第16話 来訪者

 雲ひとつないどこまでも青く晴れ渡った空を、たくさんの飛竜たちが伸びやかに飛び回っている。穏やかな温かい日差しが降り注ぎ、肌を撫でる風は清々しい緑の香りを纏いながら優しく吹き抜けていく。こんな風に気持ちよく晴れた日を、龍神界では「飛竜日和」と呼んでいた。


 飛竜日和の日、地上には雲の代わりに飛竜の影が流れていく。

 青空に響く子供たちの笑い声。大きく広げられた皮膜が切る風の音。長閑のどかな集落が活気づく、飛竜も人も笑顔になる安穏な時間。


 この飛竜日和を楽しみにする子供も多く、勿論ロゼッタもそのうちの一人だ。

 しかし、今日は少しばかり状況が違う。

 空を駆け上がって行くのはアレスであり、ロゼッタは暫くの間ガッシュの家で留守番することになっていた。


 ぷうっと頬を膨らませて俯いた妹の頭にぽんっと手を置いて、そのまま身を屈めたアレスが目線をロゼッタと同じにする。


「すぐに帰って来る。それまでガッシュの言うことをちゃんと聞いてろよ」

「お姉ちゃんも一緒に帰って来る?」


 大きな瞳を向けられて、レティシアが困ったように微笑した。


「これ、ロゼッタ。お主がそんなでは、アレスたちが安心して行けんじゃろう。心配せんでも大丈夫じゃ」

「でも……お姉ちゃん、ずっと寝込んでたのに……本当に大丈夫?」


 結晶石についてアレスと言い合いになった後、レティシアは熱を出してそのまま一週間ほど寝込んでしまった。天界を出てから休む暇もなく体を酷使し続けた当然の結果だったが、そのほとんどは精神的な負担が大きかったのだろう。そう見解を示したガッシュに、アレスはまるで懺悔でもするかのように毎日レティシアの見舞いに足を運んだ。


 熱を出してから二日後に目を覚まし、自由に動けるまで更に二日を要した。そのあと大事を取って数日安静にした今日、アレスたちはやっと魔法都市アーヴァンへ出発する。

 その間メレシャと一緒にずっと看病していたロゼッタが、魔法都市までの長い旅に出るレティシアを心配するのも無理はない。その気持ちを汲み取ってロゼッタの前に腰を落としてしゃがんだレティシアが、彼女の小さな手を両手でふわりと包み込んだ。


「ロゼッタ。今まで本当にありがとう」

「お姉ちゃん……」

「傷をちゃんと治してくるから、戻って来たら……また花冠の作り方を教えてくれるかしら」

「うん!」


 さっきまでの悲しい表情を一変させて目を輝かせたロゼッタが、嬉しそうに何度も頷いてレティシアに抱き着いた。不意を突かれ、ロゼッタの勢いを受け止めきれなかった体が後ろへ傾く。かと思うと絶妙のタイミングで後ろから手が伸び、尻餅をつきそうになったレティシアの体が力強いアレスの腕に支えられた。


「こいつはまだ病み上がりだ。少し加減してやれ」


 優しく諭され、ロゼッタがあっと小さく声を上げる。


「忘れてた。お姉ちゃん、ごめんなさい」

「いいのよ。大丈夫。私こそ、上手に受け止められなくてごめんなさい」


 律儀に謝るレティシアに思わず吹き出しそうになり、アレスは慌てて視線を空へ向けると誤魔化すように指笛を吹いた。澄んだ音色に導かれ、空を飛ぶ飛竜たちの間を縫って大きな一頭の飛竜がアレスたちの前に降り立った。

 羽ばたきによって煽られた服を手で押さえながら、レティシアが目の前に降りた飛竜の姿を惚けたように見上げた。


 結界内で暮らしていたレティシアにとって、こんな風に間近で飛竜を見られることはまずないだろう。それがこうして手の届く距離にいて、巨体の割にはつぶらな漆黒の瞳と視線を合わせることだってできる。

 目の前の現実に感動し、触れてみたいと思わず手を伸ばしたレティシアだったが、一瞬の躊躇いの後アレスへと窺うように視線を向けた。


「あの……触れても?」

「ああ、構わない」


 許可を得て、レティシアが恐る恐る手を伸ばし、深緑色の大きな体にそっと触れた。少し硬い肌の感触を確かめるように撫でてみると、飛竜がゆっくりと首を傾けてレティシアを見つめた。


「この前は助けてくれてありがとう」


 レティシアの言葉が伝わったかどうかは分からないが、少し抑えた声で飛竜が小さく鳴いた。


「さあ、もう行くがいい。ここから魔法都市アーヴァンまで飛竜でも二日はかかるじゃろうが、レティシア殿の体調もある。あまり無理はするでないぞ」

「わかってるよ」


 アレスが手綱を手に取ると、それを感じた飛竜が乗りやすいように身を屈める。その首元を軽く撫でるアレスと目を合わせていた飛竜が、ふと屈めていた首を上げて視線を遠くに投げかけた。何かを感じ取ったかのような気配に、アレスも飛竜の視線を辿って振り返る。

 村の入り口の方から、こちらに向かって一直線に走って来る白い獣の姿が見えた。


「そこ! ちょっと待ってくれ!」


 大声で叫んだのは、大きな白いライオンだ。

 たてがみを豪快に靡かせながら突進してくるライオンに、背の低いロゼッタが体を大きく震わせて驚愕する。


「何、あれ……っ!」


 その場にいた全員が驚いた表情を浮かべて凝視する中、白いライオンが物凄いスピードでこちらへと駆け寄ってきた。――かと思うと。


「うおっ! 止まらねえ!」


 ただならぬ駿足かと思いきや、ただ加速しすぎたスピードを止められなかっただけのライオンが、目指していた飛竜の巨体にそのままの勢いで激しく衝突した。

 巻き添えを食らわないようにレティシアとロゼッタを自分の方へ引き寄せたアレスの目の前で、飛竜に勢いよくぶつかったライオンが仰向けのままぴくぴくと痙攣している。一方飛竜は脇腹に感じたかすかな衝撃に首を向けただけで、後は我関せずといったように欠伸をしながら再び顔を元の位置に戻した。

 暫くの間仰向けに倒れたままだったライオンはやがてうっすらと目を開けると、ふらつく体をゆっくりと立ち上がらせて数回頭を激しく横に振った。


「……ってええ! 何だよ、この石みたいな体は!」


 頭を振るたびに、立派な白いたてがみが豪快に揺れる。地面に腰を落とし、前足だけ立たせたままで座った状態になったライオンが、改めて水色の瞳で周囲を見回した。


 少し腰の曲がった老人と、大きな瞳で驚いた表情を浮かべている巻き毛の少女。

 長い銀髪が目を引く儚げな雰囲気の女と、その横に立つ鋭い眼光の男。

 それぞれが困惑した、あるいは警戒するような眼差しでライオンを見つめている。四人分の視線を一斉に受けたライオンは、なぜか少し照れたように愛想笑いを浮かべた。


「何か……騒がせちゃったみたいだな」

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