第32話 白魔道士メルドール

「メルドール様のお客様ですね?」


 光球の案内によって街の中央にある一番大きな神殿へ降り立ったアレスたちを出迎えたのは、栗色のローブを身に纏う若い女魔道士だった。


「ようこそ、魔法都市アーヴァンへ。メルドール様から案内を仰せつかっております、コレットと申します。メルドール様の元へご案内致しますね」


 吹雪の結界を張っていたというのに、コレットや街の雰囲気に殺伐とした気配はない。飛竜で神殿まで来る間も、見下ろす街並みに行き交う人々からは日常の匂いしかしなかった。

 魔物に襲われているわけでもない。なのに街の外は規格外の結界が張り巡らされている。アーヴァンに何も起こっていないことは喜ぶべきだが、そのちぐはぐな状況にアレスは奇妙な違和感を覚えた。


「街の外には吹雪の結界が張ってあったが……」

「えぇ、メルドール様が二日前に張って下さいました」

「何かあったのか?」

「いえ、そうではないのですが……。その件についてもメルドール様からお話があると思いますので、どうぞこちらへ」


 穏やかに話すコレットの様子から見ても、今アーヴァンに危機が迫っているというわけではないらしい。無意識に気を張っていたアレスは肩の力を抜き、コレットの後に続いて神殿の中へと入っていった。


 神殿の周りに聳え立つ五つの尖塔は、属性別の魔法を練習するための場所だとコレットが歩きながら説明してくれた。途中ですれ違う魔道士たちは皆同じようなローブを身に纏っている。魔道士の制服と思えば納得だが、どうやらロッドには物珍しく映ったらしい。「へぇ」とか「ほぉ」とか声を漏らしながら、周囲をきょろきょろと見回している。


「なぁ、コレット。ここでは皆同じ服を着る決まりでもあるのか?」

「これは魔道士の法衣です。簡単なものですが、怪我をしないように防御の魔法がかけられているんですよ」

「へぇ! 便利だな。色が違うのも何かオシャレでいいな」


 ロッドが言うように、魔道士たちのローブは形は同じでも色が違う。ざっと見る限りでは三色に分かれているようだ。


「色別に階級が分かれているんですよ。一番下から若草色、栗色、深緑色。そして今はまだ見たことがないですが、幻の時間魔法を習得した者にのみ与えられる金糸の刺繍を施した白いローブもあるそうです」

「時間魔法?」

「えぇ。アーヴァンの創立者だけが今のところ使えたそうですが、あまりに昔のことなので記録が残っていないんです。女性だったという記載だけで名前すら失われてしまって……」


 そこでちょうどコレットが立ち止まった。神殿の奥の部屋。といっても置かれているものはなにもなく、床に白い魔法陣が描かれているだけだ。その中へ入るよう促され、アレスはレティシアを背に守るようにして一番前に陣取った。


「では皆様をメルドール様の元へお連れ致しますね」


 そう言ってコレットが魔道士の杖を掲げた。


「メルドール様はこの神殿の最上階にいらっしゃいます」


 コレットの呪文に合わせて、床の魔法陣が淡く光り始めた。視界は緩やかに歪み、周囲の音が束の間消える。微笑んでお辞儀をしたコレットの姿が垂れ落ちるように伸びて消えると、わずかな風を切る音と共にアレスたちの視界ががらりと変わった。


 広い部屋一面に敷かれた青い絨毯。座り心地の良さそうな大きめのソファーとテーブル。部屋の奥には綺麗に整頓された仕事机が置いてあり、その後ろの壁に作られた本棚には端から端までぎっしりと本が並べられている。

 街を見下ろす大きな窓は開いており、白いカーテンが風を受けて人魚の尾びれのように柔らかく揺れていた。


「よく来たの」


 しわがれた穏やかな声に目を向けると、風を孕んで揺れるカーテンの向こうからひとりの老人が姿を現した。

 アレスよりも少し背丈は低いが背筋はしゃんと伸びており、金糸の施された紺色のローブは物言わぬ威圧感を醸し出している。アレスともロッドとも違う、どちらかと言えばレティシアに近い、いわゆる「品のある」雰囲気。けれども頭に被るとんがり帽子が、その近寄りがたい空気をこれでもかと言うほど和ませるいい仕事をしていた。


 魔法都市アーヴァンの最高責任者であり、世界最強の白魔道士メルドール。彼は胸下まで伸びた長い白髭を丁寧に撫でながら進み出ると、黒曜石に似た落ち着きのある瞳でアレスたちを順に見つめた。


「ラスティーンの姫君と龍神界の竜使い。それから手紙には記されていなかったが、お主は獣人界ガイゼルの獣王じゃな?」

「なんでわかるんだ!?」

「獣王の匂いがするからの。それにお主とはこれが初めてではないぞ? 覚えてはおらんだろうが、ラスティーンでの国際会議で子供だったお主にわしは一度足を踏まれておるわ」

「げっ」

「あの時の謝罪に来たかと思ったが、お主もどうやら訳ありのようじゃな」


 世界最強と謳われる白魔道士。一体どんな人物なのかと無意識に緊張していたアレスだったが、ロッドとのやりとりを見て彼が冗談好きの接しやすい相手であることがわかり、自然と肩の力が抜けた。


「もういらんかもしれんが、一応名乗っておこうかの。わしがこのアーヴァンの責任者メルドールじゃ。ガッシュからの手紙によれば、レティシア殿の傷を治しにアレスと共にここを訪れた……と言うことで相違ないか?」

「あぁ、そうだ」


 アレスとメルドールの視線を受けて、レティシアが小さく頭を下げた。その体に巻かれた包帯、あるいはその傷に残る邪悪な気配を感じたのか、メルドールの双眸がかすかに細められる。ソファーへ座るよう促され、腰を下ろしたレティシアの右手がメルドールの皺だらけの手に掬い上げられた。


「ふむ。確かに魔法による傷じゃな。だが……何とも奇妙な気配が残っておるのぅ」


 メルドールがレティシアの腕を指先で軽く撫でると、すすけたもやのようなものが包帯の隙間から細く滲み出た。それに驚く様子さえ見せず、ふっと息を吹きかけると、黒い靄はあっという間に薄く棚引いて消えていく。


「手紙には詳細がまるっと省かれておったが……なるほど、これは穏やかではないな。ガッシュも余程慌てていたと見える」

「傷は治るのか?」

「無論じゃ。レティシア殿の体を蝕んでいるのは、ただの残滓。言うなれば、燃え尽きた後に残る灰のひとつまみじゃ。だが、そのひとつまみが恐ろしいほどに濃く、どす黒い。まるで底の見えない深淵を覗き込んでいるかのようじゃ」

「深淵って、ヘルズゲートみたいだな。レティシア、大丈夫なのか?」


 あながち間違いでもないロッドの言葉に、アレスとレティシアだけがはっと息を呑む。

 レティシアを傷付けたのは、兄であるクラウディス本人だ。しかし彼の行動に謎があるのも確かだ。クラウディスを知るガッシュはそんな彼に違和感を覚え、天界での惨劇をまだ口にするべきではないと説いたが……ガッシュが気付く異変に、世界最強の白魔道士が気付かないはずはない。


 けれどアレスは、どこまで話していいのかわからなかった。

 アレスはクラウディスを知らない。彼がどんな人間で、普段レティシアにどう接していたのかを想像することもできない。

 アレスが知るクラウディスは、妹であるレティシアを容赦なく傷付けたという事実だけだ。彼を知るガッシュが、違和感を拭えるまで事態を伏せたように、おそらくレティシアも心の底ではクラウディスの本心が別にあることを信じていたいのだろう。


 ならばアレスは口を閉ざすだけだ。天界での惨劇を聞く限り、彼に人の心などないように感じたが、アレスはもうこれ以上レティシアをつらい目に遭わせたくないと思ってしまった。

 それが甘い考えであることは、自分でも呆れるくらいに理解している。


「確かにロッドの言うように、レティシア殿の傷からは闇の気配がするの。数年前から魔界跡ヘルズゲートに関する不穏な噂は数を増すばかりじゃ。邪気にあてられた魔物の襲撃が各地でも頻繁に起こっておる」

「そういえば龍神界の村でも、そんな話があったな」

「レティシア殿の傷も、その関連なのじゃろうな。じゃが……心配することはない」


 そう言うと、メルドールは見えない闇を払うように右手を軽く動かした。その手にはいつの間にか魔道士の杖が握られている。


「所詮は魔法の残り屑。この程度の闇を消し去ることなど造作もないわ」


 メルドールがレティシアに向かって杖を振ると、風もないのに銀髪がふわりと揺れた。髪だけでなく服の裾もふんわりと膨らんで、レティシアの周りだけ見えない膜に包まれる。

 柔らかく揺蕩う銀髪。風に巻き上げられていると言うよりは、まるでレティシアだけが水中に沈んでいるかのようだ。薄い青色に染まった膜の向こうで、こぽこぽと小さな泡が上っていく。

 淡い光の鱗粉が弾け、レティシアの体を包み込んだ。それは肌を撫でるようにレティシアに絡みつき、触れた箇所から包帯がひとりでにほどけていく。

 くるくると。泡と一緒に流れていく包帯は、やがてゆっくりと色まで溶かして完全に消えてしまった。


「もういいじゃろう」


 メルドールが杖を下ろすと、それに合わせてレティシアを包んでいた青い膜がすうっと色をなくした。ゆらゆらと漂っていた銀髪がパサリと落ちて戻り、その感覚にレティシアがゆっくりと目を開いた。

 華奢な体に巻かれていた包帯は取り払われ、レティシアを蝕んでいた傷はすべて跡形もなく消え去っていた。


「体は?」


 アレスに問われて腕を持ち上げてみても、今まで感じていた怠さや鈍い痛みはどこにもない。軽く手を握って感触を確かめると、レティシアはソファーから立ち上がってメルドールに頭を下げた。


「えぇ、もう大丈夫です。メルドール様、ありがとうございます」

「なんのなんの。レティシア殿が傷付いているのを見るのは忍びないのでな」


 そう軽口を叩いて、更にウインクまでしてみせる。そんな茶目っ気のあるメルドールに、レティシアも少し緊張がほぐれたのか自然な笑みが顔を彩った。


「これでお主たちの目的は果たされたわけじゃが、このまま龍神界へ戻るのか?」

「そのつもりだが」

「もったいないのう。レティシア殿もせっかく下界へ降りてきておるんじゃから、少しくらい寄り道しても罰は当たらんと思うが……。クラウディス殿もそこまで狭量ではなかろうに」


 唐突に飛び出した名前にレティシアがぎくりと体を震わせた。幸いにもメルドールは壁一面に作られた本棚の方を向いており、ロッドはその様子を目で追っていたため、レティシアの動揺はアレスしか気付いていない。

 細い肩に手を置いて様子を窺うと、アレスの顔を見て安心したのか、レティシアは小さく頷いて唇をきゅっと引き結んだ。


「そういえばクラウディス殿は元気にやっておるか? ここで魔法の勉強をしていた頃が懐かしいわい。白魔法の才能は抜きん出ておったから、レティシア殿の傷もわしと同じように治せたのかも……っと、あったあった」


 ぎっしりと詰まった本棚の中から一冊を抜き取って、メルドールが再びアレスたちの方を向く。その手に握られているのは分厚い焦げ茶色の本と、一通の手紙。本の表紙に記された金色の魔法文字は読めなかったが、手紙に記されている文字はガッシュのものだ。


「ガッシュからの手紙には、レティシア殿の傷を治すことの他にもうひとつ、こう書かれておった。……レティシア殿は、永劫封印を望んでいる、とな」

「……っ、それは」

「一度は説得を試みたそうじゃが、その様子を見ると完全に諦めたわけでもなさそうじゃな」


 龍神界では、その結論がうやむやになった永劫封印。ガッシュには早まるなと言われ、まずは傷を治すことを第一に考えてレティシアたちはアーヴァンへと旅立った。その目的が果たされた今、レティシアが次にやるべきことはクラウディスの野望を阻止することだ。

 けれどクラウディスと決別したあの夜、レティシアは身をもって知ってしまった。クラウディスにレティシアの力は及ばない。逃げるだけで精一杯だったレティシアがクラウディスに対抗できる手段は、もう永劫封印しか残されていないのだ。


「……私には、力がありませんから」

「結晶石の封印が解けることを危惧しているのはわかる。じゃが、わしもガッシュと同じで永劫封印は早計じゃと思うぞ」

「でも……」

「月の結晶石はあくまで『石』に過ぎぬ。確かに出所でどころがヘルズゲートであったため、あまり良い印象はないが……月の魔力はわしらが使う魔法にも深く影響を及ぼしておる」


 白魔法も黒魔法も、精霊たちが使う魔法もすべて月の魔力が元になっている。月の魔力とは特別なものでも何でもなく、自然界に空気のように満ちているものだ。


「月の魔力を絡め取って形にしたもの。ゆえに、結晶石とは使う者の『意思』によって、善にも悪にもなり得るのじゃ」

「それは……そうかも、しれません」


 メルドールの言わんとすることは理解できる。けれども、結晶石は既に黒い心を持った人物クラウディスに狙われているのだ。それを言うべきかどうか、短い時間で何度考えてもレティシアは答えが出せないままでいる。


『私がこの体を結晶石と共に封印することで、すべてが終わるのなら……』


 龍神界でアレスに告げた言葉、その思いは今も変わってはいない。結晶石を守るための体なら、永劫封印も自分に課せられた宿命さだめだと受け入れられる。その覚悟をして、天界を後にした。


 ――それなのに脳裏によぎるのは旅の途中で立ち寄った街の風景や、珍しい食べ物にわくわくした喜びばかりで、レティシアの決意をいたずらにかき乱してくる。


 怒鳴り声を上げる男たちが、けれども楽しそうに酒を飲んでいた酒場。串刺しにされた大きな肉の塊をどうやって食べるのか疑問に思った夜。朝露に濡れた湖畔のほとり、水を飲みに来た金色のたてがみの美しい白馬。

 書物では知ることの出来なかった下界の風景。目の当たりにした新しい景色、匂い、驚き。それらを直に見て、肌に触れ――楽しいと、思ってしまった。


 室内に落ちる沈黙が痛い。何か言わなければと思うのに、レティシアは小さく喘ぐだけで言葉が何も見つからなかった。

 自分がすべきことはわかりきっているのに、自分が何をしたいのか、思考がぐちゃぐちゃに入り乱れて纏まらない。


「レティシア」


 空気を裂くように、澄んだアレスの声が響く。はっと顔を上げるよりも先に、腕を掴まれていた。


「悪い。少し外す」


 そう言ったアレスは誰の返事も待たずに、掴んだレティシアの腕を引っ張りながら部屋を出て行ってしまった。




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