、望む先は結晶石のない世界の平和だ。今は共に手を取ろう」


 何となく苛立つ気持ちを抑えきれずに顔を背ければ、不思議そうな顔をしたロッドと目が合ってしまった。


「なぁ、アレス。今の一体……」

「何でもない」

「そう、か? なら別にいいんだけど……何かあったらちゃんと言えよ」


 特に秘密にするようなこともないのだが、自分が何を望んでいるのか。その思いを改めて口にするのは、何となく恥ずかしいような気がした。それにその願いを、イルヴァールたちがなぜ揃って心配するのかもわからない。わからないから、漠然とした不安と苛立ちがアレスの奥底にひっそりと澱んでしまうのだ。


「大丈夫だ」


 自分に言い聞かせるように、アレスはぐっと強く拳を握りしめた。


「天界王に捕らわれた者たちを助けに行くのなら早いほうがいい。全部で四つ、生命の反応が弱っている」


 それを聞いて、真っ先にロッドが飛竜に跨がった。そのままアレスたちを置いて飛んでいくロッドに、さすがのアレスも慌ててイルヴァールの背中に飛び乗る。ロッドが一人で飛び出して、異界のガルフィアスに迷い込んだ記憶はまだ新しい。トラブルメーカーの獣王が問題を起こす前にとイルヴァールを上昇させれば、風を追ったラスティーンが灰色の目を不安げに細めてアレスたちを見上げた。


「イルヴァール。私はこの黒い魔力を知っている気がする」

「おぬしも感じたか」

「断定はできない。だが……油断はするな」


 空を覆うほどの邪悪な気配。決して消えることのない憎悪と慟哭が黒い魔力の向こうに垣間見えた気がして、イルヴァールは無意識にぶるりと翼を震わせた。


「何にせよ、確かめねばなるまい」


 そう言って飛んでいくイルヴァールの後ろ姿。その背に乗る同じ銀髪をしたレティシアを、ラスティーンは姿が消えてもずっと見つめ続けていた。



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