第47話 新たな主として

 世界のはじまりから存在し、すべての竜の頂点に立つ者。アレスたち竜使いが乗る飛竜は、神龍イルヴァールからこぼれ落ちた白い羽根から生まれたと言われている。

 長い時を生きる彼は、同じように長い時を眠りにあてることで生命を保っているのだろう。竜というより精霊に近い存在なのだと、アレスは神龍イルヴァールと対峙してそう思った。

 目の前にいるのは夢でも幻でもない。でこの時代に存在する、紛れもない竜なのだ。


「まさか本当に、生きている姿をこの目で見ることができるとはな」


 自然とこぼれたアレスの声に、イルヴァールがゆるりと顔を近付けた。体の大きさはアレスの飛竜と同じか、一回り大きいくらいなのに、肌に感じる威圧感が桁違いだ。軽く寄られるだけで呼吸が少し浅くなる。


「何だ? 知らずとわしを起こしに来たのか?」

「ここに神龍の加護があると聞いて来たんだ。月下大戦を戦ったイルヴァールの力が少しでもあるのなら、それを手にしたいと思って……。龍のゆりかごここに入った時から何となく違和感はあったが……直に目にした今も、正直まだ心が追いつかない」

「わしを目覚めさせるほどの力を持った者かと思えば、憧憬に心を揺らす幼い部分もあるのだな。いやしかし、それが何とも人間らしい」


 龍を崇め、飛竜と共に生きることを決めた、それが龍神界の民だ。この世界の誰よりも飛竜を愛し、理解するアレスたちの目の前に、その祖がいる。これが興奮せずにいられようか。

 それにこれは願ってもない好機だ。もしもイルヴァール本人の力を借りることができれば、クラウディスに捕らわれたロゼッタたちの奪還に強い希望が見えてくる。

 ここにあるのは加護なんていう優しいものではない。魔に絶対の力を持つ神龍イルヴァールの聖なる炎なのだ。


「して、竜使いがわしに何用だ? ただの憧れだけで来たわけでもあるまい」

「そうだ。時間がないから単刀直入に言うが、お前の力を借りて天界王に捕らわれた者たちを救出したい」

「天界? ……そうか、神界ののちの姿なのだな」


 長い時を眠っていたイルヴァールが、現代の世界を知る術はない。けれども何もない白い空間をしばらく見つめていたかと思うと、イルヴァールはやがてすべて合点がいったとでも言うように深く頷いた。


「おぬしが運命の姫を連れて来たということは、今は月下大戦の一万年後なのだろう。おぬしの強い声に呼び起こされはしたが、これもある意味、わしの運命なのかもしれぬな」

「俺たちが来ることを知っていたのか?」

「目覚めるべき時が来たということだ」

「レティシアがここに来ることを、お前は待っていたと?」


 どうにも腑に落ちない何かが、アレスの腹の底に溜まっていく。けれどもイルヴァールはそれに答えることはなく、ただ静かな青い瞳をアレスに向けるだけだった。


「あいつについて、お前は何を知っているんだ?」

「わしがそれに答えることはできぬ。ただひとつだけ言えるのは、ここがおぬしの分岐点だということだ。このままレティシアと共に進むというのであれば、その運命、そして結晶石を狙うヴァレスとの戦いに巻き込まれることになるぞ」

「元より承知だ。だからここにいる」


 一片の迷いもなく即答する。まっすぐに向けた深緑の瞳に宿る意思は揺るぎなく、逆にその強い思いがほんの少しだけイルヴァールの表情を曇らせた。


「どんな結果になっても、悔いることはないと? おぬしは今、誰よりもつらく苦しい選択をしたのだぞ」

「お前は一体なにが言いたいんだ。さっきのラスティーンといい、俺にはあいつを見殺しにしろと言っているようにしか聞こえない」

「……おぬしはまっすぐだな」


 僅かな沈黙のあと、イルヴァールが静かに呟いた。


「しかし、その強く高潔な意思が、わしを目覚めさせたのも事実。ゆえに、ここから先はわしもおぬしと共に在ろう」

「それは力を貸してくれるということか?」

「貸すも何も、おぬしはわしを目覚めさせたのだ。あるじと認めよう」


 首をもたげ、そのまま上半身を起こしたイルヴァールが、伸びでもするかのように六枚の翼を大きく広げた。緩やかに一度だけ羽ばたいた風に乗って、白い空間を形成していたイルヴァールの羽根が舞い上がる。

 壁から床から、はらりはらりと白い羽根が剥がれ落ちていく。その場所を埋めるように滲み出した色は蒼。羽根の白を染めて現れる光景はまるで蒼穹のようで、アレスは自分が空に浮かんでいるような不思議な感覚に軽い目眩を覚えた。


 ばさりと。今度は大きく、力強くイルヴァールが翼を広げる。頭上の遙か彼方で、の砕ける音がした。


「背に乗れ、アレス。ここはもう崩れる」


 戸惑いはほんの一瞬。慣れた手つきで飛び乗ると、準備はできたと言わんばかりにイルヴァールが澄んだ声音で啼いた。


 空が割れる。羽根が舞う。剥がれる夢を突き破って上昇した視界に、薄紫の花雨が降り注いだ。

 微睡みの蒼湖水エルスフォーリアに聳え立つ大樹、その枝いっぱいに咲き誇っていた薄紫色の花がはらはらと散り落ちて、蒼い湖面の色を変えている。


 夢の終わり。神龍イルヴァールの目覚めの時を同じくして、アレスも自分の運命が大きく動いたことを実感した。


「イルヴァール。お前とは長い付き合いになりそうだ」


 返事の代わりに、イルヴァールが咆哮した。それと同時に、ゆりかごの役目を終えた大樹が完全に色をなくし、微睡みの蒼湖水エルスフォーリアに溶け落ちるようにして消えていった。


 眼下では、消えた大樹のそばを旋回する二頭の飛竜が見える。その背に受け止められたレティシアたちの姿を確認すると、アレスの意図を瞬時に理解したイルヴァールがくるりと向きを変えて降下していく。

 飛竜たちに無事救出されたとはいえ、レティシアの手綱捌きはお世辞にも上手いとは言えない。落ちないように手綱を握りしめる姿があまりにも必死で、アレスは思わず声を漏らして小さく笑ってしまった。


「レティシア。こっちへ来い」

「アレス! その龍は……」


 レティシアがこちらを振り返った拍子に、彼女の乗った飛竜が神龍の気配にあてられてわずかに身震いする。その振動は頼りなく手綱を握るレティシアを弾き飛ばすには充分で。


「きゃっ」


 短い悲鳴と共に、レティシアの体が飛竜の背からずり落ちてしまった。


「ラスティーンの末裔であるというのに、此度の姫は何とも非力だな」

「だが、こう見えてなかなかに頑固だぞ」


 落ちるレティシアを掬い上げる二人の呼吸は驚くほどに重なり合っていて、ついさっき主従の絆を結んだとは思えないほどに自然だ。レティシアが落ちることを予想していたのか、それともアレスの心を読んだのか。特に命令せずとも、イルヴァールはアレスの思いを汲んで動いてくれる。まるで長年の付き合いであるかのように、アレスにとってイルヴァールとの絆はどの飛竜よりも相性がよかった。


「アレスー! よかった、無事だったんだな。いきなり樹が消えて焦ったんだぞ」

「ロッド。悪い、遅くなった」

「無事ならいいさ。それにそれって……もしかしなくても本物の神龍なのか?」

「おぬしが獣王ロッドか」


 そうイルヴァールが声をかけると、「うぉっ! 喋った!?」と驚きすぎて仰け反るロッドの姿が目に映った。喋ることなどゆりかごの夢で見ているだろうに……と思う反面、伝説の龍と会話が成り立つという現実に驚くことも理解はできた。アレスとて、未だに血が騒ぐような感覚でいるのだから。


「神龍の加護じゃなくて、神龍そのものが仲間になったってわけか。改めて考えると凄いな! ちょっと触ってみてもいいかな?」

「ふむ……、獣王にしては気質が少しやわらかすぎるが、まぁ、力については申し分ないだろう」

「俺、褒められてる?」

「さぁな」


 和みかけた雰囲気をかき消すように、冷たい風が吹き抜けた。その風に混ざるわずかな匂いを辿って首を巡らせたイルヴァールが、蒼い瞳を細めて遠い空の向こう――アレスたちには見えない天界の影を捉える。

 ひとつ所に定まらない浮遊国はいま、大陸を南北に分断するルヴァカーン山脈の近くにあった。ここからでは、急いでも二日はかかるだろう。けれどイルヴァールの脳裏に映る天界に、その猶予はないことが見て取れた。

 天界全体は、目に見えない不気味な影に覆い尽くされていた。


「思った以上に、現状は厳しいかもしれぬ」

「どういうことだ?」

「天界全体が嫌な空気に包まれている。急いだ方がいいぞ。おぬしら、準備はいいか? ――ぞ」


 大きく羽ばたいた翼から、幾枚もの白い羽根が舞い上がる。それらひとつひとつが淡く煌めきながらほどけ落ちると、アレスたちの周囲を細やかな光の粒子が包み込んだ。

 視界がぼやけて薄れていく。魔法都市アーヴァンで、メルドールの元へ飛ばされた時と似ている。そう感じた時にはもう、アレスの視界に映る景色は一変していた。


 ルヴァカーン山脈の青々とした尾根に影を落とすのは、天界ラスティーン。山脈から吹き抜ける清涼な風とはどうあっても混じり合わない、重くのし掛かる不穏な空気が空を覆い尽くしていた。


「あれが……天界ラスティーン」


 はじめて見るわけではない。国の姿が変わっているわけでもない。けれどアレスの目には、それがまったく知らない国のように見えてしまった。

 腕の中でレティシアがかすかに震えている。その手をそっと握りしめてやると、レティシアは唇を噛み締めたまま、大丈夫だと告げるように小さく頷いた。


「行くぞ」


 空をも覆い尽くす邪悪な空気を斬り裂いて、イルヴァールが先陣を切って飛んでいく。白い軌跡はまるで後戻りのできない境界線のように、青い空にどこまでも深く刻まれていった。




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