第35話 攫われたロゼッタ

 まだ夜も明けきらぬ空に、飛竜のざわめく声が木霊していた。落ち着かない様子で羽を広げ、首を伸ばして暗い空を見上げている。呻き声なのか威嚇なのか。龍神界に響く飛竜の声は、確かな緊迫感を持ってガッシュの耳に届いていた。


「一体どうしたと言うんじゃ」


 ただならぬ気配を察して家の外に飛び出したガッシュは、恐怖に鳴き叫ぶ飛竜の声に耳を塞いだ。

 柵の中で、子供の飛竜が羽を広げて鳴いている。白み始める空に影を落とすのは大人の飛竜だ。ギャァギャァと威嚇の声を上げながら、何かを警戒するように大きく旋回を繰り返している。その輪の中心――飛竜たちが恐れて近付けない場所に、夜の名残を纏った銀髪の青年が浮かんでいた。


「……クラウディス……っ」

「早朝からお邪魔して申し訳ありません。龍神界の長老ガッシュ殿に、折り入ってご相談があって参りました」


 ふわり、と地上に降り立ち、背中へ翼をしまい込んだクラウディスが恭しく頭を下げた。その礼儀正しい立ち振る舞いに警戒が薄れたのは一瞬。次に顔を上げたクラウディスの凍るほどに感情のない笑みを見た瞬間、ガッシュの背筋がぞくりと震えた。


「聖獣である龍の声を聞き、心を通わせる一族。その長、ガッシュ。お前の力を奪いに来た」




 飛竜の叫び声で目が覚めた。飛び起きたと言った方が近いかもしれない。寝起きだというのに心臓がバクバクと早鐘を打っている。

 アレスが魔法都市へ発ってから、ロゼッタはガッシュの家に寝泊まりしている。朝は早く起きてメレシャを手伝うのが日課になっていたが、今日は寝過ごしてしまったのだろうか。そう思い、慌てて窓の外を見れば、空はまだ白み始めたばかりだ。いつも起きる時間とたいして変わらないのに、家の中はしんと静まり返っていた。


 その反対に、外が異様に騒がしい。警戒と威嚇に鳴き叫ぶ飛竜の声が、恐ろしいほどに胸を打つ。いてもたってもいられなくなり、慌てて外へ飛び出すと、ちょうどロゼッタの目の前に何かが落下したところだった。

 それが何なのかを確認するよりも早く、地面すれすれに滑り込んだ飛竜が、その背中に落下物を受け止めてロゼッタの前を通り過ぎていく。土煙を上げて急停止し、空に向かって咆哮する飛竜の背中には、傷付き血を流すガッシュの姿があった。


 思わず駆け出そうとする体を、後ろからメレシャに抱きとめられる。何が起こっているのかわからないまま、メレシャから伝わる体の震えがロゼッタの心に更なる不安を植え付けていった。


「腐っても龍神界の長というわけか。人に懐かぬ飛竜がこれほどまでにお前を守るとはな」


 温度のない声と共に降り立ったのはクラウディスだ。彼からガッシュを守ろうと滑り込んだ二頭の飛竜が、眼前に立ちはだかるクラウディスへ向けて口を大きく開け放つ。彼らが何をしようとしているのかを知りながら、それでもクラウディスの顔から余裕の笑みが消えることはなかった。


「飛ぶことしか能のないお前たちに聖火が吐けるとも思わんがな」


 魔を払う、飛竜の炎。吐き出された二つの炎は絡まり合い、クラウディスを燃やし尽くす勢いで膨れ上がる。けれどもその先が届く前に、クラウディスがたった一度払った右手によってあっけなく空の彼方へ弾き飛ばされてしまった。


「血を流しすぎて考えが纏まらぬか? ガッシュ。私とお前たちは同じ祖先を持つ者同士だぞ。ましてや天界王の私に、邪悪を焼き尽くす聖獣の炎が効くとも思えんが」

「まだ言うか! お主からは邪悪さしか感じられぬわ。そんなお主が天界王の名を騙るなど断じて許さん!」


 飛竜の背に突っ伏していた体を起こし、ガッシュがクラウディスを鋭く睨み付ける。傷付いた体は今にも飛竜から転げ落ちそうに頼りなく、けれどもその瞳に宿る闘志は少しも衰える気配がない。ガッシュの気迫に呼応して、三頭の飛竜が羽を広げ唸り声を上げながらクラウディスを威嚇した。


「許さなければ、どうするというのだ? お前たちに私を止める力があると言うのか?」


 にやりと不気味に笑うクラウディスの背後から、唐突にどす黒い闇の瘴気が噴き上がった。それは巨大な手の形を模し、鋭く伸びた鉤爪を蜘蛛の足のようにゆるゆると動かしてガッシュの方を指差した。

 その瞬間、指先から噴射された黒い糸が飛竜の胸を貫き、その背に乗っていたガッシュが飛竜と共に地面にどうっと倒れ込んだ。巻き上がる粉塵の向こう、倒れた飛竜のそばでガッシュが愕然と目を見開いている。怯えにも似た瞳に映るのは、クラウディスの背後に蠢く闇の瘴気。そこに感じる死の臭いは……。


「お主……この魔法は、まさか……」

「察しがいいな」

「馬鹿なっ! 黒魔法は失われた呪文じゃぞ!」


 狼狽えるガッシュを一瞥しただけで、クラウディスは何も答えない。代わりにゆるりと右手を挙げると、それに合わせて背後で蠢く黒い手が今度こそガッシュを捕らえようと指を大きく広げた。


「ガッシュ!」


 危険を知らせる飛竜の鳴き声をかき消すように響いたのは、ロゼッタの悲鳴に近い声だった。メレシャの腕を振り払い、無我夢中でガッシュへ駆け寄る幼い少女に場の空気を読む術はない。

 ロゼッタを動かすものは恐怖だ。飛竜を殺された恐怖。クラウディスが何者なのかわからない恐怖。そしてガッシュを殺されてしまうかもしれないという、底知れぬ恐怖。


「いかんっ。ロゼッタ! 来るんじゃないっ!」


 戦いに巻き込まれることを危惧したガッシュだったが、予想に反してクラウディスは不気味に黙したままだった。戦いを中断させたロゼッタを排除するわけでもなく、彼の青い瞳は目の前を走る幼い少女をただ興味深く見つめている。


「ほう? こんな幼い子供に、お前を上回るほどの力が秘められているとは驚きだ」


 何を言われているのかわからなかったが、ロゼッタが狙われたことだけはわかった。


「ロゼッタ! 早く逃げるんじゃ!」

「娘よ。お前も竜の声を聞くことができるのか? 神界の姫ラスティーンのように、会話する力を秘めているのか?」


 気付けばロゼッタは、瘴気の手に襟首を掴まれて宙に浮いていた。クラウディスよりも高い位置に吊り上げられ、逃げようともがく足が空を蹴る。


「やっ……、いやだ! ガッシュ!」

「やめろ、クラウディス! ロゼッタには手を出さんでくれ!」


 先ほどの勢いをすっかりなくして懇願し項垂れるガッシュを一瞥し、クラウディスが演技じみた様子で肩を竦めた。


「それはできぬ相談だ。本当はお前を連れていこうかと思っていたが、お前よりもこの娘の方が役に立ちそうなのでな」


 ロゼッタを捕まえている瘴気の手が膨張し、彼女の小さな体をあっという間に包み込んでいく。ガッシュに伸ばされた指の先まで覆い尽くすと、瘴気はみるみるうちに小さく縮んで、やがて跡形もなく龍神界から姿を消してしまった。


「ロゼッタっ!!」

「精霊界に魔法都市、獣人界。そして最後のひとつ、龍神界の力も手に入った。ここにもう用はない」

「待てっ、クラウディス! ロゼッタを返すんじゃ!」


 再度吐き出された飛竜の炎をうんざりしたように弾き返し、クラウディスが少しの温度も感じない冷酷な眼差しを向けて溜息をついた。


「せっかく生かしておいてやったというのに、自ら望んで死に急ぐか」

「わしの命ひとつで足りるならくれてやる。ロゼッタを返さないのなら、龍神界の長として、今ここでお主を倒す!」


 空を覆うほどの飛竜の群れが、一斉に鳴いた。朝焼けに染まる空を震わせて、流れる雲さえ弾き飛ばす咆哮にクラウディスの銀髪までもがかすかに揺れる。


「行け! 邪悪なる者を焼き尽くすんじゃ!」

「痴れ者が」


 すべての飛竜が吐き出した炎はただ一点――クラウディスに向けて放たれ、早朝の空は瞬時に夕焼け色に染め上げられる。その赤を内側から突き破って膨張した闇が、今度は空を夜に塗り替えていく。

 炎と闇。紅蓮と漆黒。絡み合い、空気を切り裂いて渦を巻く熱気と冷気に、辺りの景色は立ち上る粉塵によって白く覆い隠されていった。


 薙ぎ倒された木々や家屋。深く抉り取られた地面からは、ぶすぶすと黒煙が立ち上っている。土煙に遮られた視界が戻れば、そこには一瞬にして変わり果てた龍神界の姿があった。

 地面の上には何頭もの飛竜が倒れている。けれどそこにガッシュの姿はどこにもなかった。


「こんな朝っぱらから何やってるんだよ!」


 不意に聞こえた声にクラウディスが顔を上げると、生き残った飛竜の間を縫って降下してくる一頭の飛竜が映った。その背に跨がる小麦色の肌をした青年の前には、傷だらけの体を横たえたガッシュの姿がある。


「これはこれは……」


 恭しく頭を下げながら、クラウディスは突如として現れた青年を見て意味深に笑った。

 金髪に小麦色の肌をした青年。探っても魔力のかけらすらない体の奥、そこにあるのはみなぎる生命力と純粋な力の強さ。弱肉強食の世界を生き抜いて頂点に立つ獣が持つ独特の威圧感は、獣王を名乗るに相応しい気配を宿していた。


「獣人界ガイゼルの獣王ロッドではありませんか。お久しぶりですね」


 わざとらしい物言いよりも、その言葉にロッドが眉を顰める。


「俺に、人殺しをするような知り合いはいない!」

「人殺し? これは手助けだよ、ロッド」


 元より欺くつもりもなかったらしく、口調は既に冷たいものに変わっている。纏う雰囲気も瞳に宿る冷徹な光も、そして内から溢れる邪悪な気配もすべて曝け出したままだ。


「私は苦しむガッシュを助けたかっただけだ」

「何をっ」

「お前が邪魔をしたおかげで……見ろ。死にきれずに苦痛を引き延ばされたガッシュがいるだろう?」

「ふざけるな!」


 自身の口元に指先をあてて笑う仕草は優雅で、こんな状況でも気品を損なわない。類い稀な銀髪と整いすぎた美貌が、更に彼の所作を引き立てている。それがかえって不気味だった。


 なぜこんなにも違和感を覚えるのか、ロッドはようやくその正体に気が付いた。

 似たような特徴を持つ者と、昨日までいっしょにいたのだ。魔物と化した者にさえ心を痛めていた彼女と、目の前の銀髪の男は容姿が似過ぎている。なのに彼から感じる心には、一切の熱がなかった。


「お前……クラウディスか……?」


 幼少期に一度だけ会ったことのある、天界の兄妹。薄れた記憶は鮮明ではないが、それでもクラウディスが信じられないほどの変貌を遂げていることだけはわかった。


「なん、なんだよ……何でこんなことするんだよ!」

「愚問だな。ガッシュが私の邪魔をしたからだ」

「邪魔って何だよ。お前は一体何がしたいんだ!」


 たった一度、それも子供の頃に会ったおぼろげな記憶しかないが、それでもクラウディスはこんな風に冷たく笑う男ではなかった。妹のレティシアを大事に思い、小さな手で彼女を守ろうとしていたはずなのに。

 その彼の手はいま、微塵の躊躇いもなくガッシュを殺そうとしていた。


「私にはどうしても叶えなければならない願いがある。そのためにはガッシュの命など塵に等しいというだけだ。もちろんレティシアという器も……そうそう、セリカという名の女もな」

「……っ、セリカに何をした!」

「ただ力を借りたいだけだ。用が済めばすぐに返してやろう。……もっともそれまでに命が持てばの話だがな」


 クラウディスの姿がわずかな風にゆらりと揺れた。朝日に照らされて薄れる影のように、彼の体は次第に色を失っていく。このまま消えて戻るのだと理解した瞬間、ロッドの気持ちに同調して彼の乗る飛竜がクラウディスめがけて炎を吐いた。


「無駄だ。いかに神龍の末裔であろうと、血の薄れた飛竜に私は止められぬ」


 言葉通り飛竜の炎はクラウディスの眼前で見えない壁に遮られ、辺りに無駄な粉塵だけが舞い上がる。その視界が晴れる頃には、もうそこにクラウディスの姿はなかった。


 山の向こうから顔をのぞかせた朝日が照らし出すのは、クラウディスに蹂躙された龍神界の荒れ果てた姿。魔法都市へ出立した時に見た、あの素朴で美しい大地には薙ぎ倒された家屋や木々の破片がそこかしこに散らばり、抉られた地面の上には何頭もの飛竜が血まみれで横たわっている。

 辛うじて息のある者もいれば、片翼を失い倒れた者もいる。その凄惨な現状に言葉を失っていたロッドの前で、飛竜の背にうつ伏せに乗っていたガッシュがわずかに体を起こした。


「ロッド……か?」

「大丈夫か!?」


 そのままずり落ちそうになるガッシュを支えて、できるだけ振動が伝わらないように飛竜から下ろしてやる。彼の飛竜もその場に腰を落とし、ガッシュを守るように体を少し丸めて不安げに鳴いていた。


「すまんな。……わしでは、止められんかった」


 飛竜に背を預けて座ると、ガッシュを心配した飛竜が鼻の先を彼の足に擦り付けた。その頭を軽く撫でる手は、既に彼自身の血で赤く染まっている。

 呼吸は浅く、見るからに重症ではあったが、幸いにもガッシュの意識ははっきりとあるようだ。ロッドを見つめる瞳にも、未だ死の影は見当たらない。痛みに呻く体を必死に抑え、ガッシュは震える手でロッドの腕を強く掴んだ。


「ロゼッタが、連れ去られた」

「何だって!? やつはセリカも捕まえたって……」


 ルルクスで合流できるかと思っていたセリカも、そこにはいなかった。一足遅かったかと飛竜を返しに来たところで、ロッドはクラウディスが龍神界を襲っている現場に出くわしたのだ。


「奴は……六つの国の力を集め、何かをするつもりじゃ。黒魔法を操る男じゃ。おそらく、魔界跡の力も手に入れておるのだろう。……そして、それはレティシア殿を傷付けるものに違いない」

「レティシアを? ちょっと待ってくれよ。俺には話が全然見えてこない。一体クラウディスはどうしたってんだ? アレスたちは何を知ってたんだよ」 


 一緒に旅をした間もそれらしいことを聞くことはなかったが、思い返せばレティシアはいつも何か思い詰めた顔をしていたような気がする。やけに永劫封印にこだわっていたのもこれが理由なのかと思えば、ロッドの中でレティシアの憂いがすとんと腑に落ちた。


「天界王クラウディスは……邪悪な思想に囚われてしもうた。レティシア殿の中に眠る結晶石を狙い、それを使って世界を手に入れようとしておる。それを知ったレティシア殿はひとり、この地へ逃げ込んだのじゃ」

「……嘘だろ」

「ロッド。……アレスはどうした」


 アレスの目的地は魔界跡だ。結晶石に秘められた謎を解くという目的も、その裏にクラウディスの野望を阻止する狙いが含まれているのだろう。そう思えば思うほど、何も知らなかった自分に歯がゆさが増す。


「アレスたちは結晶石の謎を解くために魔界跡に……」

「何じゃと……?」

「あっ、でもその前に精霊界へ行くって言ってた。確か神龍の加護を得るためだって」

「神龍……イルヴァールの、加護。そうじゃ……もしかしたら、その加護が力になるかもしれん。クラウディスを止めるための」


 聖獣であるはずの飛竜でさえ、クラウディスにはまったく刃が立たなかった。ならば彼らの頂点、その長である神龍の加護ならもしかしたら力が届くかもしれない。


「セリカも捕まっている以上、俺もこのまま見過ごすわけにはいかない。ガッシュ、俺はこのまま精霊界に行って、アレスにこのことを告げてくるよ」

「……礼を言わねばならんの」


 慌ただしく駆け寄ってくるメレシャたちの姿が見える。傷付いた龍神界を後にするのは心が痛んだが、今は一刻も早くアレスたちと合流することが先決だ。立ち上がったロッドに強く頷き、ガッシュは相棒の飛竜を見つめるとその体を優しく撫でた。


「お主も、もう少しだけロッドに力を貸してやってくれ」


 ガッシュの手のひらに顔を寄せ、名残惜しそうに飛竜が鳴いた。傷だらけのガッシュを心配して、本当はここに残りたいのだろう。できればロッドも飛竜の気持ちを汲んでやりたいが、そうできない現状に「ごめんな」と小さく謝ることしかできなかった。


「お主たちに……未来を託そう」


 ガッシュの願いを受けて、彼の飛竜が羽を広げる。その大きな羽に託した祈りがこぼれ落ちないように、ガッシュは飛竜の影が見えなくなるまで空の彼方を見つめ続けていた。





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