第43話 ヴァレスとエルティナ

「エルティナ様。昨夜の男、目が覚めました」


 散々迷った挙げ句、エルティナは今日もシュレイクに降り立った。この行為すべてがバルザックに筒抜けだったとしても、もう彼らを見捨てることなどできはしない。


「エルティナ様の治癒魔法のおかげもあるでしょうが、それにしても奴の回復力には正直驚きました。数日は目覚めないもんだと思ってたんですがね」

「もう動けるんですか? 傷は……」

「腹の大穴も綺麗さっぱりですよ。おまけに地底に落とされたとは思えないほど顔色もいい。何なんですかね、アイツ。化け物みたいだ」

「モーリス」


 咎められ、モーリスが「あ」と声を漏らして口を噤んだ。親子ほども年の離れたモーリスが、叱られた子供のようにしゅんと項垂れる。


「すみません」

「大事に至らなくて良かったです。他に変わったことは何もありませんか?」

「あぁ……体は、今のところ特には」


 言い淀むモーリスを見て、エルティナは悟る。彼もまた、バルザックに対する激しい怒りを抑え切れていないのだと。

 このシュレイクには様々な怒りを抱えた者が多くいる。理不尽に罪を着せられた者や家族を殺された者。彼らの怒りは消えることなく、それはこの地へ降りたエルティナへ矛先を変えて向けられる。シュレイクへ落とされた者は、誰でも最初にエルティナを憎むのだ。

 今はそういった者たちの心のケアを、モーリスを初めとした古株の住人たちが行ってくれている。


「そうですか。……では、私は地下洞の奥へ結界の修復に行きますね」

「俺も一緒に……」

「ひとりで大丈夫ですよ。モーリスは彼についてあげて下さい。ここに来て、まだ色々と混乱しているでしょうから」


 年の功なのか、それともシュレイクで長くエルティナの補佐についているからか。ひとりで奥へ進むエルティナの後を、モーリスは黙って見送ってくれた。


 向けられる敵意は、仕方ないことだと割り切っている。けれどこれからも慣れることはないし、きっとそのたびにエルティナの心には小さな棘が刺さり続けるのだろう。その痛みこそがバルザックを止められない自分への罰なのだと、エルティナは軋む胸を抑えながら地下洞の奥へと進んでいった。



 ***



 複雑に入り組んだ地下洞の奥。そこには禍々しい気を放つ暗黒の深淵が広がっている。

 地底のシュレイクよりも更に下から這い上がってくるものが、魔物だ。一応結界は張られているものの、長いあいだ放置されていたのか、その効力は無に等しい。エルティナが定期的に結界を修復しているからこそ、このシュレイクは魔物の餌場にならずに済んでいるのだ。


 ここがいわゆる「人捨て場」になる前から、魔物はこの大穴から生まれてきたという。そんな場所へ彼らを投げ入れるバルザックの行為に、エルティナの心の芯が冷えていく。彼にはもう、人としての感情が宿っていない。そんな男と同じ血が流れていると想像するだけで、エルティナの体は拒絶に震えた。


「奴の娘がいると聞いたが、本当だったんだな」


 背後から抱きすくめられるようにして自由を奪われたのは、エルティナが結界を修復し終えたその時だった。気遣いなど欠片もない無骨な手に首を鷲掴みにされ、仰け反った背が弧を描く。爪先が地面を擦り、蹴られた小石が結界を震わせながら大穴の闇に呑み込まれていった。


「……ぁ……っ」

「娘の首を送りつけたら、奴はどんな顔をするんだろうな」


 首を掴む手に力が込められる。これが罰なら望んで受け入れようと思うのに、体は空気を求めて醜く足掻いてしまう。そんな本能に嫌気が差し、涙がこぼれた。


「私を殺すことで気が晴れるのなら構いません。けれど父は……バルザックは、私が死んでも……変わることは、ないと……」

「殺されてもいいと?」

「あなたが、そうしたいのであれば」


 続く沈黙の中、エルティナを拘束する男の力が緩められていく。それでも抜け出していいのか迷っているうちに背を押され、エルティナは改めて男と正面から向かい合った。

 驚きと混乱に入り乱れた青い瞳は、それでもエルティナの真意を見定めようとまっすぐに向けられている。


「お前は何なんだ。ここで……何をしようとしている?」

「何も、できていません。父を止めることも、シュレイクを解放することも……。自分の無力を嘆いて、ただここで罪滅ぼしをしているだけに過ぎません。だからあなたが……殺したいのであれば、私はそれを受け入れるだけです」

「理不尽な死であってもか?」

「そう望まれるのなら、仕方のないことだと……」

「……滑稽だな」

「え?」

「生きたいと願って、殺された者がいる」


 燻る怒りを滲ませた静かな声音に、エルティナがはっと顔を上げた。


「俺の家族は皆殺しにされた。親も、兄夫婦も、生まれたばかりの子供でさえな。姪の手を引いて逃げていたはずが、振り返ったとき俺は小さな右手しか掴んでいなかったんだ」

「……っ」

「死を望むお前の言葉は、今の俺には響かない」


 胸を、深く抉られた気がした。殺されることを贖罪だと受け入れ、死ぬことによってこの苦痛しかない世界から逃げようとしていた。エルティナですら気付いていない心の奥底を赤裸々に暴露されたようで、反論の言葉が何も出てこない。

 じわりと瞼が熱くなる。けれど、ここで涙を流すのも違うような気がした。滲む涙を瞬きで必死に押し止めていると、その前で男が少し困ったように薄い金茶色の髪を荒く掻きむしるのが見えた。 


「だが……ここでのお前を、否定するつもりはない」


 重なり合った青い瞳は、心の奥を見透かすように鋭く。けれどとても深く澄み切った輝きを持ってエルティナをしっかりと映し出した。


「お前のような神界人がいたことに、俺は少しだけ救われている」


 予想外に優しい光を湛えた青い瞳を見た瞬間、エルティナの中で何かが動く気配がした。


「俺はヴァレス。助けてくれたことに関して、一応礼は言っておく」

 

 それは喜びの予感。あるいは破滅の予兆。

 エルティナはこの日、シュレイクの人々をここから逃がすことを決意した。



 ***



 シュレイクに落とされると同時に、罪人の証としてその身に刻まれるのが拘束の魔法だ。体の一部に鎖型の楔として刻まれるこの印を持つものは、地下神殿の入口に張られた結界を通り抜けることができない。元は地下神殿の最奥、深淵から這い上がる魔物を外に出さないための結界だったが、それが今は魔物と人の両方を閉じ込めるものになっている。


 エルティナはまず、彼らに刻まれた拘束の魔法の無効化に取りかかった。バルザックも言及するように、エルティナの魔法力は同じ神界人たちの中でもかなり高い。魔法の無効化はそれほど難しいことではなかったが、集中力と時間、そして膨大な魔法力を必要とするため、枷から自由にできるのは一日に数人程度が限界だった。

 加えてエルティナはバルザックを欺くため、天界に自分の分身を作り出す幻影の魔法をかけてからシュレイクへ降りてくるようになった。一度に大量の魔法力を消費するため、エルティナにかかる負担は大きい。それは近くで補佐をするモーリスの目にも、明らかな不調として現れるほどだった。


「モーリス。エルティナはどこへ行った?」

「あぁ、ヴァレスか。いいところに来た。エルティナ様を止めてくれ」

「何があった?」

「今日は十人も魔法を解除して疲れてるはずのに、今度は地下洞の奥へ結界の修復に行っちまった。俺が止めても聞かないんだ」

「何だと! 馬鹿か、あいつ」

「お前の物言いには言いたいことがたくさんあるが、今はとにかくエルティナ様だ。不本意だがお前の言うことはわりと聞いてくれることが多いからな。エルティナ様もお前が言えば、ちゃんと休んでくれるだろう」


 初めて会った日を境にして、エルティナは今まで以上にシュレイクのために動き始めた。本気でシュレイクを救おうとしていることがありありと感じられ、その華奢な後ろ姿を見るたびにヴァレスは胸の奥に刺さったままの棘が鈍く痛むのを感じてしまう。


 今ならわかる。エルティナもバルザックの恐怖に怯えながら、それでも自分にできることを必死に探していたのだと。彼の娘だという枷を背負い、バルザックの罪をその身に受けることが償いになるのだと思っていることも。


『お前の言葉は、今の俺には響かない』


 あのとき響かなかった思いは、違うかたちでゆっくりとヴァレスの心を揺らしていく。それは信頼に近いと言ってもいい。

 ひとりでシュレイクを救おうとしているエルティナを、今ではヴァレスも一緒になって支えていきたいと思った。その思いがほんの少しだけあまい色を纏ってしまったことは、今はまだ秘密にして。



 人気のない地下洞の奥。大穴へと続く角を曲がったところで、ヴァレスは異変に気が付いた。

 腐臭の混じる黒い瘴気が、洞窟の奥から滲み出していた。視界を奪うほどではないが、奥に行くにつれて胸が押し潰されそうなほどの息苦しさが増し、ヴァレスは思わず岩壁に寄りかかってしまった。

 この先には、魔物を封じる結界があるはずだ。それが機能していないという現状が、ヴァレスの目の前にある。伝う冷や汗と共に、嫌な予感がヴァレスの体を震わせた。

 エルティナが、この奥にある結界を修復しに行ったはずだ。

 

「エルティナ!」


 地下洞の奥は、濃い瘴気に覆い尽くされていた。視界は奪われ、目に映るものは瘴気の黒と、その中に蠢く赤くぎらついた眼球の濁った光だけだ。

 エルティナを呼んでも返事はない。ただ意思を持たぬはずの瘴気が明らかな意図を持って集結する、より濃い黒に覆われた場所へ目を凝らすと、その隙間から星屑の輝きに似た銀色がこぼれ落ちるのが見えた。


「エルティナ!」


 再度強く名を呼ぶと、瘴気がざわりと蠢いた。

 怯えたように。あるいは歓喜するように。大きく膨れ上がった瘴気の中で、姿の見えない魔物が唯一曝した赤い目を見開いてヴァレスを凝視していた。

 ぐぅっと顔を寄せるように近付いた瘴気の中から、白く細い腕がずるりと滑り落ちる。


「エルティナを離せ!」


 怒鳴るようにして叫んだ瞬間、ヴァレスの目の前で瘴気が弾けた。中から解放されたエルティナを受け止めると、それまで視界を覆い尽くすほど膨れ上がっていた瘴気がずるずると大穴の中へ戻っていく。その間も赤い目はずっとヴァレスから逸らされることなく、その真紅の光は何かを期待しているようにねっとりとした不快感を植え付けて消えていった。



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