第46話 神龍の試練
動かない、鮮血にまみれた体。かき抱く腕に感じるのは、死の重みだ。
可憐な微笑みも、恥じらい朱に染める頬も。名を囁く小さな声音も、全部失った。すべて奪われた。死に逝く体を弔うことすら許されず、ぽっかりと穴の開いたこの世界にたったひとりで取り残される。
「エルティナ……」
慟哭する男が、腕に抱いて放さないのは銀髪の女。頬を濡らす涙を自分のものとして認識した瞬間、アレスの鼻腔を濃い血の臭いが突き刺した。
「……レティシア。逝くな……」
腕に抱くのはレティシア。振り乱した銀髪を、力なく萎れた翼を血に染めて、熱のない体をアレスに預けている。青い瞳を閉じ込めた瞼は、睫毛を少しも震わせることがない。
泣いているのはアレス。喜びを分かち合う前に失った命と、愛しい女の体をかき抱いて。己の無力と世の無常を呪い、悔いて、喉が枯れ果てるまで叫び続ける。
守れなかった。失った。奪われてしまった。
悲しみなのか怒りなのか。体の震えが止まらない。ぐちゃぐちゃに心が潰れて、自分が「ヴァレス」なのか「アレス」なのか曖昧になっていく。
『愛する者の死。それにお前は耐えられるのか? それともヴァレスのように壊れてしまうのか』
声が聞こえた。少ししわがれた声の主が誰なのか、アレスにはわかったような気がした。
『その愛が強いほど、残された者は……』
***
ゆっくりと、意識が覚醒していく。視界が不明瞭なのは、辺りを覆う薄紫の靄のせいだ。
長い夢を見ていたはずなのに、感覚は一度の瞬きを終えたくらいに短い。自分の足で立ち、水晶を囲んだままの状態で、目覚めた意識だけがぼんやりとしている。そのちぐはぐな感覚に視界が揺らぎ、アレスたちは揃って座り込んでしまった。
「……っ、何だ今の」
尻餅をついたロッドが頭を強く振る横で、レティシアが胸を押さえて蹲っている。具合でも悪いのかと思い、体を支えてやると、アレスを見上げた青い瞳から止めどなく涙がこぼれ落ちていた。
「大丈夫か?」
「私、どうして……」
頬を濡らす涙を、レティシアは自分でも理解していないようだった。体に封印された月の結晶石が共鳴でもしているのだろうか。惨劇を嘆き涙を流すレティシアの姿は、同じ銀髪のエルティナと重なってアレスの胸に言い知れぬ不安を呼び起こした。
「
「そう……ですね」
返事をしたものの、レティシアの表情は暗いままだ。悪の象徴として心に刻まれていた魔界王の過去を知り、同情と憎しみのあいだで揺れ動く思いをうまく消化できていないのかもしれない。それにエルティナは、良くも悪くもレティシアに似過ぎていた。
夢の終わり。血まみれのレティシアを抱く自分の姿を見たような気がして、アレスはぞくりと背筋を震わせた。
「でもさ……何か、似てたよな。ヴァレスとエルティナ……お前たちに」
「自分のことはわからないが、エルティナは確かに似ていたな。物の考え方や行動も。エルティナやレティシアが他人に尽くしがちなのは、もしかしたらバルザックの行いに対して贖罪の念が強いのかもしれないな」
父であるバルザックの非道を止められなかったエルティナの贖罪。
結晶石を生み出してしまった祖先の罪を背負い、世界の安寧のために自由を捨てて見守ることに徹したレティシアたち天界の民。
魔界王ヴァレスの痛みを知り、それでも彼にとって最後の敵であることを決意し、同胞たちの血に濡れた神界最後の姫ラスティーンも。彼女たちの行動の根底には、自己犠牲による罪の償いがあるように思えた。
たったひとりの男バルザックの重ねた罪が、長い時を経てもなお汚れた血の鎖でレティシアたちを捕まえている。彼女たちの美しい翼に絡みついた呪いの鎖を断ち切るためには、やはり月の結晶石はこの世にあってはならないものなのだとアレスは改めて実感した。
『魔界王ヴァレスは、愛を選んだ』
唐突に、声が聞こえた。薄紫の靄を揺らして、それは夢の名残のように曖昧な音で響いてくる。壁の軋む音か、それとも風の吹き抜ける音か。レティシアとロッドには途切れて届くその声が、アレスにだけははっきりと聞こえていた。
夢の終わりに響いた、あの声だった。
『竜使いアレス。おぬしはどうする? 愛する者と世界、それらを天秤にかけることができるのか?』
足元に、小さな風が渦を巻く。薄紫色の靄を巻き取って尾を引く風に、どこからともなく光の鱗粉が絡みついた。
『おぬしらが進む道に、光は僅かだ。ヴァレスが辿った悪夢よりもつらい現実が待ち受けているかもしれない。それでも』
くるくると、光の粉を纏って踊る風が消えた。
『それでも進むというのなら、わしの元へ来るがいい』
声と風が消える代わりに、アレスたちの足元には淡く発光する白い光の穴が出現していた。転送魔法の類いだろうと予想はつくが、陣を形成する魔法文字がどこにも見当たらない。覗き込んでも穴の中はただ白いばかりで、時々うねる
「うお! 何だ、これ? いきなり現れたぞ」
「アレス……これは」
二人にはやっぱり声のすべてが聞き取れなかったらしい。突然現れた白い穴を見て、驚きと戸惑いの表情を浮かべている。
「大丈夫だ。敵意はない」
「確かに禍々しい気配は感じませんが……でも何があるかわからない以上、安心はできません」
「俺にだけ、はっきりと声が聞こえた。……呼ばれたんだ」
「呼ばれたって……誰にだよ」
「俺は竜使いだぞ」
疑問符を浮かべるロッドを一瞥し、アレスが僅かに口角を上げて笑う。自分でも知らないうちに、気持ちが高揚しているようだ。逸る気持ちを抑えるために一度深く息を吸い込んで、再び足元に現れた白い穴の先をのぞき見る。
「ここは
「……神龍、イルヴァール」
続きを受け取って答えたレティシアに、アレスは力強く頷いてみせた。竜使いであるアレスだからこそ、聞くことの出来た声。そしてアレスを
「おそらくな。それを確かめに行ってくる」
迷いなく光の中へ足を踏み入れ、安心させるように二人を振り返る。けれどアレスの視界はもうやわらかな白に染められて、他の色を何ひとつ拾うことはなかった。
『ヴァレスと同じ、強い信念を持つ者よ。おぬしを突き動かすものが何なのか、その願いを見せてみろ』
再び頭に響く声と共に、白いだけの空間に細い銀色の筋が流れた。ひとつ、ふたつと瞬く間に数を増して流れるそれは、やがて床をも埋め尽くす銀髪に変わる。まるで星屑の海の上に立っているようだ。
波紋を揺らすように、銀髪がさざめく。その先にひとりの女が立っていた。レティシアともエルティナとも違う、銀色の甲冑を纏う彼女は勇ましく剣を振るう戦乙女を連想させた。
「ラスティーン」
こぼれ落ちた名を肯定するように、女――ラスティーンが静かに瞼を閉じた。
『お前はヴァレスをどう思う?』
ラスティーンの声音に引き摺られて、まだ新しい記憶の扉からさっき見た夢の光景がアレスの脳内に浮かび上がった。同じ銀髪を持つ女を愛したヴァレスの過去は、意図せずとも無意識にアレス自身へと置き換えられる。エルティナはレティシアで。血まみれの体を抱いて泣き叫ぶのは、ヴァレスではなくアレス本人なのだと勘違いするほどに。
『ヴァレスはお前だ。お前もきっと、ヴァレスと同じように壊れるのだろう』
「奴と一緒にするな。あいつは俺が守る」
『そう言って、ヴァレスもエルティナを失った。壊れた男は奪われた愛を取り戻すためだけに動く。他はどうなっても構わない。奴の世界はエルティナだけだ』
ラスティーンの青い瞳が、探るようにアレスを見据えた。瞬きもなく、じっと心の奥を覗き込む青はどこまでも冷たい輝きで、その場しのぎの言葉など何も通用しないのだと思い知らされる。
『お前はどうだ? 竜使いアレス。世界とレティシア。愛する者を、命の天秤にかけることができるのか?』
「何だと?」
『レティシアは死ぬ。そういう運命なのだ』
カッと頭に血が上るのがわかった。怒りにまかせて掴みかかろうとする体を、腰に佩いた剣の柄を強く握りしめることで自制する。
ここは神龍の加護が眠る神聖な場所だ。そんな場所まで来たと言うのに、まさかここでもレティシアの人生を決めつけられるとは思わなかった。
『再度、問おう。世界とレティシア、お前にはどちらが必要だ?』
なぜそんな選択を迫られるのか、アレスにはその理由がまるでわからなかった。意味のない問答に激しい憤りが収まらない。どうしても答えよというのであれば、アレスが言えることはただひとつだ。レティシアを守らない世界など、いらない。
「レティシアの命は、世界よりも重い」
言葉にすることで、心がするりとあるべき型に嵌まっていく。なぜレティシアを放っておけないのか。死に急ぐ彼女を、こちら側へ引き止めたいと願うのか。
惹かれていることは自覚していた。けれどもそれ以上に、レティシアはもう自分の一部になりかけているのだ。
レティシアを失うことは、自分をなくすことと同じだ。
『やはりお前もヴァレスと同じ道を辿るのか』
「いいや、同じじゃない」
即座に否定して、アレスがラスティーンをまっすぐに見つめる。
望んだかたちではなかったが、初めて目にする下界のすべてに目を輝かせて笑っていたレティシア。子供の食べる菓子と安い茶で満足する天界の姫は、まだ見ぬ世界を思ってささやかな願いを叶えようと、ようやく前に進み出したばかりだ。
そんなレティシアの夢を叶えてやりたい。何の憂いもなく、ただ純粋に新しいものに触れる楽しみを教えてやりたい。だから。
「俺はあいつが夢を描くこの世界も守りたい」
目の前で、初めてラスティーンが困惑した表情を浮かべた。
二択しかない選択をわがままにふたつとも手にして救いたいと願う。それがどれほど傲慢なのかわかっていても、アレスは求めることをやめられなかった。
「だからだ。だから俺は……俺たちはここに来た。未来を掴む力を手にしたい」
剣の柄から離した手で、ぐっと強く拳を握りしめる。
「レティシアを、世界を守るために……お前の力を貸してくれ。神龍イルヴァール」
揺るぎない意思を秘めた深緑の瞳と、真意を見定めようとする青い瞳がぶつかり合う。絡まる視線は一呼吸分にも、あるいは数刻分にも思えた。
先に睫毛を揺らしたのはラスティーンの方だった。
『愛する者を守る力は何よりも強い』
ばさり、と。ラスティーンの背で、白い翼が大きく羽ばたいた。その背にあるには大きすぎる、六枚の白い翼。ラスティーンの姿も、空間を埋め尽くす銀髪もすべて呑み込んで、アレスの視界は再びやわらかい純白に覆われていく。
『深すぎる愛によって壊れた男を救うには、同じように強い信念と愛を持つ者の声かもしれぬ』
ラスティーンのものではない、少ししわがれた声がする。音の出所を探って首を巡らせた先、真っ白な空間の一部がずるりと動く気配がした。
純白の視界が揺れる。白い羽根が舞い上がる。頬にかすかな風の流れを感じて目を開くと、アレスの正面に海を固めたような深い青色の光がふたつ浮いていた。
「よくここまで来たな。竜使いのアレスよ」
明瞭になる声と共に、青い光がゆっくりと点滅する。それが巨大な龍の瞬きだとわかるまでに数秒を要した。
やわらかな白の空間は、神龍イルヴァールの羽毛に覆われた巨大な体。青く聡明に輝く瞳の色は、どことなく精霊界の蒼水晶を思わせる。
「神龍、イルヴァール」
純白の体に青い瞳を持ち、その巨体を支えるのは背についた六枚の大きな翼。はるか昔から生きてきた伝説の龍は、月下大戦でラスティーンと共に戦った当時の姿のままでアレスの目の前に姿を現した。
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