第45話 魔界王の誕生
天を割ったかのような轟音と共に、シュレイクが大きく揺れた。地底深くの洞窟であるというのに、この地まで届く振動にシュレイクの住民が揃って目を覚ます。
初めは地下洞の奥、魔物を封じた結界が破壊されたのかと思った。けれど聞こえてくるエルティナの悲鳴に近い叫びに、そうではないのだと瞬時に悟る。
「みんな逃げて! 早く……っ、神殿の結界を抜けて森へ!」
何が起こったのかわからないまま通路を走っていく人の群れに紛れて、額から血を流して叫ぶエルティナの姿が見えた。
「エルティナ! 何があった!? その傷は……」
「早く逃げて。バルザックがみんなを……っ」
エルティナの声を遮って、地下洞が再び大きく揺れた。
「逃げても無駄だ、エルティナ!」
バルザックの野太い声が響くと同時に、誰のものかもわからない悲鳴が上がる。それを合図に、地下洞の奥から逃げ惑う人の足音と悲鳴、そして血の噴き出す音が空気を震わせた。
「あぁ……ごめんなさい。ごめんなさい。私がもっとしっかりしていれば……」
「大丈夫だ、エルティナ。俺たちも逃げるぞ!」
混乱する人の波に押し潰されないよう手を引けば、ヴァレスの予想に反してエルティナが緩く首を横に振った。涙の滲んだ青い瞳が、別れの決意に揺れている。
「私が足止めをします。その間にヴァレスは逃げて」
「何を言ってる!? お前も一緒に逃げるんだ!」
「あなたを逃がすくらいなら何とか時間が稼げるから……お願い」
「ダメだ! お前がいないなら意味がない」
またひとつ、甲高い悲鳴が上がった。
「どこだ、エルティナ! お前を穢した男と共に葬ってやる。その腹に宿る忌まわしき種を殺させろ!」
地下洞の奥から響く怒号に、ヴァレスの動きが一瞬止まった。肩を掴んだ手に力を込めると、その視線から逃げるようにエルティナが目を伏せる。
「エルティナ……。子供が……?」
否定も肯定もしない。エルティナはただ俯いて唇を噛み締めているだけだ。その間にも悲鳴と怒号は確実にヴァレスの方へ近付いていて、充分な思考をする暇を与えてはくれない。
「ヴァレス! お前たち、まだこんなところにいたのか!」
その時間を強引に引き戻したのは、モーリスだった。
「奴がもうそこまで来てるんだぞ。さっさと逃げろ!」
「モーリス」
「何をしてでも一番に逃げなきゃならんのはお前たちだろうが! 腹の子を殺されてもいいのかっ!?」
バルザックの言葉は複雑に入り組んだ地下洞に響いて、ヴァレスたちのみならず、ここにいたすべての者に届いてしまっていた。
突然の襲撃。その原因が自分たちにあることを暴露されたのだ。彼らの怒りがバルザックからヴァレスたちに向くのは当然だ。それなのにモーリスをはじめ、その場にいた者たちの眼差しにふたりを非難する色は少しもない。
「モーリス、私……っ」
「自分を責めないで下さい、エルティナ様。俺たちは元々ここで死んでいた命だ。それをあなたに救われた」
モーリスの節くれだった大きな手が、エルティナの両手を優しく包み込む。向けられた手向けの笑顔は、まるで本当の父親のようにあたたかかった。
「今度は俺たちに恩返しをさせて下さい」
「モーリス……だめ。……だめよ、行かないで」
名残惜しそうに離された手は、今度はヴァレスの肩へ強く置かれて。
「ヴァレス。エルティナ様を頼んだぞ」
言葉よりも、ただしっかりと頷き返すことで、ヴァレスはモーリスの決意を受け取った。
***
地下神殿を抜けた先、鬱蒼と広がる樹海は身を隠すのにちょうどいい。何人の者たちが逃げ出せたのかはわからない。エルティナの手を引いて走るヴァレスの視界には、月光も差さない漆黒に満ちた森だけが延々と続いていた。
誰かの手を引いて逃げる様は、ヴァレスが家族を失った惨劇の夜に似ている。忌まわしい記憶にぞくりと背筋を震わせて足を止めた瞬間。背後から耳を
空を覆うほどの大樹の群れは、地面に倒れる前に新たにぶつけられた風刃によって粉々に吹き飛んでいく。巻き上がる粉塵に覆われた視界を取り戻した時、ヴァレスたちは樹海という隠れ蓑を失って、何もない空き地に呆然と立ち尽くしていた。
「……っ! こっちだ!」
まだ森の残る場所へ身を隠そうと逃げ込むも、間髪入れずに木々が吹き飛んでいく。バルザックの姿は目視できない。けれど体を押し潰すほどの威圧感が、辺りの地面を沈み込ませるほどに濃く満ちすぎていた。
「醜い虫けらの分際で、よくもエルティナを穢しおったな」
声がする。背後から、前方から。姿の見えないバルザックの声だけが、木々を失った樹海に響く。
逃げ場などどこにもない。それでもエルティナだけは守ろうと抱きしめた腕が――
「放してっ!」
エルティナの声に顔を向けた先。細い三日月を背にして翼を広げたバルザックの姿が見える。その腕に捕らわれたエルティナの腹へ突き付けられているのは、血に濡れた大剣の刃だ。
「やめろっ、バルザック。エルティナを放せ!」
「なぜ私がお前ごとき奴隷の言葉を聞かねばならぬ。お前はここでエルティナと死ぬのだ!」
「やめろっ!」
ぐり、と剣の切っ先がエルティナの柔肌を裂く。白い服にじわりと滲む赤を目にして絶叫したヴァレスを一瞥し、バルザックがその手を一瞬だけ止めた。
「……お前は、魔眼の一族か? あのとき一家もろとも殺したはずだが、醜く生にしがみ付いていたか」
「俺を殺したいならそうしろ!」
「無論お前も殺す」
間髪入れずに言い捨てて、値踏みするように見下ろしたバルザックのその口元。にやりと、抑えきれない愉悦の笑みがうっすらと滲んでいる。
「魔物を操るという魔眼の一族。念には念を入れて皆殺しにしたが、覚醒する術を失った生き残りなど恐るるに足らん」
いたぶるように。ヴァレスの見ている前で、バルザックが更に剣を深く食い込ませた。声にならないエルティナの悲鳴に、ヴァレスの覇気が萎んでいく。
「やめろ、バルザック。……殺さないでくれ」
恥も怒りも呑み込んで、ただ切に哀願する。
「……娘だぞ」
「それがどうした」
一縷の望みを
バルザックの大剣が、エルティナの腹を縦に斬り裂いた。
真白の月を抱く夜空の黒を塗り替えて、見開いたヴァレスの視界が生温かい真紅に染め上げられる。地面を、ヴァレスを濡らすのは雨ではなく、――それはエルティナの。
「……ぁ……あぁ……」
びちゃり、と。
血溜まりの中に放り投げられたエルティナの体をかき抱いて、ヴァレスが声にならない悲鳴を上げた。叫んで、喚いて。溢れる鮮血を止めようと、両手で必死に押さえつける。
その手が、その髪が。涙を流す双眸ですら、エルティナの血に染まっていた。
「エル……ティナ。……エルティナ、だめだ……目を開けろ」
「……レ、ス……」
吐息よりも小さく、浅い呼吸にわずかな音を乗せてエルティナがヴァレスの胸に額を寄せた。
「……な、さい……。守れ、なくて……」
「だめ、だ。……だめだ、逝くな。……俺を残して逝かないでくれ!」
はらはらと、エルティナの体が淡い光に
ただ唯一、ヴァレスを染め上げた鮮血の色だけがエルティナの跡を残すだけだ。
「……ティナ? エル、ティナ……」
「血を穢したエルティナの体は二度と人目に触れぬよう封印する。お前はここで、ひとり醜く朽ち果てろ」
目の前に、影が落ちた。もはや顔を上げる気力すらなく、ヴァレスはバルザックに髪を掴まれるがまま仰け反った。
嫌味なほどにゆっくりと、その胸に剣を突き立てられても。ヴァレスはもう、悲鳴ひとつ上げることはなかった。
***
冷たい風が吹く。
濃く残る血の臭いを巻き上げて、
頼りない三日月の光が照らすのは、血溜まりの中、大剣に刺し貫かれた真紅の男。大剣を楔にして、空を仰いだまま事切れている。
仰け反った体が、その重みで更に大剣に食い込んでいく。ずり、……ずり、と夜に忍び寄る音を立てているのは、ヴァレスの体だけではなかった。
シュレイクの地下洞。その奥の大穴に封じられていた魔物たちが、黒い瘴気を纏った姿で這い出していた。それらはぐねぐねと蠢きながら、確かな意思を持ってヴァレスの周りに集まっている。
『エルティナ』
鼓動を止めたはずの体に、エルティナを呼ぶ自分の声が木霊する。その音に導かれて、暗闇だった意識の向こうにエルティナの姿が浮かび上がった。微笑んで、伸ばされた指先が、ヴァレスの頬に触れる。
――ヴァレス。愛しているわ。
どくん、と。死んだはずの心臓が強く脈打つ。血の滴る指先がかすかに動き、強く拳を握りしめる。
「……ない。……俺は、まだ……っ、死ねない!」
歓喜するように、瘴気が膨れ上がった。惨劇に濡れた血の森を、今度は腐臭に満ちる
『真ノ姿ヲ、取リ戻シ』
『我ラノ、王ニ成ラン事ヲ』
増殖する瘴気が捕食するようにヴァレスに覆い被さり、その姿を完全に内側へと取り込んだ。その間も辺りを覆う深淵の闇は濃さを増し、触れたそばから木々は風化し、大地はメキメキと音を立てて干からびていく。
『誕生ダ』
『誕生ダ!』
『我ラガ王。魔界王ノ誕生ダ!』
空まで跳ね上がる勢いで膨れ上がった瘴気の中から、白い手が滑り落ちた。
赤い髪。赤い瞳。翻る闇をマントにして、黒衣を纏ったヴァレスが瘴気の中から姿を現した。かつん、と乾いた音を響かせて一歩踏み出したその足元。未だ残る血溜まりを一瞥し、脳裏に何かを思い浮かべるように瞼を閉じる。
「俺の目的はただひとつ。エルティナをよみがえらせることだけだ」
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