第44話 怒れるバルザック

 エルティナが目を覚ますと、そこはシュレイクでヴァレスに宛がわれた部屋だった。ぼやけた視界に、心配そうに見下ろすヴァレスが映る。そこで意識が一気に覚醒した。


「わたし……っ」

「大丈夫だ。落ち着け」

「結界が! 魔物が溢れてっ」

「魔物は大穴へ戻った。怪我人もいないから安心しろ」


 起き上がりかけた体をやんわりと押し止められ、エルティナが困惑した表情のままヴァレスを見つめた。


「戻った? どうして……?」

「さぁな。さっき様子を見に行ったが、這い出てくる気配はなかった。だからお前はもう少し寝ていろ」

「……でも」

「お前が倒れては意味がないだろう? モーリスも、他の奴らも心配していた」


 有無を言わさず体をベッドに戻されると、そのままヴァレスの右手で視界を奪われる。無骨な、けれど優しいぬくもりを瞼に感じると、思いがけず涙腺が緩んでしまった。


「何を泣く?」

「……不安、なんです。みんなをちゃんと逃がすことができるのか。この計画は間違っていないのか。父が気付く前に、私はみんなにかけられた魔法を解かなくちゃいけないのに。……私にもっと力があれば、早く」

「お前はよくやってくれている」


 言葉を被せられ、続くはずの弱音がエルティナの喉で止まる。


「魔法に関して、俺はお前の手助けをしてやることはできない。その代わり、お前がして欲しいことは何でもやってやる。だから遠慮なく俺を使え」

「ヴァレス……」

「今はもう、俺はお前の思いを疑ったりはしない」


 瞼を覆う、大きな手が優しい。その熱が心に染み込んで、エルティナの不安に怯える心をやわらかく包んでくれる。

 ヴァレスに認められることがこんなにも心を穏やかにする。それを嬉しいと思う感情に気付いた時、エルティナの中で小さな蕾が花びらを開いてしまった。


 認めてしまえば思いは募るばかりで。恋情が重なり合えば思うだけでは物足りず。

 躊躇いがちに触れたくちびるが合図となって、エルティナとヴァレスを永遠に絡め取る悲劇の幕が上がった。



 ***



 月のものが遅れていることに気付いたのは、ちょうどすべての人にかけられた拘束の魔法を無効化した頃だった。最後が近いと少し無理をしたことが、体の不調を訴えたのだと最初は思った。

 けれど食事もろくに喉を通らず、常に嘔気に悩まされてしまえば、もう自分の体に何が起こっているのか疑う余地はどこにもなかった。


 今まで感じたこともない喜びと同時に、押し潰されそうなほどの不安がエルティナを襲う。バルザックに知られたらと思うと、恐怖で体が竦み上がってしまうのだ。けれどその恐怖を上回るほどの決意が、エルティナの中に確かに生まれていた。


 愛するひととの子を守る。

 そのために、エルティナは神界から逃げることを決意した。



「お母様」


 北の塔に隔離されているエルティナの母リゼフィーネは、今夜も窓際の椅子に腰掛けてぼんやりと月を見上げていた。虚ろな青い瞳が本当に月を映し出しているのかはわからない。精神を病んだリゼフィーネは生きる屍の如く、その視線が交わることもなければ声を発することもない。ただ体に血が巡っているから、動いているようなものだ。

 それでもエルティナは、毎日この塔へ足を運んだ。リゼフィーネが起きている時は他愛ない話を、寝ている時はその手を握りしめて唯一の絆を繋ぎ直す。リゼフィーネが応えることはなかったが、短いながらも母子の時間はエルティナにとって心安らぐひとときとなっていた。


「お母様。今日は私、お別れを言いに来ました」


 椅子のそばに腰を下ろし、そっとリゼフィーネの手を取った。絹のように滑らかな手は、少しだけ冷たい。


「私、神界を出て行きます。もうここへ戻ることはないでしょう」


 リゼフィーネは相変わらず夜空を見上げていて、今夜も二人の視線が重なることはなかった。


 リゼフィーネは、元は王家とは何の縁もない市井の者だったという。バルザックにも引けを取らないほどの魔力を有していたために、望まぬ結婚にその身を奪われたのだ。高貴な血を強いままで維持していくために血族婚を繰り返していた王家の家系図に、銀髪ではない者の名が記されたのは初めてのことだった。


 より強い力を求めたからなのか、それとも心底惚れたからなのかはわからない。けれども攫うようにリゼフィーネを娶ったバルザックの行動は、きっと優しいものではなかったのだろう。命がこぼれていくように、リゼフィーネの髪からは色が抜け落ちてしまった。


 生の輝きを失った真白の髪をそっと掻き分けて、エルティナはリゼフィーネの額に別れのキスを落とした。そのまま耳元に唇を寄せて、秘密を打ち明けるように小さな声で囁く。二人だけしかいない静かな部屋に、わずかな声も漏らさぬように。


「愛するひとができました。彼と、新しい命と共に生きていきます」


 まだ膨らんでもいない腹部にリゼフィーネの手を当てると、ほんの少しだけその指先が動いたような気がした。


「どうか、お元気で」


 もう二度と会うことはないなろう。それでも、願わくばいつの日か心を取り戻し、血塗られたこの城から自由に飛び立てますようにと。そう淡い祈りを込めて、エルティナは北の塔を後にした。



 ***



 まるで獣の爪のように細く尖った三日月だった。漆黒の夜空を照らすほどの灯りもなく、けれど人知れず城を抜け出そうとするエルティナにとっては都合のいい闇が広がっている。

 部屋の灯りは消したままで、バルコニーへ出る。見下ろす城下町の灯りもまばらで、下界へ降りていくエルティナの姿が人に目に映ることはないだろう。

 何の未練もない部屋を振り返ることもなく、その背に二枚の翼を具現させたところで――不意に空気の温度が下がった。


「どこへ行くつもりだ」


 背後の気配がより強く冷気を纏って、エルティナにゆっくりと近付いた。振り返るまでもない。この血さえ凍らせてしまうほどの強烈な怒気、その圧迫感を同じ城に住むエルティナは嫌と言うほど知っている。


「お父様……っ」

「戯れはほどほどにしろと言ったはずだぞ」


 一歩、また一歩と近付いてくるバルザックのその手には、彼が幾人もの命を奪った剣が抜き身のまま握られている。その剣身は磨き抜かれて銀色に反射しているのに、エルティナの目にはどす黒く汚れた色に見えてしまった。


「下界に降りることについては黙認していたが、お前がここを出て行くというのなら話は別だ。お前には罰を与えねばならぬ。もちろんシュレイクの奴隷たちにもな」

「……っ! 彼らに罪はありません!」

「罪がないだと?」


 声のトーンが下がった。闇の中でも獲物を捕らえて逃がさないバルザックの青い瞳が、一切の熱をなくしてエルティナを見据えていた。心臓を凍らせてしまうほどの眼差しは、血を分けた娘に向けられるものとは思えないほどに鋭い。

 バルザックは今、エルティナを罪人として見ている。その、初めて自分に対して向けられる冷酷な光に、エルティナは体の震えを止めることができなかった。


「奴隷の分際でありながらお前に種を植え付けた男に罪がないとでも?」

「……っ!」

「お前も同罪だ、エルティナ。神界人の誇りを失い、奴隷如きに肌を許した愚か者が」


 無意識に腹部を庇うエルティナに、バルザックが顔を歪めて鼻を鳴らした。


「だが今ここでお前が罪を悔い、今後一切シュレイクへ降りないと誓うのなら、命だけは助けてやろう。無論、奴隷の血が混ざったは始末するがな」


 剣の切っ先で腹部を指され、エルティナの背筋がぞくりと凍る。

 バルザックは本気だ。本気で宿ったばかりの小さな命を刈り取ろうとしている。神界に残ってもシュレイクへ降りても、エルティナに残るものは何もない。


「……私はもう、戻りません。この子も殺させはしない!」

「馬鹿が! お前ひとりの問題ではないのだぞ。お前が行くというのなら、シュレイクの奴隷は皆殺しだ!」

「彼らは私たちと何も変わらないわ。どうしてわかってくれないの! どうして彼らを助けてはいけないの? 愛してはいけないの? 私はこんな城にいるよりシュレイクにいた方がよっぽど幸せだったわ!」

「恥を知れ! お前はもう私の娘でも何でもない。ただの罪人だ!」


 雷鳴が落ちたかのように、空気がびりびりと振動した。振り上げられた剣に赤黒い靄が纏わり付き、銀色の剣身が今まで吸った鮮血の分だけぬらりと輝く。


「神界人の面汚しがっ。お前という汚点をこの世界から完全に消し去ってくれる!」


 激昂するバルザックがその剣を振り下ろした瞬間。銀色の軌跡を掠めて、エルティナの姿が淡い光にほどけながら消えていった。



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