第34話 精霊界オルディオへ

「悪いけど、俺はここでお別れだ」


 話が一段落ついたところで、ロッドがそう切り出した。もちろん魔界跡についてくる義理はないのだが、唐突に告げられた別れにアレスの胸がほんの少しだけ寂しさに揺れる。


「アレスたちが別室に行ってる間に確認したらさ、どうもセリカと入れ違いになったみたいなんだ。ここで治療を受けて、数日前にアーヴァンを発ったらしい。今頃はもう獣人界に戻ってるかもしれないからな」


 レティシアの体調を考えてゆっくり来てしまったが、本来であれば龍神界からは二日ほどでアーヴァンに辿り着く。途中ガルフィアスでの一件もあったので、予想以上に時間はかかってしまった。その間にセリカとすれ違ってしまったのかと思えば、さすがのアレスもロッドに頭を下げるしかなかった。


「そうか。付き合わせて悪かったな」

「元々は俺が頼んだことだし、気にすんな。飛竜を返しに龍神界にも寄るから、アレスたちが魔界跡に行くってガッシュとロゼッタに伝えといてやるよ」

「すまない。助かる」

「本当ならわしも一緒に行きたいんじゃがな」


 メルドールにしてみれば、ずっと調べていた答えが魔界跡にあるかもしれないのだ。探究心をくすぐられるのは何となくアレスにも理解できた。ロッドだけは「もう若くないんだから無理するなよ」と、無意識に失礼な言葉を吐いていて、案の定メルドールに杖で小突かれていた。


「メルドールが一緒なら心強かったんだがな」

「さすがはアレスじゃ。年長者はこうやって敬うもんじゃぞ、ロッド」

「悪かったよ」

「まぁ、それはよいとして」

「いいのかよ!」


 ロッドのツッコミをさらりと受け流し、メルドールが窓際へと移動する。その大きく開かれたバルコニーから空を見上げて手にした杖を掲げると、水晶の輝きに合わせて青空いっぱいに薄い金色の魔法陣が浮かび上がった。


「アーヴァンを包む吹雪の結界を見たじゃろ?」

「そうだ。あれは何なんだ? 魔物に襲われているわけでもないようだが」

「空の方から嫌な気配がした。すべてを飲み込む巨大な闇が、渦を巻いているような感じじゃ」


 空といわれて思い浮かぶのは天界ラスティーンだ。そこにいるであろうクラウディスの不気味な力の残滓を、メルドールは敏感に感じ取ったのかもしれない。そう思うとレティシアの表情は、また少し陰を纏ってしまった。


「ただの杞憂であれば良し。じゃが万が一のためにも、わしはアーヴァンを守る結界を維持するために残らねばならん」

「メルドール様……」

「何、心配には及ばん。わしは世界最高の白魔道士じゃからの。むしろお主らの方が心配じゃ」


 そう言ってメルドールに杖を向けられ、アレスが怪訝そうに目を細めた。


「傷は治したといえども、レティシア殿とアレスの飛竜だけでは心もとない。魔界跡へ行く前に、精霊界オルディオへ向かうと良いじゃろう」

「精霊界?」

「精霊界は神龍イルヴァールが生まれた場所じゃ。月下大戦後も、彼らは人知れず神龍を守り続けていると聞く」

「生きているのか!?」

「それはわからんが、頼めば神龍の加護くらいは与えてくれるはずじゃ。精霊王イエリディスにはわしから手紙を書いてやろうかの」


 神龍イルヴァールといえば、あの月下大戦で神界の姫ラスティーンと共に戦い、魔界王を討ち取った伝説の龍だ。その龍の加護を軽々しく貰おうなどと言ってのけるメルドールの発言には驚いたが、裏を返せばそれだけ彼の顔が利くということだ。


「精霊界はここから東に広がる『時忘れの森』にある。とは言っても、正確な場所は隠されておるんじゃがの」


 いつの間に書いたのか、精霊王宛の手紙を四つ折りにしたメルドールがそこにふうっと息を吹きかけた。すると手紙は瞬く間に白い一羽の小鳥へ姿を変え、開け放たれたバルコニーから外へと飛び立っていく。


「精霊王にはいま手紙を送った。お主たちが精霊界に近付けば、向こうから何かしら合図があるはずじゃ。何も心配せず、オルディオへ向かうといい」

「世話をかける。ありがとう、メルドール」

「気にするな。お主も、気をつけて行くんじゃぞ」


 向けられた黒曜石の瞳にレティシアを頼まれた気がして、アレスは強く頷いてみせるのだった。


 戻る時は、メルドールの魔法で一瞬だった。瞬きする間もなく神殿の前広場に到着しており、突然現れたアレスに彼の飛竜が少しだけ驚いて首を上げた。


「アーヴァンから出る時は、吹雪の結界に邪魔されることはない」

「色々と世話になった」

「構わんよ。わしとしてはもう少しゆっくりしていっても良かったんじゃがの……」


 そう言って視線を向けた先では、気の急いたロッドが既に飛竜に跨がっている。早くセリカの元へ戻りたいのだろう。龍神界までは二日ほどかかる道のりだが、メルドールが魔法で途中まで送ってくれるらしいので内心アレスもほっとしていた。

 最初こそ疎ましく思っていたが、道中では彼の明るさと獣王の力に救われたことも事実だ。ロッドの希望を叶えるためでもあったが、ここまで付いて来てくれた彼を、今は少しでも早くセリカの元へ帰してやりたい。メルドールの帰還の魔法は、アレスにとっても喜ばしい申し出だった。


 飛竜に飛び乗り、アレスは改めて魔法都市を見回した。

 街を支える巨大な魔法陣と、そこに聳える荘厳な神殿。美しく整えられた街並みに満ち溢れる、少しだけ畏怖すら感じる魔力の風。

 牧歌的な龍神界とは全く違う、洗練された美しい街。慌ただしくてゆっくり見物する暇もなかったが、魔界跡から戻った時には今度こそアーヴァンを堪能しようとアレスは思う。その時はもちろん、レティシアも一緒に。


 飛竜の足元でレティシアも名残惜しそうに周囲を見回している。その視線が重なったのを見計らって、アレスは飛竜の上からレティシアに向けて手を差し伸べた。


「迷いは?」


 最後の最後まで、レティシアの意思を確認する。願いを引きずり出した手段は強引だったかもしれない。けれどもレティシアが新たに踏み出す一歩は、彼女の足でしっかりと踏みしめて欲しいと思った。レティシアが変わる瞬間なのだから。


「――ありません。一緒に、連れて行って下さい」


 ゆっくりと時間をかけて紡がれた言葉に、アレスの頬が自然と緩む。そっと伸ばされた手が触れるよりも先に手首を掴み、アレスはレティシアの体を軽々と引き上げると、今までと同じように自分の前に座らせた。


「なら、行こう。ここからが、お前のはじまりだ」


 飛竜が羽を広げ、風を抱く。ずり落ちないように自然とアレスにしがみ付いたところで、レティシアは自分が飛竜に乗ることに慣れていることを実感した。そんな些細な変化を嬉しく思う気持ちは、大空を自由に飛ぶ飛竜の羽に乗ってどこまでも高く軽やかに舞い上がっていった。



 ***



 アレスたちを見送ったあと、メルドールはロッドを転送魔法でルルクスの宿場町へと送り届けた。鷹に変身したセリカが飛んで戻れば、ちょうどルルクス辺りで合流するだろうと見積もってのことだ。

 魔物に襲われたというセリカの傷。そこに残された呪いの気配は、今日レティシアから取り除いた黒い残滓と似ていたような気がする。二人に残された闇のかけらと、いま世界に広がりつつある魔物の脅威。そしてメルドール自身が感じた、空を覆い尽くすほどの不穏な気配。見通しはまだ定かではないが、何か良くないことが闇の向こうで蠢いているのは実感できた。


 時を同じくして、レティシアが永劫封印を求めて来たことも気にかかる。何か話せない事情があることはレティシアとアレスの様子から察したが、永劫封印に縋るほど追い詰められているレティシアにその訳を問いただすことは躊躇われた。

 おそらくアレスやガッシュはその理由を知っているのだろう。ならばレティシアはアレスに任せて、メルドールはクラウディスに直接話を聞くことにした。レティシアが下界にいることも、怪我をしていたことも、そして永劫封印を望んだこともクラウディスならすべて承知しているはずだ。

 もしも天界で何かあったのなら力を貸そうと、そう思いながら送った手紙は、予想よりも随分と早い段階でクラウディスの手に渡っていた。


 アレスたちを見送った、その日の夜。

 アーヴァンに張り巡らされていた吹雪の結界が、何者かによって破られた。


「何事じゃ!?」


 バルコニーから見上げた夜空に、星屑とは違う金色の破片がパラパラと降り注いでいた。吹雪の結界を展開していた金色の魔法陣が粉々に吹き飛び、紺色の夜空に浮かぶ月を背にして黒い人影がゆっくりと降下してくるのが見える。

 白い翼を羽ばたかせ、銀髪の青年は空からバルコニーへ優雅に降り立つと、レティシアによく似た面差しでメルドールにお辞儀をした。


「お久しぶりです。メルドール様」

「お主……クラウディスか」


 その姿を見間違えるはずはないのに、メルドールは確認せずにはいられなかった。

 吹雪の結界は闇の力に反応する。その結界が弾け飛んだということは、吹雪に纏わせた白魔法よりもはるかに強い闇の力が働いたのだ。


 困惑するメルドールに、クラウディスは穏やかな笑みを絶やさぬまま、胸のポケットから一枚の紙を取り出した。


「手紙をありがとうございます。早速ですがメルドール様のお力を借りたいと思い、こうして訪ねて参りました」

「クラウディス。天界では何が起こっておる? レティシア殿は……」

「あぁ、レティシア。彼女の傷を治したそうですね。放置して頂ければそのまま衰弱し、無駄な抵抗をされずに済むかと思ったのですが……余計なことを」

「な、にを……言っておる」


 慈悲のない冷淡な言葉なのに、それを告げるクラウディスは優しい微笑を浮かべたままだ。その噛み合わないちぐはぐな雰囲気に、メルドールの本能が危機を察して震える。ほとんど無意識に杖を構えたメルドールに、クラウディスの瞳が妖しく光った。


「世界最強の白魔道士、メルドール。その力がどれほどのものか、見せて貰おう」


 ゆったりと向けられた右腕に、どこからともなく瘴気が絡みついた。ぽたり、ぽたりと粘着質な闇がこぼれ落ちる様は、まるで餌を待ちきれずに涎を垂らす毒蛇のようだ。落ちたそばから絨毯を焦がし、上がる煙は歪んだ亡者の顔を模って部屋の中に漂い始める。

 重くのし掛かる闇の気配。気を抜けば潰されてしまいそうな暗黒の力に、メルドールの双眸が愕然と見開かれる。


「……なぜじゃ」


 こぼれ落ちた声は、震えていた。メルドールの動揺に呼応して、杖についた水晶がチカチカと明滅する。その光の揺らぎが室内を淡く照らし出したことで、メルドールはいつの間にか室内が濃い闇に満ちていることを知った。


 闇の中、クラウディスの銀髪が光を纏って揺れている。レティシアと同じ色なのに、彼の纏う色彩は――命の輝きが感じられない。


「なぜお主が黒魔法を……」


 闇に属する魔法。魔物を操り、生きとし生けるものの輝きを奪う暗黒術は、今の時代には扱える者のいない失われたはずの魔法だ。

 それをいとも簡単に、なおかつ完璧に操るクラウディスが、メルドールの目には全く知らない男の姿に見えた。


「それを知って何になる? お前にできることは、何ひとつないのだぞ?」

「……まだじゃ。わしを見くびるでないぞ。お主を捕らえ、何が起こったのかすべて話してもらおう」


 クラウディスに向けられた杖の水晶が眩く光り、室内に満ちていた闇を瞬時に吹き飛ばした。暴風の如く弾け飛ぶ闇に髪も服も激しく煽られ、クラウディスの右手に絡みついていた毒蛇の瘴気も浄化の光によって蒸発するように消えていく。

 けれども、クラスディスの顔には薄気味悪い笑みが張り付いたままだ。


「老いぼれが、醜く足掻くか」


 瘴気の消えた右腕を戻すこともなく、クラウディスがゆるりと手のひらを上に向け――パチン、と軽く指を鳴らした。

 途端、弾け飛んだはずの瘴気がクラウディスの背を覆うように膨れ上がった。それは翼の羽ばたきによって再び室内を腐った闇で満たし、メルドールの喚んだ光を侵食し喰らい尽くしていく。


「たわけ!」


 それでもメルドールの周囲にまで闇が及ぶことはなく、彼の足元に浮かび上がった魔法陣の周りではそれ以上進むことのできない瘴気の蛇がもぞもぞと蠢いていた。


「本領ではないものの、俺の魔法にここまで抗うとは……。世界最強の名は伊達ではないということか」


 クラウディスの肩に垂れ下がった太い闇の毒蛇がぬらりと鎌首をもたげ、牙を剥き出しにしてメルドールを威嚇した。その蛇の口に手を突っ込んで、中から黒い刃の剣を引きずり出すと、クラウディスは薄い唇を真横に引いていびつに笑った。


「良かろう。望み通り、お前には最強の黒魔法で相手をしてやる」


 その夜、魔法都市アーヴァンから消えたものが二つある。

 都市を覆う吹雪の結界と、そして世界最強と謳われた白魔道士メルドールの姿は、光と闇がせめぎ合ったこの夜を境にアーヴァンから忽然と姿を消した。






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